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空を奪った天候師  作者: ありんこ


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4/4

【最終話】還天日

夜明け前の王都は、青かった。


まだ太陽は昇っていない。


それなのに、空だけが薄く青く光っている。


雲ひとつない。


星もない。


風もない。


まるで、王都の上にだけ透明な蓋が置かれているようだった。


ミラ・セリスは、王立天候局(てんこうきょく)の地下にある小部屋で、その空を見上げていた。


窓は小さい。


鉄格子(てつごうし)の向こうに見えるのは、切り取られた空だけだ。


それでも分かった。


天路盤(てんろばん)が、夜通し王都の晴天固定を強めている。


昨日よりも、さらに強く。


冷たく。


王都の空を、晴天という形に押し込めている。


ミラの手首には、細い拘束具(こうそくぐ)がつけられていた。重くはない。けれど、天候師の魔力を乱すための金属が混ぜられている。


胸元にあった天路儀(てんろぎ)は、取り上げられていた。


手の中に何もない。


それが、こんなにも心細いとは思わなかった。


「勝てない」


ミラは小さく呟いた。


最初から分かっていた。


個人の天路儀で、国家の天候具には勝てない。


王都全域を覆う空蔵(そらぐら)の天路盤。


百人を超える天候師(てんこうし)の天路儀を束ね、王都の風、湿り気、雲の進路を動かす巨大な盤。


それを、ミラ一人の力で押し返すことはできない。


できるはずがない。


けれど。


勝つ必要はない。


天路盤が曲げた雨路は、まだ元の道を覚えている。


昨日、空蔵で見えた、あの細い道。


レムナ村へ戻るはずだった、空の道。


ミラは、まだその線を覚えていた。


目を閉じれば、見える。


王都の青い膜の外側。


銀色に歪んだ雲の流れ。


無理に曲げられた雨路(あまじ)(ほころ)び。


その下に、かすかに残っていた本来の道。


「戻す道なら、見える」


自分に言い聞かせるように、ミラは言った。


そのとき、小部屋の鍵が鳴った。


ミラは顔を上げる。


扉が開き、近衛兵(このえへい)が一人入ってきた。


昨夜、セドリックに付き従っていた兵士だった。


彼は何も言わず、布に包まれたものを差し出した。


ミラは息を呑んだ。


「これは」


「殿下からです」


布の中にあったのは、ミラの天路儀だった。


「どうして」


「殿下が言われました。『彼女から天路儀を奪うな。空を見る目を奪うな』と」


ミラは天路儀を両手で受け取った。


金属の輪は冷たかった。


それでも、指に馴染む。


胸の奥で、何かが戻った気がした。


「殿下は」


「別室にて軟禁(なんきん)されています」


近衛兵は短く答えた。


「ですが、長くはもちません。バルト宰相は、夜明けと同時に天路盤の晴天固定を完全に戻すつもりです」


「完全に」


「王都の民に見せるためです。天恵祭は乱されていない。王都の空は守られている。そう示すために」


ミラは窓の外を見た。


青い空。


冷たい晴天。


そこに、雨の気配はない。


「そのときが、一番強く雨路を曲げる瞬間です」


「殿下も、そう言われました」


近衛兵は少しだけ目を伏せた。


「『勝つな。戻せ』と」


ミラは、天路儀を胸元に抱いた。


「ありがとうございます」


「私は、命令に従っただけです」


「それでも」


近衛兵は扉の外を見た。


「急いでください。空蔵へ通じる観測水路(かんそくすいろ)の扉を開けてあります」


ミラは拘束具を見た。


近衛兵が鍵を差し込む。


手首の金具が外れた。


魔力の流れが、少しずつ戻ってくる。


ミラは立ち上がった。


「殿下を助けに」


「先に空を」


近衛兵は言った。


「殿下なら、そう言います」


ミラは一度だけ目を閉じた。


その通りだと思った。


彼は、今ならそう言うだろう。



観測水路は、王都の地下を細く走っている。


天候局の地下には、王都の貯水路(ちょすいろ)と観測水路が入り組んでいた。雨量を測り、湿り気を読み、空へ昇る水の流れを知るための水路だ。


かつてミラは、この場所が好きだった。


石壁に響く水音。


天候師たちが残した古い印。


風向きを示す小さな銅板。


王都の空を支える秘密の場所。


それが誇りだった。


今は、そのすべてが違って見える。


王都の空を守るために、どれだけの空が曲げられてきたのか。


ミラは水路沿いを走った。


天路儀が胸元で震えている。


空蔵が近い。


天路盤が、最大に近い力で動いている。


王都の晴天固定。


周辺雨雲迂回(うかい)


