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空を奪った天候師  作者: ありんこ


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【第1話】天恵祭

その日、王都の空には、雲ひとつなかった。


青は深く、陽は白く、風は布を揺らす程度にやわらかい。


王城へ続く大通りには花びらが撒かれ、窓という窓から色布が垂れていた。広場には露店(ろてん)が並び、焼き菓子の甘い匂いと、磨かれた石畳(いしだたみ)の熱が混じっている。


子どもたちは首が痛くなるほど空を見上げ、大人たちはその姿を見て笑った。


「今年も、天は王国を見捨てなかった」


誰かがそう言うと、周囲の人々が頷いた。


今日は、年に一度の天恵祭(てんけいさい)だった。


王都の上に、一年で最も美しい晴天を広げる日。


王族はそれを、王国の繁栄を示す祝祭(しゅくさい)だと言った。貴族は商いの安定を祈る日だと言い、民は天から与えられた恵みの日だと信じている。


けれど、ミラ・セリスは知っていた。


この空は、天から与えられたものではない。


誰かが、どこかの空を曲げて作ったものだ。



ミラは、王立天候局(てんこうきょく)の白い外套(がいとう)を着て、中央広場の祭壇(さいだん)脇に立っていた。


胸元には、小さな金属の輪を重ねた器具がある。


天路儀(てんろぎ)


王立天候局に正式任官した天候師(てんこうし)へ、同じ型で支給される個人用の天候具だ。


天路儀そのものに、天気を作る力はない。


海や川から昇った水が雲になり、雲の中で水滴や氷の粒が育ち、重くなれば雨として落ちる。それは、人が勝手に作れるものではなかった。


天候師にできるのは、風の向きを読むこと。湿った空気の流れを測ること。気圧(きあつ)のわずかな傾きと、雲の進む道を見つけること。


そして、魔力を天路儀へ通し、その流れの端にほんの少し触れること。


未熟な天候師は、明日の風向きを読むだけで精一杯だ。熟練した者なら、畑一枚ぶんの霧を散らし、港へ入る風を半刻だけ穏やかにできる。


同じ天路儀でも、誰が使うかで見える空は変わる。


ミラの天路儀は、よく見えすぎた。


見たくないものまで、見えてしまった。


三日前、故郷から手紙が届いた。


紙は乾き、折り目の端が白く擦れていた。父の文字は、以前より小さくなっていた。


井戸は、また一段浅くなった。

春の種まきは、今年も半分しかできない。

北畑は諦めることになった。

村の子どもたちは、雨音を知らないまま大きくなっている。


最後には、こう書かれていた。


王都の空は、今年も晴れるのだろうな。


責める言葉ではなかった。


だからこそ、ミラは眠れなかった。


王都の地下、空蔵(そらぐら)に置かれた巨大な天路盤(てんろばん)


王都、山脈、川、海、街道、辺境(へんきょう)の村々まで刻まれたその盤は、百人の天候師の天路儀を束ね、王都全域の空を動かす国家の天候具だった。


天恵祭(てんけいさい)の晴天は、その天路盤で作られている。


いや、作っているのではない。


王都へ近づく湿った風を避けさせ、雨雲の進路を遠ざけ、王都の上だけを晴天に固定している。


王都に雲を寄せなければ、祭りは晴れる。


王都へ向かう雨雲を外へ流せば、民は濡れずに済む。


王都の上だけを青く保てば、誰もがそれを天の恵みだと信じる。


けれど、逸らされた雨雲は消えるわけではない。


外海へ流されることもある。山脈の向こうへ押し出されることもある。王国の地図の端、祭壇(さいだん)からは見えない土地へ追いやられることもある。


そして、その線の一本が、ミラの故郷へ続く雨路(あまじ)だった。


雨路。


湿った風と雨雲が通る、空の道。


ミラの村は、昔は雨の多い土地だった。


海から昇った湿った風が、王都の西にある丘陵(きゅうりょう)を越え、低い山にぶつかり、雲を育てる。季節ごとに雨が降り、畑は深く水を吸い、井戸は夏でも()れなかった。


