【第2話】雨の降らない村
王都の西門を抜けるころ、空はまだ雨を落としていなかった。
ただ、晴天ではなかった。
天恵祭のために磨き上げられた青空は薄く濁り、灰色の雲が、王城の尖塔の向こうからゆっくり戻り始めている。
ミラ・セリスは、外套の裾を押さえながら石橋を渡った。
背後では、まだ鐘が鳴っている。
祝福の鐘ではない。
混乱を知らせる鐘だった。
「反逆者を逃がすな!」
遠くで兵の声がした。
ミラは振り返らなかった。
胸元の天路儀が、かすかに震えている。
針は王都を指していない。
西を指していた。
雨の降らない村へ続く、細い雨路を。
*
王都の外は、祭りの音が嘘のように静かだった。
街道の両脇には、天恵祭へ向かうはずだった荷馬車が何台も止まっている。御者たちは王都の空を見上げ、口々に何かを言い合っていた。
「天恵祭の日に雲だと?」
「天候局は何をしているんだ」
「いや、天候師が逃げたらしい」
その声が背中を追ってくる。
ミラは足を速めた。
走り続ければ、胸が痛む。けれど、止まるわけにはいかなかった。
天路儀の針は、弱く揺れ続けている。
ミラは天路盤を壊したわけではない。
雨路を完全に戻したわけでもない。
王都の晴天固定を保っていた同期を、一拍だけ外しただけだ。
ほんの小さな揺らぎ。
だが、その揺らぎのおかげで、曲げられていた雨路が一瞬だけ元の道を思い出した。
今なら、まだ辿れる。
故郷へ続く空の道を。
「ミラ・セリス!」
馬の蹄の音が背後から近づいた。
ミラは身を固くする。
逃げるには、もう遅い。
街道の砂を蹴って、数頭の馬が彼女の前に回り込んだ。
先頭にいたのは、王太子セドリック・オルヴァンだった。
白い礼装の上から、急いで羽織ったらしい濃紺の外套。祭壇に立っていたときの整った姿とは違い、頬には風で乱れた髪がかかっている。
その後ろに、近衛兵が二人いた。
セドリックは馬を降りた。
「ミラ」
ミラは、天路儀を胸元に押さえた。
「天路儀を奪いに来たのですか」
「違う」
「では、私を捕らえに?」
「それも命じられている」
「なら、同じです」
ミラが一歩下がると、近衛兵が剣へ手をかけた。
セドリックが片手を上げる。
「抜くな」
「殿下」
「抜くなと言った」
近衛兵は渋々、手を下ろした。
セドリックはミラを見る。
「話を聞く」
「王都で聞けばよかったのでは」
「王都では、君は何も話さなかった」
「話しても、信じられなかったはずです」
「それを決めるのは、私だ」
ミラは息を吐いた。
王太子としての声だった。
王都の秩序を守る者の声。
だが、その奥に、ほんの少しだけ迷いがある。
「殿下は、私を反逆者だと思っていますか」
「天恵祭を壊したのは事実だ」
「はい」
「王都の民は、君が晴天を奪ったと思っている」
「それも、事実です」
セドリックの眉が動いた。
「認めるのか」
「王都から見れば、そう見えるでしょう」
「では、なぜ逃げる」
ミラは西の空を見た。
王都の外へ続く街道の先に、低い丘陵が重なっている。
そのさらに向こうに、ミラの故郷がある。
「本当に空を奪われている場所があるからです」
セドリックは、すぐには答えなかった。
ミラは言葉を続けた。
「見れば分かります。私を捕らえるなら、そのあとにしてください」
「逃げないと誓えるのか」
「誓えません」
近衛兵が顔をしかめる。
ミラはまっすぐ言った。
「でも、私は村へ行きます。殿下が来ても、来なくても」
しばらく、風の音だけがあった。
やがてセドリックが近衛兵へ命じた。
「一人は王都へ戻り、バルト宰相に伝えろ。私はミラ・セリスを追跡中。身柄は私が直接確保する」