雨路再配列。


レムナ村周辺、雨雲進路変更。


命令の言葉が、天路儀を通じて針の震えになって伝わってくる。


硬い。


冷たい。


まっすぐではない。


天路盤は王都の空を守るために、周囲の空を無理やり押し曲げている。


その力が強くなるほど、雨路の歪みははっきり見えた。


ミラは息を整えた。


勝つのではない。


壊すのでもない。


空が戻る道を、開く。


そのために、いま走っている。



空蔵では、すでに夜明けの儀式が始まっていた。


巨大な天路盤の周囲に、天候師たちが並んでいる。


盤面には王都、海、川、山脈、街道、村、畑が刻まれていた。その上を、銀色の線が幾重にも流れている。


王都の上には、青い光の膜があった。


昨日よりも濃い。


昨日よりも冷たい。


その膜の外側を、雨雲を示す灰色の線が避けていく。


王都へ入ろうとする流れは、すべて押し返されていた。


奥には、バルト・ヴェルグラムが立っている。


黒い上着。


銀の飾り鎖。


疲れた顔。


それでも、その声には少しも迷いがなかった。


「晴天固定を最大へ。王都の東西門、上空湿度を下げろ。南からの雲は外海へ流せ。北西の雨路は山脈外へ転流(てんりゅう)


天候師たちは、命じられるまま天路儀へ魔力を通していく。


空蔵の中央で、天路盤が低く鳴った。


「王都の空は、守られる」


バルトは言った。


「昨日の混乱は、反逆者による一時的な乱れにすぎない。夜明けとともに、王都は再び晴天を得る。民は空を見て安心する。商人は店を開き、貴族は式を続け、王国は揺らがない」


