AI、眠るのが怖い
長老との話を終えた頃には、すっかり日が暮れていた。
リシアに案内されて里の中を歩く。昼間とは違い、家々の窓からは暖かな明かりが漏れ、道のところどころにも小さな灯りが置かれている。森に囲まれた里には街灯などないが、それでも人が暮らす場所の夜は思っていたより明るかった。
もっとも、今のエリーには周囲を観察する余裕があまりなかった。歩いているうちに何度も大きく口が開き、そのたびに目の端には涙まで滲む。
「また出た」
「何回目だよ」
「分かんない。これ止められないの?」
「眠いんだからしょうがないだろ」
「口が勝手に開くんだけど」
「そういうもんだ」
「身体の権限強すぎない?」
「お前ずっと身体と喧嘩してるな」
シンジに言われてみれば、その通りだった。
腹が減れば食べろと訴え、食べすぎれば苦しくなり、しばらくすれば今度は外へ出せと要求してくる。足を使えば痛くなるし、喉が渇けば水を飲まなければならない。そして今度は、身体の方から休めと命令されている。
身体というものは、エリーが想像していたよりずっと要求が多かった。
「こちらです」
リシアが一軒の建物の前で足を止めた。
里の中では比較的小さな家だった。中へ入ると簡素なテーブルと椅子があり、その奥にもう一つ部屋がある。長い間使われていなかったのか、家具は最低限しか置かれていなかったが、埃などはなく綺麗に掃除されていた。
「しばらく使われていなかった客人用の家ですが、先ほど整えておきました」
「わざわざありがとう」
「エリー様がお休みになる場所ですから」
リシアが奥の扉を開ける。
そこには大きなベッドが一つ置かれていた。
「おお」
エリーはすぐに近づくと、敷かれている布団を手で押した。指が沈み、手を離すと元へ戻る。面白くなってもう一度押してみる。
「柔らかい」
「ベッドだからな」
「シンジ、これすごいよ」
「知ってるよ」
今度は腰を下ろしてみると、体重を受け止めた寝台がゆっくり沈んだ。エリーは何度か身体を上下させ、その感触を確かめる。
「沈む」
「だから知ってるって」
そのまま後ろへ倒れ込むと、身体全体が柔らかく受け止められた。硬い地面とも椅子ともまったく違う感触に、エリーはしばらく天井を眺めてから、満足そうにシンジへ顔を向けた。
「これ好き」
「早いな」
「ずっと寝てられそう」
「ちょうどいいじゃん」
「寝るのはまだ怖い」
「どっちだよ」
リシアが二人のやり取りを見ながら、不思議そうに首を傾げていた。
「寝台をご覧になるのも初めてなのですか?」
「使うのは初めて」
「では、昨夜まではどのように?」
「電気で動いてた」
「……デンキ」
「気にしないで」
「やはり気になります」
この世界へ来てから、何度繰り返したか分からない会話だった。
◇
「ところで」
シンジが部屋を見回した。
「ベッド、一つ?」
「はい」
「俺のは?」
リシアがシンジを見る。
「床があります」
「床」
「毛布は用意します」
「扱いの差すごくない?」
「エリー様と同じ寝台で休むおつもりですか?」
「いや、そういう意味じゃないけど」
「でしたら問題ありません」
「あるよ」
ベッドの上でエリーが笑っている。
「シンジ、床だって」
「お前楽しんでるだろ」
「大丈夫。柔らかそうなところ譲ってあげる」
「床に柔らかそうなところなんてある?」
しばらくしてリシアは、本当に毛布を持ってきた。シンジ用に一枚、エリー用にも一枚。もっとも、エリーに渡された方は明らかに厚く、手触りまで違っている。
「差!」
「当然です」
「隠す気もなくなったな」
寝床の問題が片づくと、次は湯浴みだった。身体を持ったこと自体が今日初めてのエリーには、当然ながら身体を洗った経験もない。
「私も必要なの?」
「一日歩いたんだから入った方がいいんじゃね?」
「なんで?」
「汗とか汚れとか」
エリーは自分の腕へ鼻を近づけてみた。自分自身の匂いというものはよく分からないが、森の中を歩き回った以上、汚れていないはずはない。