「しかし、殿下」
「もう一人は距離を置いてついてこい。彼女の天路儀には触れるな」
「なぜです」
セドリックはミラを見た。
「逃がすつもりはない。だが、君が何を見ているのかを確かめる」
ミラは返事をしなかった。
ただ、天路儀の針が示す西へ向き直った。
*
西へ進むほど、道の土は乾いていった。
王都の外れでは、まだ草が青かった。
貴族の別邸が並ぶ一帯には、手入れされた庭園があり、水路も澄んでいた。天恵祭の飾りを運ぶ馬車が通る道は、きちんと整えられている。
だが、半日ほど進むと景色が変わった。
草の色が薄くなる。
木の葉が丸まり、枝先が乾き、道端の小川は石だけを残していた。
セドリックは、馬の歩みを遅くした。
「ここは、王都の西丘地方か」
「はい」
「記録では、雨の多い土地だったはずだ」
「昔は」
ミラは短く答えた。
セドリックは目を細める。
「昔は?」
「私が子どものころは、春になると道がぬかるんで、馬車がよく動けなくなりました。雨のあとは、畑の匂いが強くなって、母が洗濯物を何度も干し直していた」
「今は?」
ミラは足元を見た。
靴の裏で、乾いた土が細かく砕ける。
「雨を待つ日はあります。でも、雨が来る日は減りました」
セドリックは空を見上げた。
雲はある。
だが、薄い。
ただ流れていくだけの雲だった。
「王都の晴天と、この土地に何の関係がある」
その問いは、責める声ではなかった。
本当に分からない者の声だった。
ミラは、天路儀を取り出した。
「王都を一時的に晴らすだけなら、王都の上の雲を払えば済みます」
「なら、なぜ」
「天恵祭は違います。王都全域を一日、晴天に固定する。湿った風を入れず、雨雲を寄せず、空の流れそのものを王都から避けさせる」
「それを、天路盤がしているのか」
「はい」
ミラは天路儀の輪をひとつ回した。
細い針が、西の空へ傾く。
「雨雲は消えません。流れを曲げられた雲は、別の場所へ向かいます。外海へ流されることもある。山脈の向こうへ押し出されることもある。けれど、その雲が本来通るはずだった土地には、雨が届かない」
セドリックは黙った。
ミラは続ける。
「私の故郷は、何度もその通り道から外されました」
「天候局が、意図して?」
「記録上は、迂回です。王都祭礼時の雨雲進路変更。西丘地方上空、雨雲通過回避。外海へ流す。そう書かれています」
「王国全体のためだと、天候局は言うだろう」
「言うでしょうね」
「王都が混乱すれば、商いが止まる。商いが止まれば、地方にも物資が届かなくなる」
それは、バルトがよく使う理屈だった。
ミラは少しだけ笑った。
笑ったつもりだったが、喉の奥が痛かった。
「物資が届けば、雨が降らなくても畑は育ちますか?」
セドリックは答えられなかった。
*
夕暮れ前、ミラの故郷が見えた。
村の名は、レムナ村。
王都の地図では、小さな黒い点でしかない。
けれどミラにとっては、雨の匂いを初めて知った場所だった。
丘の上から見下ろす村は、記憶よりも小さく見えた。
屋根は低く、畑は茶色く、村の中央にある井戸の周りには人影が少ない。
昔は、雨上がりになると子どもたちが泥だらけで走り回っていた。大人たちは叱りながらも笑い、畑の溝には水が流れていた。
今は、土が割れている。
畑の畝は途中で途切れ、麦の葉は細く、色も薄い。井戸のそばには、底の深さを測るための縄が置かれていた。
いや、底は見えているのかもしれない。
縄は、短く折り畳まれていた。
ミラの足が止まった。
帰ってきた。
そう思ったのに、胸が温かくならなかった。