その言葉に、何人かの天候師が頷いた。


誰もが悪人ではない。


ミラはそれを知っている。


彼らも王都を守ろうとしている。


自分たちの仕事を信じている。


王都が晴れていれば、人々が安心すると信じている。


だからこそ、怖かった。


信じている人間ほど、曲げている空を見ない。


ミラは水路側の小扉から空蔵へ入った。


最初に気づいたのは、一人の若い天候師だった。


彼女は目を見開く。


「ミラ」


その声で、空蔵の視線が一斉に集まった。


バルトが振り返る。


「なぜ、ここにいる」


「天路儀を返してもらいました」


ミラは胸元の天路儀を掲げた。


「まだ、私には見るべき空があります」


「拘束しろ!」


バルトの声が響いた。


兵士たちが動く。


その直後、別の扉が開いた。


「その必要はない」


セドリック・オルヴァンが入ってきた。


彼の外套は乱れていた。片袖に擦れた跡がある。別室から無理に出てきたのだと分かった。


それでも、彼はまっすぐ立っていた。


「殿下」


バルトの声が低くなる。


「まだ休んでいただくよう命じたはずです」


「私は休むために王太子になったわけではない」


セドリックは天路盤の前まで進んだ。


「バルト。天路盤の運用を止めろ」


「できません」


「では、記録を公開しろ。王都の晴天が、どの雨路を曲げて作られていたのか。どの村が雨を失ったのか。民の前に出せ」


空蔵がざわめいた。


バルトの目が細くなる。


「王都は混乱します」


「混乱を恐れて、嘘の晴天を重ねるのか」


「嘘ではありません。必要な運用です」


「必要だと決めたのは、誰だ」


セドリックの声が強くなった。


「王都か。天候局か。宰相か。雨を失った村に、尋ねたことはあるのか」


バルトは答えなかった。


ミラは、天路盤を見た。


青い膜が強くなっている。


いま、王都の空は最も強く掴まれている。


同時に、王都の外側で雨路が最も大きく歪んでいる。


その歪みの奥に、見える。


レムナ村へ戻る道。


細い。


今にも消えそうだ。


けれど、確かに残っている。


「殿下」


ミラは言った。


「いまです」


セドリックが頷く。


「何をすればいい」


「天路盤の固定を、ほんの少し緩めてください」


バルトが笑った。


「無駄です。天路盤は王都全域を覆う国家の天候具。個人の天路儀ひとつでどうにかできるものではない」


「分かっています」


ミラは答えた。


「私は、天路盤を押し返しません」


「では何をする」


「戻る道を、空に思い出させます」


バルトの顔が険しくなった。


「詩のような言葉で、天候は動きません」


「詩ではありません」


ミラは、天路儀を開いた。


金属の輪が回る。


細い針が震える。


王都の晴天固定ではなく、その外側の歪んだ雨路へ。


「空は、無理に曲げられた道を覚えています。雲も、風も、湿り気も、元の流れへ戻ろうとする。天候師は、それを読むためにいる」


ミラは天路盤へ歩み寄った。


兵士が遮ろうとする。


セドリックが前へ出た。


「下がれ」


「殿下、これは」


「王太子として命じる。下がれ」


兵士たちが止まる。


ミラは天路盤の外周(がいしゅう)に手を触れた。


冷たかった。


巨大な命令が、手のひらから流れ込んでくる。


王都を晴らせ。


雲を遠ざけろ。


雨を避けろ。


祭りを守れ。


王国を守れ。


その声は、何度も聞いた声だった。


天路盤そのものの声ではない。


長年、天候師たちがこの盤へ流し込んできた願いだ。


守りたい。


濡らしたくない。


乱したくない。


不安にさせたくない。


王都を、晴れたままにしておきたい。


ミラは、唇を噛んだ。


その願いも、嘘ではない。


だから痛かった。


「ミラ」


セドリックの声がした。


「できるか」


「できる、ではありません」


ミラは小さく息を吸った。


「やります」


天路儀へ魔力を通す。


いつもより細く。


弱く。


けれど、深く。


天路盤に同期するのではない。


従うのでもない。


盤面の銀線の下にある、もっと古い流れを読む。


海から昇る湿った風。


丘陵を越える空気。


低い山にぶつかって育つ雲。


レムナ村の畑へ向かう雨路。


子どものころ、雨上がりの土に足を沈めた感覚。


屋根を叩く音。


母が洗濯物を抱えて笑っていた声。


父が空を見上げて、「今年はよく降る」と言った日のこと。


全部、覚えている。


空だけではない。


人も、覚えている。


その記憶を、ミラは天路儀へ流した。


針が震えた。


天路盤の青い膜の外側で、細い雨路が浮かび上がる。


空蔵にいた天候師たちが息を呑んだ。


「そんな」


「個人の天路儀で、あの下層の線を読むのか」


「雨路の原線だ」


誰かが呟いた。


バルトが声を荒げる。


「固定を強めろ!」


何人かの天候師が反射的に天路儀へ手をかけた。


だが、動かない者もいた。


昨日、顔を伏せた天候師たちだった。


ミラは彼らを見る。


「お願いです」


声は小さかった。


でも、空蔵に響いた。


「固定を押し返す必要はありません。少しだけ、手を離してください。空が戻ろうとする力を、邪魔しないでください」


若い天候師が震える声で言った。


「でも、王都が曇る」


「曇ります」


ミラは頷いた。


「雨も降るかもしれません」


「民が怒る」


「怒るでしょう」


「それでも?」


