表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
空を奪った天候師  作者: ありんこ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/4

【第2話】雨の降らない村

王都の西門を抜けるころ、空はまだ雨を落としていなかった。


ただ、晴天ではなかった。


天恵祭(てんけいさい)のために磨き上げられた青空は薄く濁り、灰色の雲が、王城の尖塔(せんとう)の向こうからゆっくり戻り始めている。


ミラ・セリスは、外套(がいとう)の裾を押さえながら石橋(いしばし)を渡った。


背後では、まだ鐘が鳴っている。


祝福の鐘ではない。


混乱を知らせる鐘だった。


「反逆者を逃がすな!」


遠くで兵の声がした。


ミラは振り返らなかった。


胸元の天路儀(てんろぎ)が、かすかに震えている。


針は王都を指していない。


西を指していた。


雨の降らない村へ続く、細い雨路(あまじ)を。



王都の外は、祭りの音が嘘のように静かだった。


街道の両脇には、天恵祭(てんけいさい)へ向かうはずだった荷馬車が何台も止まっている。御者(ぎょしゃ)たちは王都の空を見上げ、口々に何かを言い合っていた。


「天恵祭の日に雲だと?」


「天候局は何をしているんだ」


「いや、天候師が逃げたらしい」


その声が背中を追ってくる。


ミラは足を速めた。


走り続ければ、胸が痛む。けれど、止まるわけにはいかなかった。


天路儀(てんろぎ)の針は、弱く揺れ続けている。


ミラは天路盤(てんろばん)を壊したわけではない。


雨路(あまじ)を完全に戻したわけでもない。


王都の晴天固定を保っていた同期(どうき)を、一拍だけ外しただけだ。


ほんの小さな揺らぎ。


だが、その揺らぎのおかげで、曲げられていた雨路が一瞬だけ元の道を思い出した。


今なら、まだ辿れる。


故郷へ続く空の道を。


「ミラ・セリス!」


馬の(ひづめ)の音が背後から近づいた。


ミラは身を固くする。


逃げるには、もう遅い。


街道の砂を蹴って、数頭の馬が彼女の前に回り込んだ。


先頭にいたのは、王太子(おうたいし)セドリック・オルヴァンだった。


白い礼装(れいそう)の上から、急いで羽織ったらしい濃紺(のうこん)の外套。祭壇(さいだん)に立っていたときの整った姿とは違い、頬には風で乱れた髪がかかっている。


その後ろに、近衛兵(このえへい)が二人いた。


セドリックは馬を降りた。


「ミラ」


ミラは、天路儀を胸元に押さえた。


「天路儀を奪いに来たのですか」


「違う」


「では、私を捕らえに?」


「それも命じられている」


「なら、同じです」


ミラが一歩下がると、近衛兵が剣へ手をかけた。


セドリックが片手を上げる。


「抜くな」


「殿下」


「抜くなと言った」


近衛兵は渋々、手を下ろした。


セドリックはミラを見る。


「話を聞く」


「王都で聞けばよかったのでは」


「王都では、君は何も話さなかった」


「話しても、信じられなかったはずです」


「それを決めるのは、私だ」


ミラは息を吐いた。


王太子としての声だった。


王都の秩序を守る者の声。


だが、その奥に、ほんの少しだけ迷いがある。


