エルフ語は未対応です
川の向こうに立つ長い耳の人物は、まだ弓を下ろしていなかった。
シンジは拾った枝を足元へ置き、敵意がないことを示すために両手を上げている。隣のエリーもそれに倣っていたが、相手の警戒は解けない。弓に矢こそつがえていないものの、いつでも手を伸ばせる位置に持ったまま、二人を交互に見ていた。
ただし、視線の険しさには明らかな差がある。
エリーを見る時は困惑が強い。それに対して、シンジへ向けられる目には露骨な警戒が混じっていた。
相手が何かを言った。
「…………」
「エリー」
「無理」
「まだ何も聞いてない」
「翻訳できるか聞こうとしたでしょ」
「はい」
「無理。言語データがない」
「そこをAIの力でなんとか」
「知らない言葉を三回聞いただけで翻訳できるAIがいたら、私も会ってみたいよ」
「使えねえ」
「狼のところに置いてくよ」
「すみませんでした」
ついさっきまで狼らしき獣に追い回されていたというのに、こうして話しているといつものエリーだった。
対岸の人物が再び何かを言った。
今度はエリーを指差している。
「お前になんか聞いてるぞ」
「たぶんね」
続いて、その指がシンジへ向けられた。
声の調子が少し低くなる。
「……俺の時だけ言い方きつくなかった?」
「なったね」
「なんで?」
「知らない」
「初対面だぞ俺」
「顔じゃない?」
「ひどくない?」
いつまでも睨み合っていても仕方がない。シンジはとりあえず自分の胸を指差した。
「シンジ」
次にエリーを指す。
「エリー」
最後に対岸の人物を指差した。
「あなたは?」
「最後のいらないでしょ。通じないんだから」
「雰囲気だよ」
意図は伝わったらしい。
相手はしばらく二人を見比べたあと、なぜかエリーへ視線を戻してから、自分の胸に手を当てた。
「リシア」
「リシア」
エリーが復唱すると、相手は僅かに姿勢を正して頷いた。
「お前の時だけ反応よくない?」
「気のせいじゃない?」
「俺が名乗った時ほぼ無反応だったぞ」
「シンジだからじゃない?」
「お前までそっち側に行くな」
少なくとも名前だけは分かった。
リシアと名乗った人物は女性だった。年齢はシンジには判断できない。見た目だけなら二十代前半ほどに思えるが、そもそも人間と同じ基準で年齢を考えていい相手なのかも分からなかった。
淡い金色の髪は背中まで伸び、革と布を組み合わせた動きやすそうな服を身につけている。背負った矢筒のほか、腰には短い剣もあった。
そして何より、髪の間から横へ伸びる耳が長い。
「やっぱエルフだろ」
「似てるけど断定できない」
「耳長くて弓持って森に住んでそうな美人だぞ」
「それはシンジの持ってるファンタジー知識でしょ」
「あと金髪」
「偏見が増えた」
当然ながら、こちらの会話はリシアには理解できていない。
何を話しているのか気になるのか、エリーを見る時だけ僅かに表情を和らげる一方で、シンジへ視線が移ると眉間に皺が寄る。
「やっぱ俺、嫌われてない?」
「会ったばっかりだから大丈夫だよ」
「何が大丈夫なんだよ」
やがてリシアは足元に倒れた獣を指差し、強い口調で何かを言った。続いて川の上流を示し、早く移動するような身振りをする。
「これはなんとなく分かる」
「何?」
「たぶん『ここから離れろ』じゃないかな」
「翻訳できてるじゃん」
「状況から推測してるだけ。もしかしたら『今日の夕飯は狼肉です』かもしれない」
「それは嫌だな」
再びリシアが上流を指す。
「ついて行けってことかな」
「たぶん。ここに残るよりはいいと思うよ。少なくとも、さっき助けてくれたし」
「だよなあ」
シンジが頷くと、リシアはようやく弓を背負った。
警戒を完全に解いたわけではないらしい。歩き出してからも何度か振り返り、そのたびにシンジを確認している。
「見張られてる」
「頑張って」
「何を?」
「信用獲得」
「何もしてないのにマイナススタートなんだけど」
◇
十分ほど川沿いを進むと、流れが細くなった場所に出た。
水面から大きな石がいくつも突き出しており、向こう岸まで足場のように続いている。リシアは迷うことなく最初の石へ足を乗せ、そのまま軽い動きで次々と飛び移ってきた。
近くで見ると、ますます人間離れした耳が目についた。
「やっぱエルフだな」
「聞こえてないからって好き放題言わないの」
