【第1話】天恵祭
その日、王都の空には、雲ひとつなかった。
青は深く、陽は白く、風は布を揺らす程度にやわらかい。
王城へ続く大通りには花びらが撒かれ、窓という窓から色布が垂れていた。広場には露店が並び、焼き菓子の甘い匂いと、磨かれた石畳の熱が混じっている。
子どもたちは首が痛くなるほど空を見上げ、大人たちはその姿を見て笑った。
「今年も、天は王国を見捨てなかった」
誰かがそう言うと、周囲の人々が頷いた。
今日は、年に一度の天恵祭だった。
王都の上に、一年で最も美しい晴天を広げる日。
王族はそれを、王国の繁栄を示す祝祭だと言った。貴族は商いの安定を祈る日だと言い、民は天から与えられた恵みの日だと信じている。
けれど、ミラ・セリスは知っていた。
この空は、天から与えられたものではない。
誰かが、どこかの空を曲げて作ったものだ。
*
ミラは、王立天候局の白い外套を着て、中央広場の祭壇脇に立っていた。
胸元には、小さな金属の輪を重ねた器具がある。
天路儀。
王立天候局に正式任官した天候師へ、同じ型で支給される個人用の天候具だ。
天路儀そのものに、天気を作る力はない。
海や川から昇った水が雲になり、雲の中で水滴や氷の粒が育ち、重くなれば雨として落ちる。それは、人が勝手に作れるものではなかった。
天候師にできるのは、風の向きを読むこと。湿った空気の流れを測ること。気圧のわずかな傾きと、雲の進む道を見つけること。
そして、魔力を天路儀へ通し、その流れの端にほんの少し触れること。
未熟な天候師は、明日の風向きを読むだけで精一杯だ。熟練した者なら、畑一枚ぶんの霧を散らし、港へ入る風を半刻だけ穏やかにできる。
同じ天路儀でも、誰が使うかで見える空は変わる。
ミラの天路儀は、よく見えすぎた。
見たくないものまで、見えてしまった。
三日前、故郷から手紙が届いた。
紙は乾き、折り目の端が白く擦れていた。父の文字は、以前より小さくなっていた。
井戸は、また一段浅くなった。
春の種まきは、今年も半分しかできない。
北畑は諦めることになった。
村の子どもたちは、雨音を知らないまま大きくなっている。
最後には、こう書かれていた。
王都の空は、今年も晴れるのだろうな。
責める言葉ではなかった。
だからこそ、ミラは眠れなかった。
王都の地下、空蔵に置かれた巨大な天路盤。
王都、山脈、川、海、街道、辺境の村々まで刻まれたその盤は、百人の天候師の天路儀を束ね、王都全域の空を動かす国家の天候具だった。
天恵祭の晴天は、その天路盤で作られている。
いや、作っているのではない。
王都へ近づく湿った風を避けさせ、雨雲の進路を遠ざけ、王都の上だけを晴天に固定している。
王都に雲を寄せなければ、祭りは晴れる。
王都へ向かう雨雲を外へ流せば、民は濡れずに済む。
王都の上だけを青く保てば、誰もがそれを天の恵みだと信じる。
けれど、逸らされた雨雲は消えるわけではない。
外海へ流されることもある。山脈の向こうへ押し出されることもある。王国の地図の端、祭壇からは見えない土地へ追いやられることもある。
そして、その線の一本が、ミラの故郷へ続く雨路だった。
雨路。
湿った風と雨雲が通る、空の道。
ミラの村は、昔は雨の多い土地だった。
海から昇った湿った風が、王都の西にある丘陵を越え、低い山にぶつかり、雲を育てる。季節ごとに雨が降り、畑は深く水を吸い、井戸は夏でも涸れなかった。
けれど、王都の式典が増えるたび、雨路は曲げられた。
何度も。
何年も。
天恵祭のたびに、王都の大きな式典のたびに、雨雲は村の上を通らなくなった。
井戸の水が細った。
畑は割れた。
老人たちは空を見上げなくなった。
雨を待つことに、疲れてしまったからだ。
「ミラ」
背後から声がした。
ミラは天路儀の針を押さえ、振り向いた。
王太子セドリック・オルヴァンが、祭壇へ上がる前の白い礼装で立っていた。
金糸の飾りは晴天によく映えている。けれど、彼の表情は浮かれていなかった。
「顔色が悪い」
「問題ありません、殿下」
「今日の空は、君が最後まで整えたと聞いている」
「はい」
「見事だ」
ミラは、すぐに答えられなかった。
セドリックは悪人ではない。
王都の民が安心して祭りを迎えられるよう、誰よりも早く広場に立ち、誰よりも遅くまで準備を確かめていた。彼は王都の晴天を、民の心を支えるものだと本気で信じている。
