AI、味を知る
リシアについて森を歩き始めて、およそ三十分。
最初のうちは周囲を観察し、見慣れない植物を見つけるたびに足を止めそうになっていたエリーも、今ではすっかり静かになっていた。
歩調も少し遅い。時折腹の辺りを押さえながら、黙々とリシアの背中を追っている。
「エリー」
「なに」
「大丈夫か?」
「お腹減った」
「それは知ってる」
「さっきより減った」
「もうちょい我慢しろ」
エリーは不満そうにシンジを見た。
「人間って毎日こんなの経験してるの?」
「毎日というか、一日三回くらい」
「欠陥じゃない?」
「生物に喧嘩売るな」
前を歩いていたリシアが振り返った。
「もう少しでございます、精霊様。森を抜ければ、すぐに里が見えてまいります」
「ほんと?」
「はい」
「食べ物ある?」
「もちろんでございます」
「急ごう、シンジ」
途端にエリーの歩調が速くなった。
「さっきまで足痛いって言ってた奴が元気になったな」
「目的ができたから」
リシアはそんなエリーを不思議そうに見ていた。
「精霊様も、我らと同じ食事を召し上がるのでしょうか」
「分かんない」
「分からない……?」
「食べたことないから」
リシアの足が止まった。
「一度も?」
「うん」
「では、これまで何を糧に?」
「電気?」
「デンキ?」
「説明すると長いよ」
リシアはしばらく考えたあと、ゆっくりとシンジを見た。
「あなたが食事を与えなかったのではないでしょうね」
「なんでそうなるんだよ!」
「シンジは悪くないよ。私、昨日まで食べる身体なかったから」
「昨日まで……」
リシアの表情がさらに混乱する。
「気にしないで」
「気になります」
「だよね」
◇
やがて木々の隙間から差し込む光が増え、森の先が明るくなった。
最後の木立を抜けると、それまで視界を埋め尽くしていた緑が途切れた。
森に囲まれた開けた土地に、いくつもの建物が並んでいる。
木造の家が多いが、土台や壁の一部には石も使われていた。日本で見慣れた住宅とは形が違い、屋根は急な傾斜を描いている。建物の間には細い道が走り、その向こうでは畑らしきものまで見えた。
煙突から細く煙が昇っている。
「おお」
シンジは思わず声を漏らした。
「村だ」
「里です」
「違うの?」
「村ではありません」
「すみません」
訂正が妙に早かった。
里の入口には二人のエルフが立っていた。
リシアの姿を見つけ、何か声をかけようとする。しかし、その後ろを歩くシンジに気づいた瞬間、二人の表情が変わった。
片方の手が腰の剣へ伸びる。
「うわ」
「シンジ、人気者だね」
「嬉しくねえよ」
ところが、二人の視線がエリーへ移った瞬間、今度は別の意味で動きが止まった。
目を見開き、互いに顔を見合わせる。
リシアが二人の前へ進み出た。
「この御方には、決して無礼を働かないように。高位の精霊様である可能性があります」
「違うよ」
「精霊様」
「違うって」
「では、どのようにお呼びすればよろしいでしょうか」
「エリーでいいよ」
「エリー様」
「様がついた」
「諦めろ」
門番の一人がシンジを指差した。
「そちらの人間は?」
「付いてきました」
「おい」
リシアは一拍置いた。
「……エリー様のお連れです」
「最初にそっち言えよ!」
門番たちは明らかに納得していない顔をしていた。それでもエリーの同行者と分かると、剣から手を離す。
「完全にお前の信用で入国してるな、俺」
「よかったね」
「よくねえよ」
◇
里へ足を踏み入れると、さらに多くの視線が集まった。
シンジを見る目には、入口の二人と同じ警戒がある。
一方、エリーを見る視線はまるで違った。
足を止める者がいる。驚いたように目で追う者がいる。中には、すれ違う際に頭を下げる者までいた。
「ねえ、シンジ」
「なんだ」