帰ってきてしまった。
その方が近かった。
「ミラ姉?」
小さな声がした。
井戸の影から、子どもがこちらを見ていた。
痩せた男の子だった。年は七つか八つほど。手には空の水桶を持っている。
ミラは膝をついた。
「ただいま」
「王都にいたんじゃないの」
「少し、用があって戻ったの」
男の子の目が、ミラの後ろへ向く。
セドリックを見て、身を縮めた。
白い礼装は外套で隠していても、彼がただの旅人でないことはすぐ分かる。
「その人、王都の人?」
ミラが答えるより先に、セドリックが膝を折った。
「セドリックという」
男の子は、さらに警戒した。
「偉い人?」
「たぶん、そうだ」
「王都の人は、雨を持ってるの?」
セドリックの表情が止まった。
「雨を?」
男の子は真剣だった。
「王都には雨があるんでしょ。父さんが言ってた。王都では、雨の日はみんな嫌がるって」
セドリックは、何も言えなかった。
男の子は水桶を握り直す。
「雨って、本当に空から落ちるの?」
風が止まった。
ミラは目を閉じた。
この言葉を聞かせたかったわけではない。
けれど、聞かなければ、きっと分からない。
王都の晴天が、何を奪ってきたのか。
セドリックは男の子を見つめたまま、低く尋ねた。
「君は、雨を見たことがないのか」
「小さいころにあるって、おばあちゃんは言う。でも覚えてない」
「雲は?」
「来るよ。でも、すぐ薄くなる。風が変わると、向こうへ行っちゃう」
男の子は、西の空を指した。
「みんな、最初は桶を出してた。でも降らないから、今は出さない。出すと、母さんが泣く」
セドリックが息を呑んだ。
ミラは、胸元の天路儀を握りしめた。
*
村長の家は、かつての集会所だった。
扉の前には、割れた甕が並んでいる。どれも雨水を溜めるためのものだったが、今は土埃をかぶっていた。
中では、村人たちがミラを囲んだ。
喜ぶ者もいた。
驚く者もいた。
けれど、誰も大きな声を出さなかった。
声を出す力すら、惜しむようだった。
「ミラ」
奥から、父が出てきた。
手紙の文字と同じように、父の背は少し小さくなっていた。
「帰ってきたのか」
「はい」
「王都で、何かしたな」
ミラは黙った。
父は、ミラの後ろにいるセドリックを見た。
「その方は?」
セドリックが名乗ろうとする。
ミラが先に言った。
「王太子セドリック・オルヴァン殿下です」
村人たちが、一斉に息を呑んだ。
誰かが立ち上がりかけ、父が手で制した。
「膝をつく必要はない」
セドリックが言った。
その声は、王都で聞いたときよりも静かだった。
「今日は、私が見る側だ」
父はしばらく彼を見ていた。
それから、ミラへ視線を戻す。
「見せるのか」
「はい」
ミラは外套の内側から、折り畳んだ紙を取り出した。
三日前の夜、空蔵で写した天路盤の運用記録だった。
王都では、天候の動きをすべて記録に残す。
どの日に風を変えたか。
どの雨雲を迂回させたか。
どの土地の上空を避けさせたか。
誰が命じ、誰が操作したか。
王国のための記録。
けれどミラには、罪の記録に見えた。
セドリックは紙を受け取った。
灯りの下で、記録を読む。
最初は、眉を寄せるだけだった。
やがて、顔色が変わっていく。
天恵祭。王都晴天固定。
西丘地方上空、雨雲通過回避。
王太子成人式。王都晴天固定。
レムナ村上空、雨雲進入回避。
春の大市。王都晴天固定。
西丘地方雨路、山脈北側へ転流。
王都凱旋式。晴天固定。
レムナ村周辺、雨雲進路変更。
雨雲進路変更。
その言葉を見た瞬間、セドリックの手が止まった。
「雨雲進路変更とは何だ」