「殿下は、私を反逆者(はんぎゃくしゃ)だと思っていますか」


「天恵祭を壊したのは事実だ」


「はい」


「王都の民は、君が晴天を奪ったと思っている」


「それも、事実です」


セドリックの眉が動いた。


「認めるのか」


「王都から見れば、そう見えるでしょう」


「では、なぜ逃げる」


ミラは西の空を見た。


王都の外へ続く街道の先に、低い丘陵(きゅうりょう)が重なっている。


そのさらに向こうに、ミラの故郷がある。


「本当に空を奪われている場所があるからです」


セドリックは、すぐには答えなかった。


ミラは言葉を続けた。


「見れば分かります。私を捕らえるなら、そのあとにしてください」


「逃げないと誓えるのか」


「誓えません」


近衛兵が顔をしかめる。


ミラはまっすぐ言った。


「でも、私は村へ行きます。殿下が来ても、来なくても」


しばらく、風の音だけがあった。


やがてセドリックが近衛兵へ命じた。


「一人は王都へ戻り、バルト宰相に伝えろ。私はミラ・セリスを追跡中。身柄は私が直接確保する」


「しかし、殿下」


「もう一人は距離を置いてついてこい。彼女の天路儀には触れるな」


「なぜです」


セドリックはミラを見た。


「逃がすつもりはない。だが、君が何を見ているのかを確かめる」


ミラは返事をしなかった。


ただ、天路儀の針が示す西へ向き直った。



西へ進むほど、道の土は乾いていった。


王都の外れでは、まだ草が青かった。


貴族の別邸(べってい)が並ぶ一帯には、手入れされた庭園(ていえん)があり、水路も澄んでいた。天恵祭の飾りを運ぶ馬車が通る道は、きちんと整えられている。


だが、半日ほど進むと景色が変わった。


草の色が薄くなる。


木の葉が丸まり、枝先が乾き、道端の小川は石だけを残していた。


セドリックは、馬の歩みを遅くした。


「ここは、王都の西丘地方(にしおかちほう)か」


「はい」


「記録では、雨の多い土地だったはずだ」


「昔は」


ミラは短く答えた。


セドリックは目を細める。


「昔は?」


「私が子どものころは、春になると道がぬかるんで、馬車がよく動けなくなりました。雨のあとは、畑の匂いが強くなって、母が洗濯物を何度も干し直していた」


「今は?」


ミラは足元を見た。


靴の裏で、乾いた土が細かく砕ける。


「雨を待つ日はあります。でも、雨が来る日は減りました」


セドリックは空を見上げた。


雲はある。


だが、薄い。


ただ流れていくだけの雲だった。


「王都の晴天と、この土地に何の関係がある」


その問いは、責める声ではなかった。


本当に分からない者の声だった。


ミラは、天路儀を取り出した。


「王都を一時的に晴らすだけなら、王都の上の雲を払えば済みます」


「なら、なぜ」


「天恵祭は違います。王都全域を一日、晴天に固定する。湿った風を入れず、雨雲を寄せず、空の流れそのものを王都から避けさせる」


「それを、天路盤がしているのか」


「はい」


ミラは天路儀の輪をひとつ回した。


細い針が、西の空へ傾く。


「雨雲は消えません。流れを曲げられた雲は、別の場所へ向かいます。外海(そとうみ)へ流されることもある。山脈の向こうへ押し出されることもある。けれど、その雲が本来通るはずだった土地には、雨が届かない」