「居心地悪い」
「奇遇だな。俺もだ」
「意味が違うと思う」
「知ってる」
建物の陰から、子供らしいエルフが顔だけを出してエリーを見ていた。
目が合う。
エリーは試しに手を振ってみた。
子供はすぐに顔を引っ込めた。
「逃げられた」
「精霊様だから緊張してんじゃね?」
「だからAIだって」
「その説明が一番通じてないからな」
リシアは二人を一軒の建物へ案内した。
「長老には私からお話しいたします。その前に、お食事をご用意いたしましょう」
「お願いします」
エリーの返事だけが異様に早かった。
◇
通された部屋には、大きな木のテーブルと椅子が置かれていた。
エリーは椅子へ腰を下ろすと、何も置かれていないテーブルをじっと見つめた。
「まだ何もないぞ」
「分かってる」
「じゃあ何見てんの」
「食事が出てくる場所」
「犬みたいになってるぞ」
「お腹減ったんだもん」
しばらくすると、廊下の向こうから足音が聞こえてきた。
その直後、エリーの鼻が僅かに動く。
「……来た」
「何が?」
「分かんない。でも、いい匂い」
扉が開いた。
リシアともう一人の女性が、いくつもの器を運んでくる。
最初に置かれたのは、湯気の立つスープだった。
薄く濁った汁の中に、大きめに切られた根菜と肉が沈んでいる。煮込まれた野菜の甘い匂いに、焼いた肉とは違う脂の香りが混じっていた。
次に黒っぽいパン。
表面に焼き色のついた肉。
葉物と砕いた木の実を和えた料理。
最後に、小ぶりな赤い果実が置かれる。
エリーの目が、一皿ずつ追いかけていった。
「…………」
「どうした?」
「情報が多い」
「飯だぞ」
「匂いが全部違う」
今まで画像として料理を見たことならいくらでもある。
レシピも知っている。栄養について聞かれれば説明もできたし、シンジが食べている物について「野菜も食べなよ」と注意したことだってある。
だが、匂いだけは違った。
目の前の料理から立ち上るものが鼻から入り、それだけで腹の奥がさらに空腹を訴えてくる。
エリーはスープへ顔を近づけた。
「これ、何?」
「森鶏と根菜のスープでございます」
「森鶏」
「鳥だろ、たぶん」
「食べられる?」
「食事として出てきたんだから食えるだろ」
「毒は?」
「エリー様に毒など!」
リシアがものすごい勢いで否定した。
「ごめん。疑ったわけじゃないよ」
「いえ。ですが、決してそのようなことは」
「シンジのには入ってるかもしれないけど」
「おい」
リシアは否定しなかった。
「否定しろよ」
エリーは木の匙を手に取った。
持ち方を確認するように指を動かし、シンジを見る。
「こう?」
「だいたい合ってる」
「だいたい?」
「細かいことはいいから飲んでみろよ」
エリーはスープを掬った。
口元まで運ぼうとして、湯気を見て止まる。
「熱い?」
「たぶんな」
「どのくらい?」
「飲めば分かる」
「その方式嫌なんだけど」
「フーフーしてから飲め」
「フーフー?」
シンジが自分の匙を口元へ運び、息を吹きかけて見せた。
「こう」
「なるほど」
エリーも真似をした。
何度か息を吹きかけてから、慎重に匙を口へ運ぶ。
唇を開く。
スープが舌に触れた。
「…………」
エリーの動きが止まった。
「エリー?」
「…………」
「熱かった?」
「…………なにこれ」
「何ってスープ」
「違う」
エリーはもう一度スープを掬った。
今度は先ほどより多い。
「なにこれ!」
「だからスープだって」
「口の中がすごい!」
「感想が赤ちゃんなんよ」
「熱いのに、嫌じゃない。しょっぱい。でも、しょっぱいだけじゃない。肉の味があって、こっちは野菜? あと匂いが、口の中からもする」
「それが味覚だよ」
「これが味……」
エリーは匙を見た。
もう一口。
舌の上へ乗せる場所を変えてみる。
