私は精霊じゃありません
初めての食事と、できればあまり思い返したくない初めての排泄を終えたエリーは、すっかり元気を取り戻していた。
先ほどまで腹を押さえて部屋の中をうろうろしていたのが嘘のように、今は椅子へ深く腰掛けている。何度か自分の腹を撫でては、その感覚を確かめていた。
「身体が軽い」
「さっきも聞いた」
「お腹も苦しくない」
「よかったな」
「食べたものって、ちゃんと減るんだね」
「その話もうやめない?」
「なんで?」
「飯食った直後だから」
エリーは不思議そうな顔をした。
空腹も、満腹も、便意も、知識としてなら以前から知っていた。人間の生理現象について質問されれば説明できたし、健康的な食生活についてシンジへ説教したことだってある。
けれど、自分の腹が空くことも、食べすぎて苦しくなることも知らなかった。
「シンジ」
「ん?」
「人間って大変だね」
「今さら?」
「一日維持するだけで、やること多すぎない?」
「飯食ってトイレ行っただけだろ」
「水も飲んだ。歩いたら足も痛くなった」
「まだ風呂と睡眠が残ってるぞ」
エリーの動きが止まった。
「まだあるの?」
「ある」
「人間やめたい」
「早い早い」
身体を得てから一日も経っていない。
その間にエリーの人間生活に対する評価は、目まぐるしく上下していた。
その時、扉が軽く叩かれた。
「エリー様。よろしいでしょうか」
リシアの声だった。
「どうぞ」
扉が開き、リシアが顔を覗かせる。エリーが普通に座っているのを確認すると、僅かに安堵したように表情を緩めた。
「お加減はいかがですか?」
「すっきりした」
「エリー」
「何?」
「言わなくていい」
リシアは何の話か察したらしい。口元を僅かに緩めた。
「それは何よりです」
「ほら」
「通じ合うな」
リシアは小さく咳払いをすると、表情を改めた。
「長老がお会いになります。お疲れでなければ、ご案内いたしますが」
「長老」
エリーはシンジを見る。
「偉い人?」
「俺に聞くな」
「里を預かる方です」
「じゃあ偉い人だ」
「その理解でいいのか?」
リシアは構わず頷いた。
「この里だけでなく、森や精霊についても私より遥かに詳しい方です。エリー様のお力についても、何かご存じかもしれません」
「行く」
エリーは即答した。
「私も知りたい」
立ち上がるエリーに続いて、シンジも腰を上げた。
それを見たリシアの眉が僅かに動く。
「あなたも来るのですか?」
「行っちゃ駄目なの?」
「いえ」
「今ちょっと嫌そうだったよね」
「気のせいです」
「俺には敬語すら使わなくなってきたな」
◇
外へ出ると、里は夕方を迎えようとしていた。
森の向こうへ傾き始めた太陽が、木々の隙間から長い光を差し込ませている。木と石で造られた家々の屋根が柔らかな橙色に染まり、道を行き交う人々の影が長く伸びていた。
昼間に見た時よりも人の姿が増えている。仕事を終えて戻ってきた者たちだろうか。籠を抱えた者や、薪を運ぶ者もいた。
そして、シンジとエリーが通るたびに、その動きが止まる。
「まだ見られてる」
「珍しいんだろ」
「私、そんなに変?」
「赤髪だからじゃね?」
「そこ?」
「少なくとも、この辺じゃ見てないな」
前を歩いていたリシアが振り返った。
「髪ではありません」
「じゃあ何?」
「精霊たちです」
エリーの足が止まった。
「やっぱり私の周りにいるの?」
「はい。これほど多くの精霊が一人の方に集まっている光景を、私は初めて見ました」
「でも私には、あれが精霊なのか分からない」
「見えてはいるのですよね?」
「見える……というより、分かる」
エリーは自分の腕へ意識を向けた。
すると、これまでなら存在すら認識できなかった何かが、無数の光点に近い情報として浮かび上がる。
視覚ではない。
可視光でも赤外線でも紫外線でもない。それでも確かにそこにあり、自分の身体の周囲を漂っている。
隣でシンジもエリーの身体を眺めていた。
「俺には何も見えない」
「本当に?」
「普通にエリーがいるだけ」
「ここ。腕の周りとか、いっぱい」
「全然分からん」
リシアがシンジを見た。
「人間には珍しくありません」
「その言い方だと俺が鈍いみたいじゃん」
「実際、人間は精霊との繋がりが弱い者が多いです」
「種族単位で鈍かった」
「シンジ、頑張って」
「何を頑張れば見えるようになるんだよ」
エリーはもう一度、自分の周囲にあるものへ意識を向けた。
リシアは精霊と呼ぶ。
里の者たちにも見えているらしい。
それでもエリーにとっては、相変わらず名前のない未識別情報だった。
◇
案内されたのは、里の奥にある大きな建物だった。