だからこそ、ミラは苦しかった。
この人は、まだ知らない。
自分が守ろうとしている空の下で、誰かの空が曲げられていることを。
「天路儀が震えている」
セドリックが、ミラの胸元を見た。
小さな針が、祭壇の下でかすかに揺れている。
王都の空を示す針ではない。
もっと遠く、王都の西にある雨路を示す針だ。
ミラは指先でそれを覆った。
「風が、少し乱れているだけです」
「天恵祭の日に?」
「だからこそです。空は、固定されることを嫌います」
セドリックは眉を寄せた。
「空が、嫌う?」
「……いえ。天候師の言い方です」
言い直してから、ミラは視線を落とした。
嘘ではない。
空は、いつも元の流れへ戻ろうとしている。
風は低い方へ流れ、雲は水を持つ場所へ進み、雨は降るべき土地を探す。
それを人の都合で曲げ続ければ、どこかに歪みが残る。
王都の晴天は、その歪みの上に広がっていた。
「ミラ」
セドリックの声が、少し低くなった。
「何か知っているのか?」
ミラは答えなかった。
答えれば、もう戻れない。
答えなくても、もう戻れない。
広場の奥で、祝笛が鳴った。
*
中央広場のざわめきが、波のように静まっていく。
セドリックが祭壇の中央へ進む。宰相バルト・ヴェルグラムが、少し離れた場所で王家の旗を背に立っていた。
その目は、空を見ていない。
祭壇脇に並んだ天候師たちと、彼らの胸元の天路儀だけを見ている。
バルトは知っている。
王都の晴天が、天から降ってきた恵みではないことを。
知った上で、民衆には祝福として見せている。
「王都の民よ」
セドリックの声が広場に通った。
「今年も我らは、この空の下に集うことができた」
人々が顔を上げる。
青空は、あまりにも美しかった。
雲のない空。
雨の気配のない空。
濡れる心配のない、祭りのためだけの空。
「この晴天こそ、王国に与えられた天恵である」
歓声が上がった。
花びらが舞う。
白い鳥が放たれる。
子どもたちは笑い、商人は手を叩き、貴族たちは満足げに空を見た。
ミラは、そのすべてを見ていた。
そして、自分の天路儀を開いた。
金属の輪が、音もなく回る。
内側の針が震え、王都を中心に巡る銀の線が、薄く浮かび上がった。天路盤と同期している証だ。
祭壇の裏で、年長の天候師が小声で言った。
「ミラ、固定を保て。天路盤が少し押されている」
「西から湿った風が戻ろうとしています」
「流せ。外海へ逃がせばいい」
その言葉に、ミラの胸が冷えた。
外海へ逃がせばいい。
地図の外へ捨てればいい。
そこに、村はないことにすればいい。
人は住んでいないことにすればいい。
雨を待つ顔など、見なかったことにすればいい。
ミラは、天路儀へ魔力を通した。
針が王都の晴天を掴む。
天路盤の大きな命令が流れ込んでくる。
王都を晴らせ。
湿った風を遠ざけろ。
雨雲を迂回させろ。
祭りを守れ。
王国の安定を守れ。
その命令の奥に、細い雨路が見えた。
かつてミラの故郷へ向かっていた道だ。
曲げられ、削られ、何度も別の方角へ押しやられ、今にも消えそうになっている。
ミラは息を吸った。
天路盤に勝つことはできない。
個人の天路儀で、国家の天候具を押し返すことはできない。
けれど、天路盤が曲げた雨路には、わずかな綻びがあった。
強い力で無理に曲げたものほど、元の道を覚えている。
ミラは、その一点だけを見た。
「ミラ?」
隣の天候師が異変に気づく。
ミラは答えなかった。
天路盤を壊すのではない。
雨路を完全に戻すのでもない。
王都の晴天固定を保っていた同期を、一拍だけ外す。
それだけで、空は元の流れへ戻ろうとする。
ミラは、天路儀の針を逆へ倒した。
王都の晴天固定が、ほんの一瞬だけ緩んだ。
それは、小さな揺らぎだった。
だが空は、その揺らぎを待っていた。
広場の上で、青空が揺れた。
最初に気づいたのは、子どもだった。
「雲だ」
誰かが笑った。
「まさか。天恵祭だぞ」
けれど、空の端に灰色が滲んでいた。
遠ざけられていた湿った風が戻る。
白い布が、さっきまでとは違う重さで揺れる。
花びらが地面へ落ちる。
太陽の輪郭が、薄くぼやけた。
歓声は、戸惑いへ変わった。
「空が」
「晴天が崩れている」