ミラは天路盤の上の雨路を見た。


「それでも、雨が必要な土地があります」


沈黙が落ちた。


その沈黙を破ったのは、セドリックだった。


「王太子として命じる」


彼は天候師たちへ向き直った。


「王都の晴天固定を緩めよ。王都の上に戻る雲を、拒むな」


バルトが叫んだ。


「殿下!」


セドリックは振り返らない。


「王国は王都だけではない。王都の空だけを守るために、王国の民から雨を奪うことを、私は認めない」


天候師たちが、一人、また一人と天路儀から手を離した。


すべてではない。


だが、十分だった。


天路盤の青い膜が揺れる。


強い固定に、小さな隙間が生まれる。


ミラは、その瞬間を逃さなかった。


「今」


天路儀の針を、レムナ村へ向ける。


押すのではない。


引くのでもない。


ただ、曲げられた道の結び目をほどく。


王都の空を守るために固く結ばれた、雨路の歪み。


それが、ひとつ、緩んだ。


天路盤が大きく鳴った。


青い膜に、細い亀裂のような揺らぎが走る。


王都の上空へ、灰色の雲が流れ込む。


風が変わる。


湿った空気が、石壁の奥まで入り込む。


天候師たちの髪が揺れた。


「固定を戻せ!」


バルトが叫ぶ。


しかし、もう遅かった。


空が、戻り始めていた。



王都の広場では、人々が一斉に空を見上げていた。


昨日より濃い雲が、王都の上へ広がっていく。


露店の布が揺れる。


花びらが舞い上がる。


貴族の馬車の窓が閉まる。


誰かが叫んだ。


「また曇ったぞ!」


「天候局は何をしている!」


「王太子殿下はどこだ!」


空は答えない。


ただ、王都の上へ雲を戻していく。


最初の一滴は、まだ落ちなかった。


だが、誰もが分かった。


この空は、もう天恵祭の晴天ではない。


王都だけを守る空ではない。


王都もまた、同じ空の下に戻されようとしている。



レムナ村では、男の子が戸口に立っていた。


手には、昨日と同じ水桶(みずおけ)を持っている。


母親が奥から声をかけた。


「また出すの?」


男の子は空を見た。


「今日は、来る気がする」


「昨日も、そう言ったでしょう」


「でも、今日は匂いが違う」


母親は何も言わなかった。


言えば、自分も期待してしまう。


だから、黙っていた。


男の子は桶を抱えて、井戸のそばへ出た。


村人たちも、少しずつ外に出てきた。


誰も声を上げない。


誰も喜ばない。


まだ、信じない。


信じて、裏切られるのが怖いからだ。


空は暗くなっていた。


今度の雲は、薄くなかった。


厚く、重く、村の上で留まっている。


風が変わる。


乾いた土の上を、湿った匂いが走る。


老人が、空を見上げた。


父が、井戸のそばに立った。


男の子が、水桶を地面に置く。


ぽつり。


小さな音がした。


最初の一滴が、桶の底を叩いた。


男の子は、目を丸くした。


ぽつり。


次の一滴が、乾いた土に落ちる。


土は、水を吸う音を立てた。


さらに一滴。


また一滴。


やがて、音が増えた。


屋根を叩く。


畑を叩く。


甕の底を叩く。


誰かが息を呑んだ。


誰かが泣いた。


男の子は、水桶を抱えたまま、空を見上げた。


「落ちてきた」


その声は震えていた。


「雨って、本当に空から落ちるんだ」


その瞬間、村人たちは初めて声を上げた。


笑う者がいた。


泣く者がいた。


膝をつく者がいた。


父は空を見上げたまま、顔を濡らしていた。


雨なのか、涙なのか、もう分からなかった。


レムナ村に、雨が降った。



空蔵の天路盤は、まだ震えていた。


王都の青い膜は薄くなり、盤面の上で灰色の線が自然な流れを取り戻し始めている。


ミラは膝をついた。


魔力を使い果たし、指先の感覚が薄い。


天路儀の輪は、ゆっくりと止まっていた。


「ミラ!」


セドリックが駆け寄る。


ミラは顔を上げた。


「雨は」


「分からない」


彼は正直に言った。


「でも、王都の空は戻った」


ミラは天路盤を見た。


レムナ村へ続く雨路が、かすかに光っている。


それは、王都の青い膜よりずっと細い。


けれど、真っ直ぐだった。


「降っています」


ミラは小さく言った。


理由は分からない。


見たわけではない。


けれど、分かった。


あの道が、やっと村へ届いたのだと。


バルトが近づいてきた。


顔は青ざめていた。


「あなたは、王都の空を乱した」


ミラは立ち上がろうとして、ふらついた。


セドリックが支える。


「はい」


ミラは答えた。


「私は、王都の晴天を奪いました」


空蔵が静まり返る。


ミラは続けた。


「でも、王都もまた、レムナ村の雨路を奪っていました」


バルトの目が鋭くなる。


「それは詭弁です」


「いいえ」


セドリックが言った。


彼はミラの前に立つ。


「それは、事実だ」


「殿下」


「天路盤の運用記録を公開する」


バルトの顔が変わった。


「なりません」


「なる。王太子として命じる」


「王都が混乱します」


「混乱するだろう」


セドリックは言った。


「怒る者もいる。困る者もいる。ミラを許さない者もいるだろう」


ミラは目を伏せた。


彼女の罪は消えない。


天恵祭を壊した。


王都の民を不安にさせた。


それは事実だ。


だが、セドリックは続けた。


「だが、王都が辺境の雨路を曲げ続けていた事実も消えない」