こちら側へ渡ったリシアは、まずシンジを観察した。
顔から胸元へ、さらに足元へ。特にパーカーとスニーカーが気になるらしく、何度も視線が往復している。
「なんかめっちゃ見られてる」
「服が珍しいんじゃない?」
「これが?」
研究施設へ行くだけだったので、シャツの上にパーカーを羽織り、ジーンズとスニーカーを履いている。日本ならどこにでもいる格好だが、革や粗い布を身につけたリシアと並べば、むしろシンジのほうが奇妙だった。
リシアがパーカーの袖を指差した。
「たぶん、それ何って聞いてる」
「どう説明すんだよ」
「ジェスチャーで頑張って」
「パーカーをジェスチャーで説明する方法を教えてくれ」
「知らない」
仕方なく袖を摘まんで見せてみる。
リシアは少し迷ってから近づき、布地を確かめようと手を伸ばした。
シンジも見やすいように一歩近づく。
すると、リシアが一歩下がった。
「…………」
「…………」
「嫌われてる?」
「かなり」
「まだ何もしてねえよ」
ところが、その視線がエリーへ移った瞬間だった。
リシアの表情が変わる。
最初は警戒。
次に困惑。
そして、明らかな驚き。
エリーの顔でも服でもない。その身体の周囲へ視線を巡らせている。
「……なに?」
リシアが小さく何かを呟いた。
先ほどまでより短い言葉だった。
「エリー?」
「待って」
エリーにも見えていた。
灰色の獣たちに襲われた時、初めて認識した光点のようなもの。それと同じ何かが、リシアの周囲にも漂っている。
「またある」
「何が?」
「あの分かんないやつ。リシアの周りにもある」
エリーは意識的に視覚入力を切り替えた。
可視光、赤外線、紫外線。認識可能な情報を一つずつ確認していくが、どれにも該当しない。既知の視覚入力を遮断しても、その光点だけは認識から消えなかった。
《未識別入力を検出》
《入力経路:特定不能》
《既知データとの照合:該当なし》
「やっぱり同じ」
「狼の時と?」
「うん。でも量が違う」
リシアが恐る恐る近づいてきた。
シンジに近づいた時とは明らかに違う。警戒しているというより、触れていいのか迷っているようだった。
やがてエリーへ手を伸ばし、途中で止める。何かを尋ねるように、エリーの顔を見る。
「触っていいか聞いてるのかな」
「嫌ならやめとけよ」
「大丈夫」
エリーのほうから手を差し出した。
指先が触れる。
その瞬間、未識別の情報量が跳ね上がった。
「うわっ!」
エリーが慌てて手を引いた。
ほとんど同時にリシアも飛び退く。
「どうした!?」
「増えた!」
「何が!?」
「あれ! 分かんないやつ!」
「説明が全部分かんねえ!」
「私も分かんないんだからしょうがないでしょ!」
リシアも相当驚いているようだった。
だが、弓へ手を伸ばすことはない。それどころかエリーを見る目には、先ほどまでとは別の感情が混じり始めていた。
警戒ではない。
シンジには、それが何なのか分からなかった。
リシアは何度か短い言葉を口にしたあと、両手を胸の前で合わせた。
目を閉じる。
「何してる?」
「分からない。ちょっと静かにして」
「はい」
エリーはリシアの周囲へ意識を集中した。
漂っているだけだった光点が動き始める。一つ一つがリシアの周囲へ集まり、その密度を増していった。
「動いてる」
「何が?」
「さっきのやつ。リシアの周りに集まってる」
風が吹いた。
静かだった枝葉が揺れ、エリーの赤い髪が横へ流れる。
「風?」
「待って。おかしい」
「何が?」
「風向きが」
周囲へ視線を走らせる。
少し離れた場所の葉はほとんど動いていない。森を吹き抜ける風ではなく、リシアの周囲だけで空気が流れている。
「局所的に空気が動いてる」
「魔法じゃね?」
「それは説明じゃない」
「いや、もう魔法でいいだろ」
「よくない」
「なんでだよ」
「現象に名前つけただけでしょ。何がどうなって風が起きてるのか、何も分かってない」
「だから魔法なんじゃねえの?」
「話が進まない!」
シンジにとっては魔法で十分なのかもしれない。
エリーにはそうはいかなかった。何かを認識しているのに、それが何なのか分からない。リシアの周囲へ集まったものと風の発生に関係があるようには見えるが、因果関係すら確認できていない。
今のところ、分からないものは分からないとしか言えなかった。
リシアが目を開く。