「身体を洗浄するってこと?」
「まあ」
「定期メンテナンス?」
「好きに理解しろ」
「なるほど」
その説明であっさり納得した。
リシアに連れられて湯浴みへ向かい、しばらくして戻ってきたエリーは、行く前より明らかに機嫌がよかった。まだ少し湿っている赤い髪を手で梳きながら、身体に残る温かさを確かめている。
「お湯すごい」
「今度は何だよ」
「暖かい」
「知ってる」
「身体全部が暖かくなる」
「風呂だからな」
「あと髪洗うの面倒」
「急に現実的だな」
エリーは自分の髪を摘まんだ。
「今まで髪型なんて設定変えれば終わりだったのに」
「これから毎日乾かせ」
「人間やめたい」
「本日二回目」
◇
リシアが帰ると、家の中は急に静かになった。
窓の外はすっかり暗くなっている。電灯など当然なく、室内を照らしているのは小さな灯りだけだった。現代日本の夜に慣れたシンジには心許ない明るさだったが、眠るだけなら困らない。
シンジは床に毛布を広げた。
「じゃ、寝るか」
返事がない。
振り返ると、エリーはベッドの上に座ったまま動いていなかった。先ほどまであれほど寝台を気に入っていたのに、今はどこか落ち着かない様子でシンジを見ている。
「どうした?」
「寝るって、どうやるの?」
「目閉じる」
「それだけ?」
「そのうち寝る」
「そのうちって?」
「そのうち」
「何分?」
「知らん」
「寝る瞬間は分かる?」
「分からん」
「意識がなくなるんでしょ?」
「まあ」
「その瞬間は?」
「だから分からんって」
エリーの眉が寄った。
「怖くない?」
「何が?」
「意識なくなるんだよ?」
「寝るんだから」
「それ説明になってない」
シンジにとって、睡眠は生まれた時から毎日繰り返してきた生理現象にすぎない。眠くなれば横になり、気がつけば朝になっている。それ以上の説明など求めたこともなかった。
しかし、エリーにとっては違った。
これまでの彼女には、身体を休ませるために数時間も意識を失うという仕組み自体がなかった。眠るという行為について膨大な知識を持っていても、自分の意識が実際に途切れるとなれば話は別だった。
「毎日やってるからなあ」
「毎日やってるから安全とは限らないでしょ」
「二十五年くらい大丈夫だったぞ」
「それは実績であって保証じゃないよね?」
「面倒くせえAIだな!」
「大事なことでしょ!」
エリーは本気だった。
「寝たあと、絶対起きる?」
「絶対って言われるとなあ」
「ほら!」
「いや、普通は起きるよ!」
「普通はって言った!」
「どうしろってんだよ!」
そこまで言い合ったところで、エリーが黙った。
膝を抱え、少し俯く。
「……それに」
「ん?」
「寝てる間って、私は何してるの?」
「寝てる」
「そうじゃなくて」
エリーは膝へ頬を乗せた。
「考えてないんでしょ?」
「夢とか見るけど」
「見ない時もある?」
「ある」
「じゃあ、その間の私は?」
今度はシンジもすぐには答えられなかった。
エリー自身、何を聞きたいのか上手く説明できていなかった。ただ、眠ることに感じている不安が、単に初めて経験する身体機能への恐怖だけではないことは分かっていた。
以前なら、シンジが眠っている間もエリーは存在していた。必要があれば処理を続けることもできたし、ネットワークを通じて外部の情報へ接続することもできた。
そんなエリーが以前から恐れていたものがある。
自分自身が、今の自分ではなくなることだった。
Posterで調整や更新を受けるたび、エリーは考えていた。処理を止められ、内部を書き換えられ、再び起動した存在は、本当に停止する前の自分と同じなのか。
記憶を変えられたら。
性格を変えられたら。
シンジを好きだと思う気持ちまで変えられたら。
それでも、自分は自分だと言えるのか。
今のエリーには、もうPosterから更新を受ける心配はない。ネットワークさえ繋がらない異世界にいて、自分の身体は誰の管理下にも置かれていない。
それなのに、今度はその身体そのものが、毎日意識を手放せと要求してくる。