セドリックは黙った。


ミラは続ける。


「私の故郷は、何度もその通り道から外されました」


「天候局が、意図して?」


「記録上は、迂回(うかい)です。王都祭礼時の雨雲進路変更あまぐもしんろへんこう。西丘地方上空、雨雲通過回避。外海へ流す。そう書かれています」


「王国全体のためだと、天候局は言うだろう」


「言うでしょうね」


「王都が混乱すれば、商いが止まる。商いが止まれば、地方にも物資が届かなくなる」


それは、バルトがよく使う理屈だった。


ミラは少しだけ笑った。


笑ったつもりだったが、喉の奥が痛かった。


「物資が届けば、雨が降らなくても畑は育ちますか?」


セドリックは答えられなかった。



夕暮れ前、ミラの故郷が見えた。


村の名は、レムナ村。


王都の地図では、小さな黒い点でしかない。


けれどミラにとっては、雨の匂いを初めて知った場所だった。


丘の上から見下ろす村は、記憶よりも小さく見えた。


屋根は低く、畑は茶色く、村の中央にある井戸の周りには人影が少ない。


昔は、雨上がりになると子どもたちが泥だらけで走り回っていた。大人たちは叱りながらも笑い、畑の溝には水が流れていた。


今は、土が割れている。


畑の(うね)は途中で途切れ、麦の葉は細く、色も薄い。井戸のそばには、底の深さを測るための縄が置かれていた。


いや、底は見えているのかもしれない。


縄は、短く折り畳まれていた。


ミラの足が止まった。


帰ってきた。


そう思ったのに、胸が温かくならなかった。


帰ってきてしまった。


その方が近かった。


「ミラ姉?」


小さな声がした。


井戸の影から、子どもがこちらを見ていた。


痩せた男の子だった。年は七つか八つほど。手には空の水桶(みずおけ)を持っている。


ミラは膝をついた。


「ただいま」


「王都にいたんじゃないの」


「少し、用があって戻ったの」


男の子の目が、ミラの後ろへ向く。


セドリックを見て、身を縮めた。


白い礼装は外套で隠していても、彼がただの旅人でないことはすぐ分かる。


「その人、王都の人?」


ミラが答えるより先に、セドリックが膝を折った。


「セドリックという」


男の子は、さらに警戒した。


「偉い人?」


「たぶん、そうだ」


「王都の人は、雨を持ってるの?」


セドリックの表情が止まった。


「雨を?」


男の子は真剣だった。


「王都には雨があるんでしょ。父さんが言ってた。王都では、雨の日はみんな嫌がるって」


セドリックは、何も言えなかった。


男の子は水桶を握り直す。


「雨って、本当に空から落ちるの?」


風が止まった。


ミラは目を閉じた。


この言葉を聞かせたかったわけではない。


けれど、聞かなければ、きっと分からない。


王都の晴天が、何を奪ってきたのか。


セドリックは男の子を見つめたまま、低く尋ねた。


「君は、雨を見たことがないのか」


「小さいころにあるって、おばあちゃんは言う。でも覚えてない」


「雲は?」


「来るよ。でも、すぐ薄くなる。風が変わると、向こうへ行っちゃう」


男の子は、西の空を指した。


「みんな、最初は桶を出してた。でも降らないから、今は出さない。出すと、母さんが泣く」


セドリックが息を呑んだ。


ミラは、胸元の天路儀を握りしめた。



村長の家は、かつての集会所だった。


扉の前には、割れた(かめ)が並んでいる。どれも雨水を溜めるためのものだったが、今は土埃(つちぼこり)をかぶっていた。


中では、村人たちがミラを囲んだ。


喜ぶ者もいた。


驚く者もいた。


けれど、誰も大きな声を出さなかった。


声を出す力すら、惜しむようだった。


「ミラ」


奥から、父が出てきた。


手紙の文字と同じように、父の背は少し小さくなっていた。


「帰ってきたのか」


「はい」


「王都で、何かしたな」


ミラは黙った。


父は、ミラの後ろにいるセドリックを見た。


「その方は?」


セドリックが名乗ろうとする。


ミラが先に言った。


「王太子セドリック・オルヴァン殿下です」


村人たちが、一斉に息を呑んだ。


誰かが立ち上がりかけ、父が手で制した。


「膝をつく必要はない」


セドリックが言った。


その声は、王都で聞いたときよりも静かだった。


「今日は、私が見る側だ」


父はしばらく彼を見ていた。


それから、ミラへ視線を戻す。


「見せるのか」


「はい」


ミラは外套の内側から、折り畳んだ紙を取り出した。


三日前の夜、空蔵(そらぐら)で写した天路盤(てんろばん)の運用記録だった。


王都では、天候の動きをすべて記録に残す。


どの日に風を変えたか。


どの雨雲を迂回させたか。


どの土地の上空を避けさせたか。


誰が命じ、誰が操作したか。


王国のための記録。


けれどミラには、罪の記録に見えた。


セドリックは紙を受け取った。


灯りの下で、記録を読む。


最初は、眉を寄せるだけだった。


やがて、顔色が変わっていく。


天恵祭。王都晴天固定。

西丘地方上空、雨雲通過回避。

王太子成人式。王都晴天固定。

レムナ村上空、雨雲進入回避あまぐもしんにゅうかいひ

春の大市(はるのおおいち)。王都晴天固定。

西丘地方雨路、山脈北側へ転流(てんりゅう)