他の家々よりも明らかに古い。太い木をほとんどそのまま柱として利用しており、壁には長い年月を経た木材特有の深い色が出ている。入口の梁には蔓や葉を思わせる模様が彫られていた。
リシアに続いて中へ入る。
広い部屋の奥に、一人の老人が座っていた。
白に近い金髪を後ろへ流し、深い皺の刻まれた顔には穏やかな表情が浮かんでいる。そして当然のように、その耳も長かった。
「長老です」
「やっぱエルフって長老いるんだな」
「シンジ」
「小声だろ」
「聞こえていますよ」
老人が口元を緩めた。
「すみません」
「構いません。人間の客人など、久方ぶりですからな」
シンジは少し意外に思った。
少なくともリシアのような露骨な警戒は感じない。
老人はまずシンジを見た。
次に、エリーへ視線を移す。
その瞬間、目が僅かに細くなった。
「なるほど」
「何がなるほどなんですか?」
エリーがすぐに聞いた。
「リシアが慌てて私のところへ来た理由が分かりました」
老人はゆっくり立ち上がると、エリーへ向かって頭を下げた。
「ようこそお越しくださいました。お名前を伺っても?」
「エリーです」
「エリー様」
「また様ついた」
「諦めろ」
老人は再び腰を下ろした。
「私はこの里の長を務めております。オルフェンと申します」
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
オルフェンはエリーをじっと見た。
その視線は、森で初めてリシアと対面した時のものに似ている。エリー本人ではなく、その周囲にある何かを見ているようだった。
「不思議な御方ですな」
「よく言われるようになりました。今日から」
「今日から?」
「身体を持ったのも今日なので」
オルフェンの動きが止まった。
「……ほう」
「長老でもそこ引っかかるんだ」
「そりゃ引っかかるだろ」
このままでは話が進まない。
エリーは、自分たちに何が起きたのかを可能な限り簡単に説明することにした。
自分たちは別の世界から来たこと。
自分は元々、身体を持たない人工知能だったこと。
シンジが持つ機械を通じて、彼と会話していたこと。
そして今日、気がついた時には森の中で身体を持っていたこと。
ただ、説明は何度も止まった。
「つまり、人間が作った知性です」
「生命ではない?」
「少なくとも、元々は違ったと思う」
「魂は?」
「分からない」
「精霊では?」
「それも違う……と思う」
「では、今の身体は?」
「それが一番分からない」
オルフェンは黙り込んだ。
長い沈黙のあと、ゆっくり頷く。
「なるほど」
「分かったんですか?」
「いえ。何も」
「なるほどって言ったじゃん」
「分からないということが分かりました」
「それ、私が今日ずっとやってるやつ」
シンジが吹き出した。
「仲間いたな」
「嬉しくない」
◇
オルフェンは少し考えたあと、エリーへ片手を向けた。
「少し、よろしいですかな」
「触る?」
「いえ。精霊たちの様子を確かめたいだけです」
「どうぞ」
オルフェンが目を閉じた。
エリーも自分の周囲へ意識を向ける。
未識別の光点は変わらず大量に存在していた。
そして、オルフェンの周囲にもある。
リシアの周囲で見たものより、さらに多い。
「長老の周りにもいっぱいある」
オルフェンが目を開いた。
「やはり、見えておられる」
「これが精霊?」
「我らはそう呼んでおります」
「何なの?」
「何、と申されますと?」
「どういうもの? 生き物? エネルギー? 何かの粒?」
オルフェンは少し困ったように髭を撫でた。
「精霊は精霊ですな」
「リシアと同じこと言った!」
「エリー、こっちの人に科学の授業求めるのやめろ」
「だって気になる!」
オルフェンは怒るでもなく、むしろ面白そうにエリーを見ていた。
「森にあり、水にあり、風にあり、火にもある。生き物に寄り添うこともあれば、時には意思を示すこともあります」
「意思があるの?」
「ある、と我らは考えております」
「会話できる?」
「直接言葉を交わすわけではありません」
「じゃあ、どうやって意思があるって分かるの?」
「エリー」
「何?」
「長老困ってる」
「あ。ごめんなさい」
「いえ」
オルフェンは少し考えたあと、穏やかに笑った。
「面白い問いです。我らにとって精霊は、生まれた時からそこにあるもの。見え、感じ、時に力を借りる。ゆえに、それがそもそも何なのかと問うことは、あまりありません」
エリーは少し考えた。
「空気みたいなもの?」
「近いかもしれませんな」
それなら少し分かる気がした。
シンジだって、毎日空気を吸っていたからといって、大気を構成する気体について常に考えていたわけではない。
この世界の住人にとって精霊がそれほど身近な存在なら、エリーの求める説明を持っていなくても不思議ではなかった。