「天候師は何をしている!」
バルトの顔色が変わった。
「固定を戻せ!」
祭壇脇の天候師たちが一斉に天路儀を操作する。けれど、天路盤との同期は乱れ続けていた。
ミラが、固定の噛み合わせを一拍だけ外したからだ。
セドリックが振り返る。
彼の視線が、ミラを捉えた。
「ミラ」
その声には、まだ怒りよりも驚きがあった。
ミラは天路儀を閉じた。
王都の空は、もう完璧な青ではない。
雨は、まだ落ちていない。
けれど、王都の晴天は奪われた。
民衆は、そう思うだろう。
バルトも、そう呼ぶだろう。
王国の祝福を壊した反逆者。
空を奪った天候師。
それでも、ミラは逃げなかった。
一歩、祭壇の前へ出る。
「何をした!」
バルトが怒鳴った。
ミラは彼を見た。
それから、セドリックを見た。
そして、王都の民が見上げる空へ顔を向けた。
「私は、晴天を奪ったのではありません」
雨の匂いがした。
まだ降ってはいない。
けれど、確かに空の奥から湿った風が戻ってきている。
ミラは、声を震わせずに言った。
「曲げられた空が、戻る道を開いただけです」
一瞬、広場が静まり返った。
次の瞬間、怒号が弾けた。
「捕らえろ!」
バルトの命令が響く。
兵士たちが動いた。
セドリックも祭壇を降りようとする。
「ミラ、待て!」
その声に、ミラの足が一瞬だけ止まりかけた。
けれど、天路儀の針が胸元で震えた。
西へ。
王都の外へ。
雨の降らない村へ。
かすかに戻りかけた雨路を、針が示している。
今止まれば、また曲げられる。
ここで説明を始めれば、バルトは天路盤を強める。王都の天候師たちは固定を戻し、せっかく生まれた揺らぎは消える。
ミラは、セドリックへ振り返らなかった。
「私は、戻さなければなりません」
「何をだ!」
「空を」
短く答え、ミラは走り出した。
白い外套が風に膨らむ。
広場の石段を下り、花びらを踏み、露店の間を抜ける。悲鳴と怒号が背後で重なった。
「反逆者!」
「天恵を返せ!」
「晴天を奪ったぞ!」
言葉が、背中に刺さった。
それでもミラは止まらない。
王都の西門へ向かう道は、天恵祭の行列で塞がれている。ミラは細い路地へ入った。幼い頃、天候局へ入る前に何度も迷った道だ。
屋根と屋根の間から、曇り始めた空が見える。
王都の人々は、きっと今日の空を不吉だと言う。
王国の祝福が壊されたと嘆く。
けれどミラは知っていた。
本当に空を奪われていたのは、王都ではない。
まだ雨を知らない、遠い村の方だった。
*
祭壇の上で、セドリックは動けずにいた。
灰色の雲が、王都の空へ戻ってくる。
民衆は騒ぎ、バルトは兵士に命じ続けている。
「西門を閉じろ。天候師ミラ・セリスを捕らえよ。天路儀を奪え。あれを持ったまま逃がすな!」
「殿下」
近衛兵がセドリックを見た。
「ご命令を」
セドリックは、ミラが消えた路地を見ていた。
曲げられた空。
戻る道を開いた。
空を戻すとは、どういう意味だ。
彼女は何を見ていた。
なぜ、天恵祭の晴天を壊してまで走った。
セドリックは拳を握った。
王太子としてなら、答えは決まっている。
反逆者を捕らえ、天恵祭の混乱を収め、王都の秩序を守る。
だが、さっきのミラの目は、罪をごまかす者の目ではなかった。
何かを諦めた者の目でもなかった。
それは、もう一つの空を見ている目だった。
「殿下!」
バルトの声が飛ぶ。
「追跡の許可を。あの娘は王国の晴天を奪いました」
セドリックは、曇り始めた空を見上げた。
王国の晴天。
誰のための晴天だったのか。
その問いが、胸の奥に残った。
「追う」
セドリックは言った。
バルトが満足げに頷く。
だがセドリックは続けた。
「ただし、殺すな。天路儀にも触れるな。私が直接話を聞く」
「殿下、それは」
「命令だ」
短く告げ、セドリックは祭壇を降りた。
王都の空は重くなっていた。
それでも雨は、まだ一粒も落ちていない。
ただ、湿った風だけが、王都の石畳を撫でていく。
セドリックには、その風がただの不吉には思えなかった。
何かが、戻り始めている。
そんな気がした。
その日、王都の人々は彼女の名を呪った。
天恵祭を壊した女。
王国の祝福を奪った者。
空を奪った天候師。
そしてミラは、王都の西へ走っていた。
雨の降らない村へ。
空を、返すために。