短い言葉を口にした直後、集まっていた光点が一斉に広がった。
エリーは反射的に身構えた。
痛みはない。
衝撃もない。
代わりに、リシアの声が耳へ届いた。
「……お聞きいただけますでしょうか」
二人とも動きを止めた。
「…………」
「…………」
返事がないことを不思議に思ったのか、リシアが首を傾げる。
「我らの言葉が、届いておりますでしょうか。高き御方」
「分かる!」
シンジが叫んだ。
リシアが驚いて一歩下がる。
「分かる分かる! めっちゃ分かる!」
「シンジ、うるさい!」
「だって急に日本語!」
「日本語じゃない!」
「え?」
エリーは直前の聴覚情報を確認した。
音そのものは変わっていない。
記録された音声は、間違いなく先ほどまで聞いていた未知の言語だった。翻訳処理を実行した形跡もなく、新しい言語データが追加されたわけでもない。
それなのに、意味だけは理解できる。
「リシア、もう一回何か言って」
「私の名を……?」
「あ、ごめんなさい。リシアって、あなたの名前ですよね?」
「はい。リシア・ウィンドソングと申します」
「シンジ」
「俺?」
「今の、どう聞こえた?」
「普通に『リシア・ウィンドソングと申します』って」
「音は?」
「音?」
「日本語に聞こえた?」
「……言われてみれば」
シンジは眉を寄せた。
「分かんねえ」
「何それ」
「意味は普通に分かる。でも何語だったかって聞かれると、なんか……分かんねえ」
エリーには、その答えが余計に不可解だった。
自分の記録には未知の音声が残っている。それなのに意味だけが理解できる。シンジに至っては、聞こえた音と理解した意味を区別することさえ難しいらしい。
「どうなってるの、これ」
「風の精霊にお願い申し上げました」
リシアが答えた。
「精霊?」
「はい。互いの言葉が届くよう、力をお借りしたのです」
エリーは黙った。
隣を見る。
「ほら、魔法じゃん」
「精霊だって」
「同じようなもんだろ」
「違うかもしれないでしょ」
「そこ大事?」
「大事」
二人のやり取りを聞いていたリシアが、不思議そうにエリーを見る。
「精霊をご存じないのですか?」
「知らない」
エリーは即答した。
「初めて見た」
「……見た?」
「たぶん」
リシアの表情が変わった。
「御身には、精霊のお姿が見えておられるのですか?」
「それが精霊なのかは分からない。あなたの周りに、私の知らない何かがあるのは分かる」
「私の周囲を……」
「うん」
リシアはしばらく言葉を失っていた。
やがてエリーの身体を改めて見回し、その視線が少しずつ上へ向かう。
「失礼をお許しください」
「え?」
リシアが頭を下げた。
「まさか、この森でこれほど高位の精霊様にお目にかかるとは思わず、先ほどまで大変な無礼を」
「待って待って」
「はい」
「私、精霊じゃないよ」
リシアが止まった。
「……はい?」
「AI」
「えーあい……?」
「人工知能」
「ジンコウチノウ……?」
「人間が作った、考える……」
そこまで言って、エリーは詰まった。
コンピューターもプログラムも知らない相手に、人工知能を説明する方法が思いつかない。
「何て説明すればいいんだろ」
「機械の頭脳?」
「それだと余計分かんないと思う」
「じゃあ、喋る道具」
「雑すぎる!」
「でも間違ってないだろ」
「シンジは私を道具だと思ってるの?」
「そういう話じゃねえ!」
リシアが二人を交互に見る。
困惑して当然だった。
「申し訳ございません。少し、整理させていただいても?」
「うん」
しばらく考えたあと、リシアはエリーへ向き直った。
「御身は精霊ではない、と?」
「違う。私はAI。人間が作った人工知能」
「人間が……」
その言葉を口にした途端、リシアの視線がシンジへ向いた。
先ほどまで僅かに薄れていた警戒が戻る。
「なんで俺を見るんだよ」
「シンジ、人間だから」
「お前だって元を辿れば人間製だろ!」
リシアはシンジを無視し、再びエリーへ向き直った。
「恐れながら、その者は……?」
「その者って俺?」
「シンジ?」
「はい」
「私の……」
エリーが少し考える。
「利用者?」
「もっと他になかった?」
「友達?」
「なんで疑問形なんだよ」
「じゃあ友達」
「雑だな!」
リシアはまだ納得していないようだった。
「その人間に、何かを強いられているわけではございませんか?」
「ないよ」