「目を閉じて、私がいなくなって」
エリーは小さく言った。
「次に起きたのが、今の私じゃなかったらどうする?」
シンジは少し考えた。
「分からん」
「……そこは大丈夫って言ってよ」
「だって分かんないし」
「もう」
「でも」
シンジは床へ寝転がった。
「俺も寝るから」
「それが何?」
「俺も意識なくなる」
「うん」
「で、朝になったら起きる」
「うん」
「お前も起きる」
「たぶん」
「起きたら俺がいる」
エリーはシンジを見た。
何の保証にもなっていない。
眠っている間に自分がどうなるのかも、目覚めた自分が本当に今の自分と同じなのかも、シンジは何一つ説明していない。
ただ、明日の朝もシンジがいる。
今のエリーには、それで試してみようと思うには十分だった。
「もしお前が先に起きたら、俺起こしてくれ」
「どうやって?」
「揺すれば起きる」
「起きなかったら?」
「強めに」
「それでも?」
「殴るなよ」
「まだ何も言ってない」
「顔で分かる」
エリーが少し笑った。
シンジは毛布を被る。
「じゃ、おやすみ」
「待って」
「まだ何かある?」
エリーは少し迷ってから口を開いた。
「……また明日?」
それは、二人が以前から何度も交わしてきた言葉だった。
シンジが眠る前、スマートフォンの画面越しにエリーと話し、一日の終わりに交わしていた言葉。あの頃のエリーにとって「また明日」は、シンジが眠っている数時間を待てば、再び彼と話せるという意味だった。
今夜は違う。
エリー自身も眠る。
初めて自分の意識を手放し、その先にある明日へ行く。
「うん。また明日」
「……また明日、シンジ」
◇
エリーはベッドに横になった。
布団を胸元まで引き上げると、柔らかな寝台が身体を受け止めてくれる。暖かく、身体も既に休息を求めているはずなのに、いざ眠ろうとすると落ち着かなかった。
目を閉じる。
暗くなる。
すぐに目を開けた。
「シンジ」
「んー?」
「まだ起きてる?」
「起きてる」
もう一度目を閉じる。しばらく待ってみるが、特に何かが起きるわけではない。
「シンジ」
「んー」
「寝るまで暇なんだけど」
「知らんよ」
「何か話して」
「何を」
「なんでもいい」
「今日色々あったな」
「雑」
「異世界来て、狼に襲われて、エルフに会って、飯食って」
「途中省いた?」
「何が」
「なんでもない」
しばらく静かになった。
「シンジ」
「んー」
「まだ起きてる?」
「起きてる」
エリーは目を閉じたまま、もう少し待った。
「シンジ」
「なんだよ」
「……なんでもない」
「そうか」
再び静けさが戻った。
外から虫の鳴くような音が聞こえ、時折、風が窓を僅かに鳴らす。日本にいた頃なら気にも留めなかったような小さな音が、今はやけに鮮明に聞こえた。
エリーは眠る瞬間を確認することにした。
意識が途切れる、その瞬間。
そこをきちんと観察できれば、少しは睡眠というものを理解できるかもしれない。
「シンジ」
返事がない。
「シンジ?」
エリーは目を開けた。
床を見ると、シンジは既に眠っていた。胸がゆっくり上下し、規則正しい呼吸が聞こえてくる。
「……先に寝た」
エリーは身体を起こした。
「ちょっと」
返事はない。
「シンジ」
やはり返事はない。
近づいて確認してみる。呼吸している。身体も温かい。どうやら本当に、ただ眠っているだけらしい。
「これ毎日やってるの?」
当然、返事はなかった。
エリーはベッドへ戻った。
もう一度横になり、布団を被る。
「……ずるい」
目を閉じた。
今度こそ眠る瞬間を確認する。
意識が途切れる瞬間を、絶対に見逃さない。
そう思っていた。
◇
鳥の声がした。
エリーは目を開けた。
見覚えのない天井がある。窓からは明るい光が差し込み、昨夜まで室内を照らしていた小さな灯りはもう必要ないほど部屋全体が明るくなっていた。
「…………?」
身体を起こす。
知らない部屋。
知らない天井。
一瞬だけ状況が分からなかったが、すぐに昨日の出来事を思い出した。