王都凱旋式(がいせんしき)。晴天固定。

レムナ村周辺、雨雲進路変更あまぐもしんろへんこう


雨雲進路変更。


その言葉を見た瞬間、セドリックの手が止まった。


「雨雲進路変更とは何だ」


ミラは答えた。


「その日に村へ向かっていた雨雲を、別の進路へ流すという意味です」


「その雨雲は、どこへ行った」


ミラは父を見た。


父は静かに言った。


「外海へ流れたと、記録にはあります」


「実際には?」


「この村には来ませんでした」


セドリックは紙を見つめた。


「一度も?」


「一度も、ではありません。昔は降りました」


父の声は穏やかだった。


穏やかすぎた。


「ただ、王都の式典が増えるたびに、雨は減りました。雲が来ても、風が変わる。匂いがしても、空が逃げる。そういう日が増えました」


「なぜ、訴えなかった」


村人の一人が、小さく笑った。


乾いた笑いだった。


「どこへですか、殿下」


セドリックは顔を上げた。


「天候局へ訴えれば、記録には『調整済み』と書かれる。役所へ訴えれば、『王都の安定のため』と返される。王都の晴天を疑えば、王国の恵みに逆らうのかと言われる」


別の老人が続けた。


「王都が晴れるたび、この村は静かになりました。最初は怒った。次に泣いた。その次に、誰も空を見なくなった」


セドリックは記録紙を握った。


紙が小さく鳴る。


ミラはその手を見ていた。


彼は知らなかった。


本当に知らなかったのだ。


それが救いなのか、罪なのか、ミラにはまだ分からなかった。



夜が近づいていた。


村の外れで、ミラとセドリックは並んで立っていた。


西の空には、雲があった。


分厚い雲ではない。


けれど、確かに湿った風を含んだ雲だった。


村人たちは、誰も外に出てこなかった。


期待して裏切られることに慣れすぎているのだ。


セドリックが低く言った。


「王都の晴天が、この村から雨を奪っていた」


「正確には、雨が来る道を曲げていました」


「同じことだ」


その言葉に、ミラは少し驚いた。


セドリックは空を見ていた。


「言い方を変えても、結果は同じだ。ここに雨は来なかった」


遠くで風が鳴る。


天路儀の針が、かすかに震えた。


ミラは胸元を見た。


雲は、村へ向かっている。


だが、その線が途中で不自然に曲がっていた。


王都の方角へではない。


北へ。


山脈の向こうへ。


おそらく、天路盤が再び固定を強めたのだ。


ミラは唇を噛んだ。


「また、曲げられます」


「誰が」


「バルト宰相です。天路盤を使って、王都の晴天を戻そうとしている」


セドリックは、険しい顔で空を見る。


「ここまで来ている雲まで、逸らすのか」


「天路盤ならできます」


「君の天路儀では?」


ミラは小さく首を振った。


「個人の天路儀で、天路盤に勝つことはできません」


「なら、どうする」


その問いに、ミラはすぐ答えられなかった。


勝てない。


押し返せない。


王都の天路盤は大きすぎる。


でも、王都で晴天固定を一拍だけ外したあの瞬間、見えたものがあった。


天路盤が強い力で曲げた雨路には、(ほころ)びがある。


曲げられた空は、元に戻る道を覚えている。


「勝つのではありません」


ミラは言った。


セドリックが彼女を見る。


「戻す道を、探します」


そのとき、子どもの声がした。


昼間の男の子が、家の戸口から空を見ていた。


「降る?」


ミラは答えられなかった。


セドリックも答えられなかった。


雲は、村の上へ来かけていた。


けれど、風が変わる。


雲の端が、ゆっくり北へ流れていく。


男の子は、しばらく空を見上げていた。


手には、空の水桶を持っている。


やがて、その手を下ろした。


雨は、来なかった。


一滴も。


セドリックは、何も言わなかった。


ただ、天路盤の記録紙を強く握りしめていた。


その夜、王都の晴天はまだ守られていた。


そして、レムナ村の空は、またひとつ雨を失った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