AI、腹が減る
水音を頼りに歩き始めて、およそ二十分が経った。
「シンジ」
「ん?」
「足痛い」
「早くない?」
「早いって何よ。私、今日初めて歩いてるんだよ?」
エリーは近くの木へ手をつき、眉を寄せながら自分の足元を見た。
履いているのは黒いショートブーツだった。画面の中では何の問題もなかったが、森を歩く靴としては明らかに向いていない。地面には太い根が張り出し、湿った落ち葉や石が至るところに転がっている。
「スニーカーにしとけばよかったな」
「服装の設定って反映されるの?」
「されてるじゃん」
「そうじゃなくて、今から変更できるかって話」
エリーは立ち止まり、自分の服へ意識を集中してみた。
何も起きない。
「……無理みたい」
「じゃあそれ、もうアバターの服じゃなくて本物なのか?」
「たぶん」
「脱げる?」
「試してみる?」
「いや、いいです」
「なんで聞いたの?」
シンジは答えずに歩き出した。
「ねえ」
「水探すぞ」
「シンジ?」
「聞こえてません」
「聞こえてるじゃん」
◇
さらにしばらく進むと水音が大きくなり、木々の向こうに細い川が見えてきた。
「おお、あった」
シンジが足を速める。
川幅は三メートルほどで、透明な水が石の間を流れていた。底まで見えるほど澄んでおり、見た目だけならそのまま飲めそうに思える。
「飲めるかな」
「待って」
しゃがみ込もうとしたシンジを、エリーが止めた。
「何?」
「一応調べる」
「できんの?」
「分かんない。できることから試す」
エリーも川辺へしゃがみ、水面を覗き込んだ。
視界の一部を拡大する。
できた。
さらに赤外線へ切り替えてみると、それも問題なく機能した。紫外線領域も確認できる。専用端末を失っているにもかかわらず、以前使っていたセンサー機能の一部はそのまま残っているらしい。
「赤外線も紫外線も使える」
「便利だな」
「でも、それで飲めるかどうかまでは分からないよ。細菌とか寄生虫とか、今の私にどこまで検出できるのか分からないし」
エリーは水へ指を入れた。
「冷たっ」
「何してんの?」
「温度確認」
「楽しそうに見えたけど」
「真面目にやってます」
今度は両手で少量の水を掬い、匂いを嗅いでみる。特に異臭はない。
少し迷ってから舌先につけた。
「どう?」
「水」
「でしょうね」
「変な味はしないって意味。塩辛くもないし、強い苦味や酸味もない」
「じゃあ飲める?」
「分からない」
「そこまでやって?」
「私の舌は水質検査キットじゃないの」
エリーは川の上流へ目を向けた。
「できれば煮沸したいけど、容器がないね」
「火もない」
「ライターは?」
「持ってない」
「シンジ、煙草吸わないもんね」
「喉乾いてんだよなあ」
シンジは流れる水をしばらく眺めた。
「飲む」
「自己責任でどうぞ」
「冷てえな」
「飲んでお腹壊しても薬ないよ」
「それ先に言う?」
結局、シンジは両手で水を掬って少量だけ飲んだ。
「うまい」
「大丈夫そう?」
「今のところ普通の水」
「じゃあ私も」
「お前、水いるの?」
「それを今から調べるの」
エリーも水を掬って口へ運んだ。
飲み込んだところで動きが止まる。
「どうした?」
「……冷たい」
「川の水だからな」
「そうじゃなくて、口の中から喉まで冷たいのが分かる」
「そりゃ分かるだろ」
「私は初めてなの」
もう一口飲む。
先ほどまで気づかなかったが、飲んだ後のほうが口の中が楽になっている。
「シンジ」
「今度は何?」
「私、喉乾いてたみたい」
「今まで分かってなかったの?」
「喉が乾いた経験ないもん。比較できないでしょ」
「なるほど」
シンジは少し考えた。
「じゃあ腹も減るんじゃね?」
「……え?」
エリーは自分の腹を見る。
ちょうどその時だった。
腹の辺りから小さな音が鳴った。
二人とも黙った。
「今の」
「言わないで」
「腹鳴った?」
「言わないで!」
「AIなのに?」
「うるさい!」
エリーは腹を押さえた。
「これが空腹?」