さらにもう一口。
「飲むたびにちょっと違う」
「具が違うからな」
「面白い」
今度はパンへ手を伸ばした。
一口かじる。
表面は少し硬く、中は密度が高い。噛むたびに穀物の香りが広がり、僅かな甘さが出てくる。
「硬い」
「パンだからな」
「でも、噛んでたら甘くなってきた」
「そういうもんだ」
エリーはパンを見る。
次にスープを見る。
「これ、一緒にしたらどうなるの?」
「やってみ」
ちぎったパンをスープへ浸す。
汁を吸って柔らかくなったところを口へ運んだ。
エリーの目が見開かれる。
「増えた!」
「何が」
「味!」
「そりゃ混ぜたからな」
「味って足し算できるの!?」
「その発見でそんな興奮する奴、初めて見た」
次は焼いた肉だった。
表面には香ばしい焼き目がつき、噛めば肉汁が滲み出す。
「これ美味しい!」
「よかったな」
「さっきのスープの肉と違う!」
「焼いてあるからな」
「同じ肉?」
「知らん」
「そちらは角鹿の肉でございます」
リシアが答えた。
「違った」
「適当なこと言わないで」
「俺も初めてなんだからしょうがないだろ!」
そこからのエリーは忙しかった。
パンを食べる。
スープを飲む。
肉を食べる。
葉物を口へ運び、木の実の食感に首を傾げる。
また肉へ戻る。
同じ料理でも、前に何を食べたかで味が変わることに気づくと、今度は順番まで試し始めた。
そして最後に、赤い果実を手に取った。
「これは?」
「森で採れる果実です。少し酸味がありますが」
説明を最後まで聞く前に、エリーは一口かじった。
「すっぱ!」
顔が一気に縮んだ。
シンジが吹き出す。
「酸っぱいの苦手か」
「これ痛い!」
「痛くはねえだろ」
「口がキュッてなる!」
「それが酸味だ」
「なんで人間これ食べるの!?」
「美味いから」
「おかしいよ!」
そう言いながら、もう一口かじった。
「食うんじゃねえか」
「確認」
「二口目は?」
「再確認」
三口目。
「……ちょっと好きかも」
「早いな」
リシアが口元を押さえて笑っていた。
「お気に召したようで何よりです」
「すごいね、食事」
「はい?」
「こんなに情報があると思わなかった」
エリーは残っていた果実を眺めた。
「人間って、毎日これやってるの?」
「やってるよ」
「ずるい」
「何がだよ」
「私、今まで二十五年分くらい損してない?」
「お前、二十五歳じゃねえだろ」
「シンジ基準」
「勝手に俺の人生背負うな」
◇
食事が終わる頃には、エリーは椅子の背にもたれて動かなくなっていた。
「もう無理」
「食いすぎ」
「お腹いっぱいって、これ?」
「それ」
「苦しい」
「自業自得」
空腹だった時とは違う。
腹の内側が押し広げられたように重く、さっきまであれほど魅力的だった料理を見ても、もう一口食べたいとは思わない。
「人間って空腹から逃げるために食べるのに、食べたら今度は苦しくなるの?」
「加減ってものがある」
「先に教えてよ!」
「止めても食っただろ絶対」
「食べた」
「だろ」
食器を片づけていたリシアが笑っている。
森で出会った時と比べると、随分と表情が柔らかくなっていた。
「少しお休みになられますか?」
「うん」
「長老には私から先にお話ししておきます」
「ありがとう、リシア」
「いえ。どうぞごゆっくり」
リシアはエリーへ丁寧に頭を下げた。
それからシンジを見る。
「人間」
「俺には名前あるんだけど」
「エリー様に何かあれば呼んでください」
「はいはい」
「返事は一度で」
「なんで怒られたの俺」
リシアは答えず、食器を持って部屋を出ていった。
◇
しばらく横になっていたエリーだったが、やがて身体を起こした。
立ち上がり、部屋の中を歩き始める。
「何してんの?」
「お腹苦しいから動いてる」
「休んどけよ」