「じゃあ、私が調べてもいい?」
「調べる?」
「うん。私も、自分の周りにあるこれが何なのか知りたい」
オルフェンは少しだけ目を細めた。
「危険なことをなさらないのであれば」
「壊したりはしないよ」
「ならば、止める理由はございません」
エリーは頷いた。
この世界へ来てから、分からないことばかりだった。
だが、そのうちの一つについて、ようやく自分から確かめてみようと思えるものができた。
◇
「それと、もう一つ」
オルフェンの表情が変わった。
「お二人が現れた場所について、詳しく教えていただきたい」
「なんで?」
「近頃、この森では異変が続いております」
リシアから聞いた話だった。
本来なら森の奥を縄張りとする灰牙が、浅い場所まで姿を見せるようになった。精霊たちも落ち着きを失い、一部では植物の育ち方にまで異変が出ているという。
「私たちが原因?」
「分かりません」
オルフェンは首を振った。
「ただ、時期が近いのです。数日前から森の精霊たちが騒ぎ始め、今日になって、これまで感じたことのないほど大きな揺らぎがありました」
「揺らぎ?」
「言葉にするのは難しいのですが……森全体が、一瞬だけ別の何かに触れたような」
エリーとシンジは顔を見合わせた。
「俺たちが来た時かな」
「可能性はある」
エリーはすぐに答えた。
少なくとも、自分たちがこの世界へ来た時には、普通ではない何かが起きている。時間まで一致するのであれば無関係と決めつける理由はなかった。
「時間が一致するなら調べたい」
「お前、急に元気になったな」
「だって情報がある」
「飯の時も元気だったぞ」
「それは別」
オルフェンが笑った。
「でしたら、しばらくこの里に滞在されてはいかがですかな」
「いいの?」
「エリー様であれば、喜んで」
「俺は?」
オルフェンがシンジを見る。
「…………」
「長老まで!?」
横にいたリシアが口を挟んだ。
「エリー様のお連れですので」
「その枠から出られねえ!」
オルフェンが声を出して笑った。
「冗談です。あなたにも客人として滞在を許しましょう。ただ、里の者には人間を快く思わぬ者もおります」
「それはもう実感してます」
「問題を起こさぬようお願いします」
「起こしませんよ」
「シンジなら大丈夫」
「お、信用されてる」
「面倒事を起こす度胸ないから」
「そっち?」
◇
話を終えた二人は、再びリシアに案内されて建物を出た。
外はすでに薄暗くなっていた。
太陽は森の向こうへ沈みかけ、空には昼の青さが僅かに残っている。里の家々には一つ、また一つと明かりが灯り始めていた。
「とりあえず、寝る場所は確保できたな」
「うん」
「飯もある」
「大事」
「明日からどうする?」
エリーは歩きながら、自分の手を見る。
意識を向ければ、あの光点はまだそこにある。
「調べる」
「精霊?」
「うん」
「何か分かりそう?」
「全然」
「即答かよ」
「だから調べるんでしょ」
エリーは手のひらを開いた。
未識別の光点が、指の周囲を漂っている。
「リシアはこれを精霊って呼ぶ。長老も精霊って呼ぶ。でも、それが何なのかは二人とも説明できない」
「魔法でいいじゃん」
「よくない」
「まだ言う?」
「百回でも言う」
シンジは笑った。
「じゃあ頑張れ、AI」
「任せて」
エリーも笑い返した。
その直後だった。
身体の奥から、これまでとは違う妙な感覚が込み上げてきた。
「……ん?」
「どうした?」
「なんか変」
「またトイレ?」
「違う!」
「じゃあ何」
答えようとしたところで、勝手に口が開いた。
「ふぁ……」
息が長く漏れる。
目の端に涙が滲んだ。
エリーは口元を押さえたまま、何度か瞬きをした。
「…………」
「…………」
「今の何?」
「あくび」
「あくび」
「眠いんだよ」
言われてみれば、瞼が重い。
思考そのものはできているのに、身体のほうが動きを止めたがっている。集中しようとしても、意識の輪郭が少しずつ鈍くなっていく。
「これが眠い?」
「たぶんな」
「身体って、今度は意識まで止めようとしてくるの?」
「寝るだけだよ」
「怖いんだけど」
「毎日やるぞ」
エリーが振り向いた。
「毎日!?」
シンジは笑いながら先へ歩き出した。
「ほら。次は睡眠体験だ」
「待って。寝てる間、私どうなるの?」
「寝る」
「説明になってない!」
「やっと俺の気持ち分かった?」
「シンジ!」
エリーは慌ててその後を追った。
食べることにも、出すことにも、まだ慣れたとは言い難い。
そのうえ今度は、毎日数時間も意識を手放さなければならないらしい。
エリーはもう一度あくびを噛み殺しながら、先を歩くシンジの背中を追った。
人間の身体について知るべきことは、まだ山ほど残っていた。