ミラは答えた。
「その日に村へ向かっていた雨雲を、別の進路へ流すという意味です」
「その雨雲は、どこへ行った」
ミラは父を見た。
父は静かに言った。
「外海へ流れたと、記録にはあります」
「実際には?」
「この村には来ませんでした」
セドリックは紙を見つめた。
「一度も?」
「一度も、ではありません。昔は降りました」
父の声は穏やかだった。
穏やかすぎた。
「ただ、王都の式典が増えるたびに、雨は減りました。雲が来ても、風が変わる。匂いがしても、空が逃げる。そういう日が増えました」
「なぜ、訴えなかった」
村人の一人が、小さく笑った。
乾いた笑いだった。
「どこへですか、殿下」
セドリックは顔を上げた。
「天候局へ訴えれば、記録には『調整済み』と書かれる。役所へ訴えれば、『王都の安定のため』と返される。王都の晴天を疑えば、王国の恵みに逆らうのかと言われる」
別の老人が続けた。
「王都が晴れるたび、この村は静かになりました。最初は怒った。次に泣いた。その次に、誰も空を見なくなった」
セドリックは記録紙を握った。
紙が小さく鳴る。
ミラはその手を見ていた。
彼は知らなかった。
本当に知らなかったのだ。
それが救いなのか、罪なのか、ミラにはまだ分からなかった。
*
夜が近づいていた。
村の外れで、ミラとセドリックは並んで立っていた。
西の空には、雲があった。
分厚い雲ではない。
けれど、確かに湿った風を含んだ雲だった。
村人たちは、誰も外に出てこなかった。
期待して裏切られることに慣れすぎているのだ。
セドリックが低く言った。
「王都の晴天が、この村から雨を奪っていた」
「正確には、雨が来る道を曲げていました」
「同じことだ」
その言葉に、ミラは少し驚いた。
セドリックは空を見ていた。
「言い方を変えても、結果は同じだ。ここに雨は来なかった」
遠くで風が鳴る。
天路儀の針が、かすかに震えた。
ミラは胸元を見た。
雲は、村へ向かっている。
だが、その線が途中で不自然に曲がっていた。
王都の方角へではない。
北へ。
山脈の向こうへ。
おそらく、天路盤が再び固定を強めたのだ。
ミラは唇を噛んだ。
「また、曲げられます」
「誰が」
「バルト宰相です。天路盤を使って、王都の晴天を戻そうとしている」
セドリックは、険しい顔で空を見る。
「ここまで来ている雲まで、逸らすのか」
「天路盤ならできます」
「君の天路儀では?」
ミラは小さく首を振った。
「個人の天路儀で、天路盤に勝つことはできません」
「なら、どうする」
その問いに、ミラはすぐ答えられなかった。
勝てない。
押し返せない。
王都の天路盤は大きすぎる。
でも、王都で晴天固定を一拍だけ外したあの瞬間、見えたものがあった。
天路盤が強い力で曲げた雨路には、綻びがある。
曲げられた空は、元に戻る道を覚えている。
「勝つのではありません」
ミラは言った。
セドリックが彼女を見る。
「戻す道を、探します」
そのとき、子どもの声がした。
昼間の男の子が、家の戸口から空を見ていた。
「降る?」
ミラは答えられなかった。
セドリックも答えられなかった。
雲は、村の上へ来かけていた。
けれど、風が変わる。
雲の端が、ゆっくり北へ流れていく。
男の子は、しばらく空を見上げていた。
手には、空の水桶を持っている。
やがて、その手を下ろした。
雨は、来なかった。
一滴も。
セドリックは、何も言わなかった。
ただ、天路盤の記録紙を強く握りしめていた。
その夜、王都の晴天はまだ守られていた。
そして、レムナ村の空は、またひとつ雨を失った。