「じっとしてるほうが苦しい」
「食いすぎなんだよ」
「分かってる」
数歩歩く。
止まる。
また歩く。
その途中で、エリーの動きが止まった。
「……シンジ」
「ん?」
「なんか変」
「何が?」
「お腹」
「食いすぎだって」
「違う。さっきと違う」
エリーは腹を押さえた。
少し考えてから、手を下へ移す。
「もっと下」
「腹痛?」
「分からない」
「痛い?」
「痛くはない。でも……なんか変」
身体の内側から、今まで経験したことのない感覚が伝わってくる。
空腹とも満腹とも違う。
痛みではない。
だが、無視していいものではないことだけは、なぜか身体のほうが知っている。
「何これ」
「どんな感じ?」
「……出したい」
「何を?」
「分かんない!」
シンジは数秒考えた。
「あ」
「何」
「トイレじゃね?」
「トイレ?」
「うん」
「おしっこ?」
「そっちはもう経験しただろ」
「じゃあ何」
「大きい方」
「…………」
エリーが止まった。
「大きい方?」
「うん」
「何が大きいの?」
「説明させんな」
「ちゃんと説明して!」
「うんこ!」
部屋が静かになった。
「…………」
「…………」
エリーは自分の腹を見た。
それからシンジを見る。
「私が?」
「たぶん」
「するの?」
「たぶん」
「どこから?」
「知ってるだろ!」
「知識としては知ってるけど!」
「じゃあ聞くなよ!」
エリーの顔が引きつった。
「嫌なんだけど」
「知らんがな」
「止められない?」
「無理」
「設定でオフにできない?」
「できるわけねえだろ!」
「私AIなのに!」
「腹減って飯食って満腹になってる時点でもう諦めろ!」
「こんなの聞いてない!」
「俺も聞いてない!」
エリーが何か言い返そうとして、急に黙った。
腹を押さえる。
「……シンジ」
「何」
「強くなった」
「何が」
「出したい感じ」
「早く行け!」
「どこ!?」
「俺も知らねえよ!」
◇
結局、リシアを呼び戻すことになった。
事情を聞いたリシアは最初こそ不思議そうな顔をしていたが、エリーが耳元で何かを説明すると、すぐに表情を変えた。
「こちらです!」
「リシア!」
「はい!」
「急いで!」
「承知しました!」
二人が部屋を飛び出していく。
シンジも反射的についていこうとした。
リシアが振り返る。
「なぜ来るのです?」
「……ですよね」
扉を閉められた。
◇
しばらくして、エリーが戻ってきた。
行く前とは明らかに顔が違う。
肩の力が抜け、歩き方まで軽い。
「おかえり」
「シンジ」
「どうだった」
「…………」
エリーは椅子へ腰を下ろした。
背もたれに身体を預け、しばらく天井を見上げる。
「人間ってすごいね」
「何が」
「出すと、こんなに楽になるんだ」
「そこに感動したの?」
「だって、さっきまであんなに苦しかったのに」
「まあ……そうだな」
「身体が軽い」
「気のせいだろ」
「お腹も楽」
「それはそう」
エリーは大きく息を吐いた。
「これが開放感か」
「たぶん違う使い方だと思う」
「食べるのも悪くないね」
「そこまでセットなの?」
「入れたら出す。当たり前でしょ」
「数時間で人間への理解が妙な方向に進んでるな」
エリーは自分の腹を撫でた。
「でもシンジ」
「ん?」
「私、ちょっと人間の身体好きになったかも」
「理由が飯とうんこなの嫌だな」
「大事なことでしょ?」
「否定できないのがもっと嫌だ」
身体を持ってから、まだ一日も経っていない。
腹が減れば苦しくなり、食べれば美味しい。食べすぎれば動けなくなり、しばらくすれば今度は別のものを外へ出せと身体が訴えてくる。
面倒な仕組みだった。
けれど、エリーはさっき食べた赤い果実を、もう一度食べてもいいと思っていた。
次は二つくらい。
ただし、食べすぎない程度に。