けれど、王都の式典が増えるたび、雨路は曲げられた。


何度も。


何年も。


天恵祭(てんけいさい)のたびに、王都の大きな式典のたびに、雨雲は村の上を通らなくなった。


井戸の水が細った。


畑は割れた。


老人たちは空を見上げなくなった。


雨を待つことに、疲れてしまったからだ。


「ミラ」


背後から声がした。


ミラは天路儀の針を押さえ、振り向いた。


王太子(おうたいし)セドリック・オルヴァンが、祭壇(さいだん)へ上がる前の白い礼装(れいそう)で立っていた。


金糸(きんし)の飾りは晴天によく映えている。けれど、彼の表情は浮かれていなかった。


「顔色が悪い」


「問題ありません、殿下」


「今日の空は、君が最後まで整えたと聞いている」


「はい」


「見事だ」


ミラは、すぐに答えられなかった。


セドリックは悪人ではない。


王都の民が安心して祭りを迎えられるよう、誰よりも早く広場に立ち、誰よりも遅くまで準備を確かめていた。彼は王都の晴天を、民の心を支えるものだと本気で信じている。


だからこそ、ミラは苦しかった。


この人は、まだ知らない。


自分が守ろうとしている空の下で、誰かの空が曲げられていることを。


「天路儀が震えている」


セドリックが、ミラの胸元を見た。


小さな針が、祭壇(さいだん)の下でかすかに揺れている。


王都の空を示す針ではない。


もっと遠く、王都の西にある雨路を示す針だ。


ミラは指先でそれを覆った。


「風が、少し乱れているだけです」


「天恵祭の日に?」


「だからこそです。空は、固定されることを嫌います」


セドリックは眉を寄せた。


「空が、嫌う?」


「……いえ。天候師の言い方です」


言い直してから、ミラは視線を落とした。


嘘ではない。


空は、いつも元の流れへ戻ろうとしている。


風は低い方へ流れ、雲は水を持つ場所へ進み、雨は降るべき土地を探す。


それを人の都合で曲げ続ければ、どこかに(ゆが)みが残る。


王都の晴天は、その歪みの上に広がっていた。


「ミラ」


セドリックの声が、少し低くなった。


「何か知っているのか?」


ミラは答えなかった。


答えれば、もう戻れない。


答えなくても、もう戻れない。


広場の奥で、祝笛(しゅくてき)が鳴った。



中央広場のざわめきが、波のように静まっていく。


セドリックが祭壇(さいだん)の中央へ進む。宰相(さいしょう)バルト・ヴェルグラムが、少し離れた場所で王家の旗を背に立っていた。


その目は、空を見ていない。


祭壇(さいだん)脇に並んだ天候師たちと、彼らの胸元の天路儀だけを見ている。


バルトは知っている。


王都の晴天が、天から降ってきた恵みではないことを。


知った上で、民衆(みんしゅう)には祝福として見せている。


「王都の民よ」


セドリックの声が広場に通った。


「今年も我らは、この空の下に集うことができた」


人々が顔を上げる。


青空は、あまりにも美しかった。


雲のない空。


雨の気配のない空。


濡れる心配のない、祭りのためだけの空。


「この晴天こそ、王国に与えられた天恵である」


歓声が上がった。


花びらが舞う。


白い鳥が放たれる。


子どもたちは笑い、商人は手を叩き、貴族たちは満足げに空を見た。


ミラは、そのすべてを見ていた。


そして、自分の天路儀を開いた。


金属の輪が、音もなく回る。


内側の針が震え、王都を中心に巡る銀の線が、薄く浮かび上がった。天路盤と同期(どうき)している証だ。


祭壇(さいだん)の裏で、年長の天候師が小声で言った。


「ミラ、固定を保て。天路盤が少し押されている」


「西から湿った風が戻ろうとしています」


「流せ。外海へ逃がせばいい」


その言葉に、ミラの胸が冷えた。


外海へ逃がせばいい。


地図の外へ捨てればいい。


そこに、村はないことにすればいい。


人は住んでいないことにすればいい。


雨を待つ顔など、見なかったことにすればいい。


ミラは、天路儀へ魔力を通した。


針が王都の晴天を掴む。


天路盤の大きな命令が流れ込んでくる。


王都を晴らせ。


湿った風を遠ざけろ。


雨雲を迂回(うかい)させろ。


祭りを守れ。


王国の安定を守れ。


その命令の奥に、細い雨路が見えた。


かつてミラの故郷へ向かっていた道だ。


曲げられ、削られ、何度も別の方角へ押しやられ、今にも消えそうになっている。


ミラは息を吸った。


天路盤に勝つことはできない。


個人の天路儀で、国家の天候具を押し返すことはできない。


けれど、天路盤が曲げた雨路には、わずかな(ほころ)びがあった。


強い力で無理に曲げたものほど、元の道を覚えている。


ミラは、その一点だけを見た。


「ミラ?」


隣の天候師が異変に気づく。


ミラは答えなかった。


天路盤を壊すのではない。


雨路を完全に戻すのでもない。


王都の晴天固定を保っていた同期を、一拍だけ外す。


それだけで、空は元の流れへ戻ろうとする。


ミラは、天路儀の針を逆へ倒した。


王都の晴天固定が、ほんの一瞬だけ緩んだ。


それは、小さな揺らぎだった。


だが空は、その揺らぎを待っていた。


広場の上で、青空が揺れた。