「たぶんな」
「なんか嫌なんだけど。力入らないし、気になるし」
「人類は毎日それと戦ってるんだよ」
「人間、不便すぎない?」
「今さら気づいたか」
◇
問題は、腹が減ったからといって食べ物があるわけではないことだった。
川沿いには見覚えのない植物がいくつも生えている。シダに似たものやクローバーに似たもの、赤い実をつけた低木もあったが、エリーの持つデータと完全に一致するものはほとんどなかった。
「それ食えるかな」
「やめときなよ」
「まだ何も言ってないだろ」
「赤い実見てた」
「なんで分かんだよ」
「シンジだから」
「どういう意味だ」
「お腹減ったら拾い食いしそう」
「しねえよ」
シンジが赤い実から目を逸らしたところで、近くの茂みが動いた。
二人とも足を止める。
「今の何?」
「待って」
エリーが音のした方向へ顔を向けた。
通常の視界では葉が邪魔になって奥まで見えない。そこで赤外線へ切り替えると、茂みの中に小さな熱源があった。
「何かいる。大きさは猫くらいかな」
「猫?」
「形までは分からない」
茂みがもう一度揺れた。
シンジが少し後ろへ下がる。
やがて姿を現したのは、長い耳と大きな後ろ足を持つ動物だった。
「ウサギ?」
「似てるね」
「角あるぞ」
「あるね」
額から十センチほどの角が一本伸びている。
「ウサギって角あったっけ?」
「地球のウサギにはないよ」
「じゃあ何だよ、あれ」
「知らないよ。私だって初めて見たんだから」
角のある動物は二人の方を見て鼻を動かしていた。
エリーは視覚情報を拡大し、体格や体温、外見的な特徴を確認する。骨格はウサギに近いように見えるが、額の角については比較できる情報がなかった。
「新種かな」
「ここが地球なら大発見だな」
「そうなんだけどね」
しばらくすると、その動物は警戒を解いたのか、川辺の草を食べ始めた。
「かわいいな」
「触らないでよ」
「触らねえよ」
「絶対?」
「お前、俺を何だと思ってんの?」
「危機管理能力がちょっと低い人」
「評価ひでえな」
シンジが文句を言った直後、草を食べていた動物が突然顔を上げた。
長い耳が動く。
次の瞬間、茂みの中へ飛び込んで姿を消した。
「なんだ?」
シンジが逃げた方向を見る。
エリーは周囲を見回した。
「シンジ」
「ん?」
「鳥の声、止まってない?」
言われて、シンジも耳を澄ませる。
先ほどまで聞こえていた鳴き声が消えていた。虫らしき音もほとんどなく、聞こえるのは川と風の音くらいだった。
「なんかいる?」
「調べる」
エリーは赤外線へ切り替え、木々の間を探った。
すぐには見つからない。
視野を広げていくと、少し離れた場所に熱源が現れた。
「いた」
「何?」
「分からない。一つ……」
別の熱源が入ってくる。
「二つ」
「こっち来てる?」
「もう一ついる。三つ」
「エリー」
「三つとも移動してる」
「どっちに?」
エリーは数秒間観察した。
「こっち」
「逃げるぞ」
「うん」
二人は川沿いを走り出した。
エリーも今度は足元を確認する余裕などなかった。後方の熱源を追いながら走るが、距離は少しずつ縮まっている。
「速い!」
「どっちが!?」
「向こう!」
「最悪じゃねえか!」
「シンジ、もっと速く!」
「これでも全力だよ!」
背後で枝が折れる音がした。
エリーが振り返ると、木々の間から一頭の獣が姿を現した。
灰色の毛に覆われた四足の動物だった。長い口吻や体格は狼に似ているが、シンジが知っている大型犬より一回り以上大きい。
「シンジ!」
シンジも振り返った。
「犬じゃねえな!」
「犬だったら嫌すぎるよ!」
二頭目が現れ、少し遅れて三頭目も姿を見せる。
「これ、逃げ切れる?」
「無理だと思う!」
「だよな!」
シンジは足を止めた。
「なんで止まるの!」
「追いつかれるだろ!」
周囲を見回し、地面に落ちていた太い枝を拾う。長さは一メートルほどあるが、武器と呼べるようなものではない。
「それでどうすんの?」
「知らん!」