バルトは黙った。


セドリックは天路盤へ向き直る。


「今日を、還天日(かんてんび)とする」


ミラは顔を上げた。


「還天日」


「曲げられた空を、天へ還す日だ」


セドリックの声は、空蔵の奥まで届いた。


「これより、天路盤の晴天固定は制限する。王都だけを守る運用を禁じる。雨路を変更する場合は、影響を受ける土地へ記録を示し、承認を得る」


「そんなことをすれば、天候運用は遅れます」


バルトが低く言った。


「ええ」


セドリックは頷いた。


「遅くなる。面倒になる。式典の空が曇る日も出る」


彼は一度、王都の方を見た。


「だが、それが空だ」


沈黙が落ちた。


ミラは、天路盤の上に浮かぶ雨路を見ていた。


まだ細い。


まだ弱い。


これからも、また曲げようとする者は出るかもしれない。


すべてが今日で終わるわけではない。


だが、少なくとも一つの村に、雨は戻った。


そして一人の王太子が、晴天だけを祝福と呼ぶことをやめた。


それだけで、空は少しだけ元の形を取り戻したのだと思えた。



それから数日、王都は騒がしかった。


ミラを罰せよという声があった。


天候局を責める声もあった。


バルトを支持する貴族もいた。


王太子の判断を危ういと言う者もいた。


天恵祭の売り上げを失った商人たちは、怒りを隠さなかった。


当然だった。


ミラは、そのすべてを受け止めるしかなかった。


彼女は無罪にはならなかった。


天恵祭を乱した罪。


王都の晴天固定を無断で外した罪。


天路盤の運用に干渉した罪。


それらは、消えなかった。


ただし、極刑(きょっけい)にはならなかった。


セドリックが証言したからだ。


ミラが暴いた記録が、事実だったからだ。


そして、レムナ村に雨が降ったからだ。


バルト・ヴェルグラムは宰相職を一時退いた。


正式な裁きは、まだ先だ。


王国はすぐに変わらない。


王都もすぐには変われない。


それでも、天路盤の運用記録は公開されることになった。


雨路を曲げるときは、地図の端にある村の名まで記すことになった。


「辺境の村一つ」という言葉は、議場で禁じられた。


それは小さな変化だった。


けれど、ミラには十分に大きかった。



ひと月後。


ミラは、レムナ村の畑に立っていた。


王立天候局の白い外套は、もう着ていない。


代わりに、父が縫い直してくれた古い上着を着ている。


胸元には、天路儀があった。


返されたものだ。


王立天候局の備品ではなく、ミラ・セリス個人へ預けるものとして。


書面には、セドリックの署名(しょめい)が添えられていた。


あなたには、まだ空を見ていてほしい。


手紙には、それだけが書かれていた。


村の畑には、まだ傷が残っている。


一度の雨で、すべてが戻るわけではない。


井戸の水も、すぐには満ちない。


痩せた麦が、急に豊かになるわけでもない。


それでも、土の色は変わり始めていた。


乾ききって白くなっていた畑に、少しだけ黒さが戻っている。


子どもたちは、雨のあとにできた小さな水たまりを踏んで遊んでいた。


母親たちは叱る。


けれど、誰も本気で止めない。


男の子が、桶を持って走ってきた。


「ミラ姉!」


「どうしたの」


「また雲が来てる!」


ミラは空を見上げた。


西から湿った風が流れている。


丘陵を越え、低い山へ向かい、雲が少しずつ厚くなっている。


天路儀を開く。


針は静かに震えた。


雨路は、まだ細い。


でも、曲がってはいなかった。


「来ると思う?」


男の子が聞いた。


ミラは少し考えた。


天候師としてなら、慎重に答えるべきだ。


空は変わる。


風は変わる。


雨は、人の願いだけでは降らない。


けれど。


「来るかもしれない」


ミラは言った。


「ほんと?」


「ほんと。でも、来なかったら、また待ちましょう」


男の子は笑った。


「うん。待てるよ。雨が来るって、もう知ってるから」


その言葉に、ミラは胸の奥が温かくなった。


空を見上げる。


青だけではない空。


雲のある空。


風の流れる空。


雨を待てる空。


遠く王都の方角にも、同じ空が続いている。


セドリックは今ごろ、曇り空の下で怒る貴族たちを相手にしているかもしれない。


天恵祭の次の開催を、晴天固定なしで行うかどうか、議論しているかもしれない。


王都の民は、まだミラを許していないかもしれない。


それでいい。


すぐに許されることを、ミラは望んでいなかった。


彼女は確かに、王都の空を奪った。


けれどそれは、奪われていた空を返すためだった。


その二つは、どちらも本当だった。


だから、背負っていくしかない。


雨が降りそうな匂いがした。


ミラは天路儀を閉じた。


もう、無理に空を曲げる必要はない。


ただ、空を見る。


空がどこへ行こうとしているのか、見失わないようにする。


それが、いまのミラにできることだった。


最初の一滴が、畑に落ちた。


男の子が笑う。


ミラも、空を見上げた。


その日、ミラは初めて思った。


晴天だけが、祝福ではない。


雨も、曇りも、風も。


誰かのものではない空が、ただそこにあること。


それこそが、天からの恵みなのだと。


曲げられた空が、還る場所を見つけた日。


その日を、人々はのちに還天日(かんてんび)と呼んだ。

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