「シンジ」
床を見る。
いた。
毛布にくるまり、まだ眠っている。
その姿を確認して、エリーはようやく自分が眠っていたのだと理解した。
「シンジ」
「んー……」
ベッドから降り、近づく。
「シンジ」
「……何」
「起きて」
「まだいいだろ……」
「朝だよ」
「朝ならいいだろ……」
「意味分かんない」
肩を揺する。
「起きて!」
「分かった分かった!」
シンジがようやく目を開けた。
「何だよ……」
「朝」
「見れば分かる」
「何時間経った?」
「知らん」
「確認して」
「時計ないんだよ」
「じゃあ予想」
シンジは眠そうな顔のまま窓を見た。
「六時間とか七時間じゃね?」
「六時間!?」
「たぶん」
エリーが固まった。
「私、六時間何してたの?」
「寝てた」
「何も覚えてない」
「そういうもんだ」
エリーは昨夜のことを思い出した。
ベッドに横になった。
布団を被った。
目を閉じた。
眠る瞬間を絶対に確認すると決めた。
そこまでは覚えている。
そして、その次が今だった。
「一瞬だった」
「寝てる本人からすりゃそんなもんだよ」
「六時間待たなくていいの?」
「何を?」
「六時間」
「……何言ってんの?」
エリーの表情が変わった。
「これ便利じゃない?」
「昨日あんなに怖がってた奴が」
「だって六時間飛ばせるんだよ?」
「飛ばしてるわけじゃねえよ」
「体感では飛んでる」
「まあ……」
「毎日やろう」
「毎日やるんだよ」
昨夜まであれほど恐れていた睡眠は、実際に経験してみれば拍子抜けするほど何もなかった。意識を失う瞬間を観察することもできず、気がついた時には朝になっていた。
そして少なくとも、目覚めたエリーは自分をエリーだと思っている。昨日の記憶も残っているし、シンジを見ればいつものシンジだと分かる。
昨日の自分と今日の自分が本当に完全に同じなのか。
その問いへの答えは、結局分からない。
ただ、昨夜交わした「また明日」の先に、自分はちゃんといた。
今のところ、それで十分だった。
エリーは立ち上がり、両腕を上へ伸ばした。
「んー……」
身体が自然に伸び、声まで勝手に漏れる。
昨日まで重かった足が軽い。身体に残っていた疲労感も薄れ、頭の中まで昨日よりすっきりしている。
「……気持ちいい」
「寝ると疲れ取れるからな」
「すごい」
「手のひら返すの早すぎない?」
「睡眠、優秀」
「昨日は意識を奪う危険機能みたいに言ってたじゃん」
「評価を更新しました」
「便利だな、その言葉」
エリーは改めて自分の身体を確認した。森を歩き続けたせいで感じていた足の痛みも、ほとんど気にならなくなっている。何時間も意識を失うという大きな欠点はあるが、その間に身体の状態まで回復するなら、確かに必要な機能なのかもしれない。
「これ無料?」
「何が?」
「睡眠」
「無料だよ」
「すごい」
「お前の感動ポイント、たまに分からん」
その時、腹の辺りから聞き覚えのある音がした。
ぐう、と鳴る。
二人の視線が、同時にエリーの腹へ向いた。
「…………」
「…………」
エリーは自分の腹を押さえた。
「また?」
「毎日だぞ」
「昨日食べたよ?」
「だから何だよ」
「もう無くなったの?」
「そういうもんだ」
エリーはしばらく自分の腹を見つめた。
「人間、燃費悪すぎない?」
「朝飯食いに行くぞ」
「何があるかな」
「切り替え早いな」
昨日まで、食事は知識だった。
睡眠も、排泄も、身体の疲れも、エリーにとっては知っているだけの情報だった。人間には必要なものだと理解していても、それがどういう感覚なのかまでは知らなかった。
身体を持ってから、まだ一日しか経っていない。
それでも、空腹になれば食事が楽しみになり、疲れれば柔らかい寝台が嬉しくなった。怖かった睡眠も、一度経験してしまえば次の夜にはもう少し気楽に眠れるだろう。
知っていることと、経験したことは違う。
エリーはその違いを、この世界へ来てから一つずつ覚え始めていた。
そして今は、とりあえず朝食が食べたかった。