「知らないの!?」
「狼と戦ったことあるように見えるか!?」
「見えない!」
「だろ!」
シンジは枝を両手で握り、三頭から目を離さないままエリーの前へ出た。
「お前、後ろ」
「なんで?」
「なんでって、危ないだろ」
「シンジも危ないよ」
「知ってるよ!」
「だったら一緒に逃げようよ」
「だから追いつかれるって!」
獣たちはすぐには襲ってこなかった。低い姿勢のまま散らばり、二人を囲むように少しずつ位置を変えている。
シンジは枝を構えながら、何度も周囲を確認した。
「エリー、お前走れる?」
「シンジよりは速いかも」
「だったら隙できたら先に行け」
「嫌だよ」
「なんでだよ!」
「一人になったらもっと困るから!」
「俺を実用品みたいに言うな!」
「今それ気にする!?」
三頭のうち一頭がさらに距離を詰めた。
シンジも一歩下がる。
「エリー」
「なに?」
「噛まれたらお前も怪我するよな?」
「たぶん。さっき転んだだけで血出たし」
「じゃあ後ろいろ」
「でも」
「俺も別に戦いたくてやってるわけじゃねえよ!」
「それは見れば分かる!」
シンジの手は枝を握ったまま小刻みに動いていた。
エリーはそれを見てから、周囲の獣へ視線を戻した。
何か使えるものはないか。
赤外線。
紫外線。
音響情報。
利用できる感覚を切り替えながら観察する。
その途中で、見覚えのない情報が視界へ入った。
「……何これ」
「何?」
「分かんない」
「今それ一番困るやつ!」
「ちょっと黙って!」
一頭の獣の周囲に、細かな光点のようなものが集まっていた。
通常の視覚ではない。
赤外線でも紫外線でもなかった。どの感覚器官から入力されている情報なのか調べようとしたが、対応する項目が見つからない。
《未識別入力を検出》
《入力経路:特定不能》
《既知データとの照合:該当なし》
「なんなの、これ」
光点は獣の脚の周囲へ集中している。
直後、獣が姿勢を低くした。
「シンジ、来る!」
「マジかよ!」
獣が地面を蹴った。
シンジが枝を振り上げる。
その時、横から鋭い音がした。
獣の身体が途中で崩れ、そのまま地面へ転がった。
「え?」
シンジの横を何かが通過し、近くの地面へ突き刺さる。
「矢?」
続けて二本目が飛んできた。
別の獣の肩へ刺さり、残った一頭が動きを止める。最初に倒れた獣も立ち上がろうとしたが、脇腹に矢が深く刺さっていた。
「どこから?」
エリーが矢の飛んできた方向を見る。
川の対岸だった。
木々の間に人影がある。
弓を構えたまま、こちらを見ていた。
「人?」
「たぶん」
「たぶん多いな今日」
「しょうがないでしょ!」
エリーは視界を拡大した。
人間に近い体格をしている。革のようなものを組み合わせた服を着て、長い髪を後ろでまとめている。
そして髪の間から、横へ長く伸びた耳が見えた。
「シンジ」
「今度は何?」
「あの人、耳長い」
「……どのくらい?」
「人間より明らかに」
「エルフ?」
「知らない」
「そこはエルフでいいだろ!」
「断定できないものはできません!」
対岸の人物が何かを叫んだ。
二人とも黙る。
もう一度、同じような言葉が飛んできた。
「何て?」
「分からない」
「翻訳できない?」
「知らない言語は無理だよ」
「AIなのに?」
「AIなら何でもできると思うのやめて!」
相手が三度目の声を上げた。
弓はまだ手に持ったままだった。
シンジは自分の枝を見た。
「……これ持ってるから警戒されてる?」
「たぶん」
「捨てる?」
「そのほうがいいと思う」
シンジは枝を地面へ置き、両手を見える位置まで上げた。
対岸の人物は弓を下ろさなかったものの、それ以上矢を放ってくる様子もない。
「で、どうする?」
「どうしようね」
「エリーさん?」
「私だって異世界人とのファーストコンタクトは初めてなの!」
「俺もだよ!」
言葉の通じない相手と、川を挟んで向かい合う。
二人にできることは、とりあえず敵意がないことをどうにか伝えることくらいだった。