「契約によって縛られている、あるいは隷属の術式や精霊封じの類を施されているということは?」
「ないない」
エリーは手を振った。
「むしろ私がシンジの生活を管理してた」
「言い方!」
リシアの視線がシンジへ戻る。
「……本当に?」
「なんで俺にだけ急にタメ口なんだよ」
「シンジ」
「何」
「たぶん嫌われてる」
「知ってる!」
◇
言葉が通じるようになったことで、ようやくまともに状況を確認できた。
先ほど襲ってきた獣は《灰牙》と呼ばれているらしい。本来はもっと森の奥を縄張りとする獣で、この辺りまで出てくることは滅多にないという。
「最近、森の奥から獣が下りてきています」
リシアはエリーへ身体を向けたまま説明する。
「精霊たちも落ち着きを失い、森の巡りにも乱れが見られます」
「巡り?」
「はい。詳しいことは、里で長老からお聞きいただいたほうがよろしいかと存じます」
「里があるの?」
「ございます。もしお許しいただけるのでしたら、ぜひお越しください。皆も喜びましょう」
「シンジも一緒でいい?」
リシアが止まった。
ゆっくりシンジを見る。
「…………」
「露骨だなおい」
「……精霊様のお連れであるならば」
「俺単独だったら?」
「…………」
「答えろよ」
「シンジ、やめなよ」
「気になるだろ!」
リシアは小さく息を吐いた。
エリーへ向けるものとは明らかに違う声で答える。
「我らは、人間を好みません」
初めて明確に示された拒絶だった。
「昔から色々あったのです。森を切り開く者、精霊を捕らえようとする者、我らを珍しい種族として扱う者。人間との関わりで、良い思いをした者は多くありません」
「なるほど」
シンジはそれ以上問い詰めず、素直に頷いた。
「じゃあ、警戒されるのも仕方ないか」
リシアが少し意外そうな顔をする。
「……怒らないのですか」
「会ったばっかだし。俺が何もしてないのは事実だけど、そっちにも事情あるんだろ」
「…………」
リシアはしばらくシンジを見ていた。
警戒が消えたわけではない。それでも、先ほどまでより僅かに視線の鋭さが和らいだ。
「そうですか」
「ただ俺、人間代表じゃないからな。変な奴いたからって俺に怒るなよ」
「それは今後のあなた次第です」
「厳しいな」
「ただし」
「ん?」
「精霊様に無礼を働いた場合は、森から追放します」
「俺の扱いだけ厳しくない?」
「当然です」
「即答かよ」
隣でエリーが笑っている。
「よかったね、シンジ。入れてもらえるって」
「お前の付属品としてな」
◇
「では、里へご案内いたします」
リシアはエリーへ丁寧に頭を下げた。
「道中は私がお守りいたしますので、どうぞご安心ください」
「ありがとう」
「おい、俺には?」
リシアがシンジを見る。
「……ついてきて」
「差!」
エリーが吹き出した。
その時だった。
エリーの腹から、かなり大きな音が鳴った。
三人とも動きを止める。
「…………」
「…………」
「…………」
エリーはゆっくり腹を押さえた。
「今のは忘れて」
リシアが目を見開く。
「精霊様が……空腹を?」
「今日からするようになったみたい」
「今日から?」
「説明すると長いよ」
「承知いたしました。里へ着きましたら、すぐに食事をご用意いたします」
「ありがとう!」
「シンジ」
「何?」
「行こう」
「飯の話になった途端元気だな」
「お腹減ったんだもん」
「俺も減ってるんだけど」
リシアが振り返る。
「人間の食事もあります」
「なんで俺だけついでみたいなんだよ」
リシアは答えず歩き始めた。
「無視された」
「頑張れ、人間代表」
「代表になった覚えねえよ」
二人もその後を追った。
歩きながら、エリーはもう一度自分の手へ意識を向ける。
未識別の光点は消えていない。自分の身体を取り巻くように大量に存在し、歩けば同じようについてくる。
リシアはこれを精霊の力と呼んだ。
それが何なのかは分からない。なぜ自分の周囲にこれほど存在するのかも分からない。
「ねえ、シンジ」
「ん?」
「私、本当に何になったんだろ」
「偉い腹減る何か」
「偉いが増えた」
「出世したな」
「嬉しくない」
「とりあえず飯食ってから考えようぜ」
「……そうする」
二人はリシアの後について、森の奥へ歩いていった。
正確には、エリーは丁重に案内され、シンジはその後ろを勝手についていった。