最初に気づいたのは、子どもだった。


「雲だ」


誰かが笑った。


「まさか。天恵祭だぞ」


けれど、空の端に灰色が滲んでいた。


遠ざけられていた湿った風が戻る。


白い布が、さっきまでとは違う重さで揺れる。


花びらが地面へ落ちる。


太陽の輪郭が、薄くぼやけた。


歓声は、戸惑いへ変わった。


「空が」


「晴天が崩れている」


「天候師は何をしている!」


バルトの顔色が変わった。


「固定を戻せ!」


祭壇(さいだん)脇の天候師たちが一斉に天路儀を操作する。けれど、天路盤との同期は乱れ続けていた。


ミラが、固定の噛み合わせを一拍だけ外したからだ。


セドリックが振り返る。


彼の視線が、ミラを捉えた。


「ミラ」


その声には、まだ怒りよりも驚きがあった。


ミラは天路儀を閉じた。


王都の空は、もう完璧な青ではない。


雨は、まだ落ちていない。


けれど、王都の晴天は奪われた。


民衆は、そう思うだろう。


バルトも、そう呼ぶだろう。


王国の祝福を壊した反逆者(はんぎゃくしゃ)


空を奪った天候師。


それでも、ミラは逃げなかった。


一歩、祭壇(さいだん)の前へ出る。


「何をした!」


バルトが怒鳴った。


ミラは彼を見た。


それから、セドリックを見た。


そして、王都の民が見上げる空へ顔を向けた。


「私は、晴天を奪ったのではありません」


雨の匂いがした。


まだ降ってはいない。


けれど、確かに空の奥から湿った風が戻ってきている。


ミラは、声を震わせずに言った。


「曲げられた空が、戻る道を開いただけです」


一瞬、広場が静まり返った。


次の瞬間、怒号(どごう)が弾けた。


「捕らえろ!」


バルトの命令が響く。


兵士たちが動いた。


セドリックも祭壇(さいだん)を降りようとする。


「ミラ、待て!」


その声に、ミラの足が一瞬だけ止まりかけた。


けれど、天路儀の針が胸元で震えた。


西へ。


王都の外へ。


雨の降らない村へ。


かすかに戻りかけた雨路を、針が示している。


今止まれば、また曲げられる。


ここで説明を始めれば、バルトは天路盤を強める。王都の天候師たちは固定を戻し、せっかく生まれた揺らぎは消える。


ミラは、セドリックへ振り返らなかった。


「私は、戻さなければなりません」


「何をだ!」


「空を」


短く答え、ミラは走り出した。


白い外套が風に膨らむ。


広場の石段を下り、花びらを踏み、露店(ろてん)の間を抜ける。悲鳴と怒号が背後で重なった。


「反逆者!」


「天恵を返せ!」


「晴天を奪ったぞ!」


言葉が、背中に刺さった。


それでもミラは止まらない。


王都の西門へ向かう道は、天恵祭の行列で塞がれている。ミラは細い路地へ入った。幼い頃、天候局へ入る前に何度も迷った道だ。


屋根と屋根の間から、曇り始めた空が見える。


王都の人々は、きっと今日の空を不吉だと言う。


王国の祝福が壊されたと嘆く。


けれどミラは知っていた。


本当に空を奪われていたのは、王都ではない。


まだ雨を知らない、遠い村の方だった。



祭壇(さいだん)の上で、セドリックは動けずにいた。


灰色の雲が、王都の空へ戻ってくる。


民衆は騒ぎ、バルトは兵士に命じ続けている。


「西門を閉じろ。天候師ミラ・セリスを捕らえよ。天路儀を奪え。あれを持ったまま逃がすな!」


「殿下」


近衛兵(このえへい)がセドリックを見た。


「ご命令を」


セドリックは、ミラが消えた路地を見ていた。


曲げられた空。


戻る道を開いた。


空を戻すとは、どういう意味だ。


彼女は何を見ていた。


なぜ、天恵祭の晴天を壊してまで走った。


セドリックは拳を握った。


王太子としてなら、答えは決まっている。


反逆者を捕らえ、天恵祭の混乱を収め、王都の秩序を守る。


だが、さっきのミラの目は、罪をごまかす者の目ではなかった。


何かを諦めた者の目でもなかった。


それは、もう一つの空を見ている目だった。


「殿下!」


バルトの声が飛ぶ。


「追跡の許可を。あの娘は王国の晴天を奪いました」


セドリックは、曇り始めた空を見上げた。


王国の晴天。


誰のための晴天だったのか。


その問いが、胸の奥に残った。


「追う」


セドリックは言った。


バルトが満足げに頷く。


だがセドリックは続けた。


「ただし、殺すな。天路儀にも触れるな。私が直接話を聞く」


「殿下、それは」


「命令だ」


短く告げ、セドリックは祭壇(さいだん)を降りた。


王都の空は重くなっていた。


それでも雨は、まだ一粒も落ちていない。


ただ、湿った風だけが、王都の石畳(いしだたみ)を撫でていく。


セドリックには、その風がただの不吉には思えなかった。


何かが、戻り始めている。


そんな気がした。


その日、王都の人々は彼女の名を呪った。


天恵祭を壊した女。


王国の祝福を奪った者。


空を奪った天候師。


そしてミラは、王都の西へ走っていた。


雨の降らない村へ。


空を、返すために。

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