第51話
皇国南部に位置する交通の難所、オルク渓谷。
切り立った岩壁が両側にそびえ立ち、道幅が極端に狭くなるこの場所は、待ち伏せにはこれ以上ない絶好の場所であった。
崖の上には、盗賊に扮した長兄派の私兵たちが数百人規模で身を潜め、眼下を通り抜けるはずのマイヤー商会の輸送隊を今か今かと待ち構えていた。彼らの手には、鋭く磨かれた軍用の武器が握られている。
部隊を率いる指揮官は、喉を鳴らしながら獲物が現れるのを待っていた。もしここで物流を断ち切り、物資を強奪できれば、フライス皇子の名声は失墜し、自分たちは莫大な資金を手に入れることができる。
そう信じて疑わなかった彼らの耳に、やがて複数の足音が近づいてくるのが聞こえた。
だが、現れたのは鈍重な荷馬車の列ではなかった。漆黒の軍服を纏い、威圧感のある足取りで進む数十人の集団。
その先頭には、身の丈ほどもある巨大な両手剣を無造作に担ぎ、地獄の底から這い出してきたような不機嫌な顔をした男が立っていた。死なずの軍神、グウィン・マイヤーその人である。
「……おい。誰かいるな」
グウィンは足を止め、面倒そうに崖の上を見上げた。背後に控えるのは、王国軍の中でも選りすぐられた彼の直属部隊の数十人の精鋭たちだ。
彼らもまた、戦場へ向かうような殺気ではなく、重い石を運び出すための強固な運搬具を手に持たされているという、どこか奇妙な緊張感を漂わせていた。
崖の上からその様子を窺っていた指揮官は、予期せぬ闖入者に舌打ちをした。
まさか王国の将軍が、このタイミングでこんな辺境の渓谷を通りかかるとは想定外だった。だが、ここで自分たちの姿を見られた以上、生かして帰すわけにはいかない。数百人の私兵たちは、眼下の数十人を容易く飲み込めると確信していた。
「かまわん、目撃者は全て殺せ!あいつらを血祭りに上げろ!」
非情な号令と共に、崖の上から無数の矢が放たれ、岩陰から武器を構えた私兵たちが一斉に飛び出してきた。殺意を剥き出しにした暴力の波が、谷底の少数精鋭へと襲いかかる。
崖の上から降り注ぐ矢の雨が、金属音を立てて盾に弾かれた。
グウィンが連れてきた数十人の精鋭たちは、一糸乱れぬ動きで円陣を組み、サラから預かった「重石運搬用」の頑丈な背負子や道具一式をその中心で守り抜く。
「ひいいいっ!閣下、避けてください!というか、あれはただの野盗じゃありません!あの矢の密度、装備の練度……明らかに完全武装した皇国の精鋭ですよ!?」
盾の隙間から崖上を仰ぎ見ながら、補佐官のベイルが悲鳴のような声を上げた。有能な外交官としての目が、襲撃者たちの外套の下に隠された皇国軍特有の鋼の光を的確に捉えていた。
しかし、巨大な両手剣を肩に担いだままのグウィンの瞳には、政治的な意図も敵の正体も一切映っていない。彼の脳内にあるのは、懐に仕舞われた愛妻からの手紙の内容のみであった。
「……ベイル、うるさい。妻の手紙にはなんと書いてあった?」
「えっ? あ、ええと……『最近その渓谷には柄の悪い害獣が住み着いているそうですから、ついでに駆除もお願いしますわ』と……」
「そうだ」
グウィンは地を這うような低い声で唸ると、飛来する矢を鬱陶しそうに巨大な剣の腹で叩き落とした。その不機嫌極まりない眼光が、崖から躍り出てきた数百人の私兵たちを捉える。
「妻が『害獣』と言ったら、あいつらは害獣なんだ。……俺は、石切りの仕事で忙しいんだ。邪魔するな」
ドォォォォンッ。
グウィンが一歩踏み出しただけで、地面が震え、周囲の空気が物理的な圧迫感を持って膨れ上がった。
「な、なんだあの大男は……! ひるむな、かかれええっ!」
私兵たちの隊長が必死に号令をかける。しかし、殺到する数百の刃がグウィンに届くより先に、死なずの軍神の全身から爆発的な闘気が立ち昇った。
グウィンは肩に担いでいた大剣を両手で握り直すと、まるで邪魔な雑草をなぎ払うかのような無造作な動作で、一気に横一閃へと振り抜いた。
「駆除だ。失せろ」
凄まじい剣風が、音を置き去りにして渓谷を駆け抜けた。
ズガァァァァァンッ!!
まるで落雷が直撃したかのような凄まじい轟音が、オルク渓谷の岩壁に反響した。
グウィンの放った圧倒的な剣圧は、殺到してきていた前衛の私兵たちの武器を紙切れのように粉砕し、屈強な男たちをまとめて枯れ葉のように谷の奥へと吹き飛ばしたのである。
「ぐわあああっ!?」
「な、なんだこの化け物はああぁぁっ!?」
阿鼻叫喚の悲鳴が上がる中、グウィンに続く精鋭数十人もまた、一切の容赦なく動き出した。
彼らもまた、休戦の平和を持て余していた歴戦の猛者たちである。しかも彼らの認識はグウィンと完全に一致しており、目の前の敵は皇国の部隊ではなく「採掘作業の邪魔になるただの害獣」であった。
「さっさと片付けろ!奥様から頼まれた石を持ち帰る前に日が暮れちまうぞ!」
「おう!害獣ども、おとなしく道を空けろ!」
精鋭たちは持参した頑丈なツルハシや大盾を武器代わりに振るい、崖から降りてくる私兵たちを次々と物理的に叩き伏せ、無力化していく。数百の私兵と数十の精鋭という圧倒的な数的不利にもかかわらず、戦局は王国軍による一方的な蹂躙、まさにただの駆除作業と化していた。
「ば、馬鹿な……我々は長兄様から全財産を預かった精鋭部隊だぞ!たかが数十人の石切り部隊に……!」
私兵の隊長が絶望に顔を歪めて叫ぶが、もはや指示を聞く部下は立っていなかった。グウィンが再び大剣を無造作に振るうたびに、残った私兵たちも次々と悲鳴を上げて吹き飛んでいく。
「……よし、掃除は終わったな。お前ら、目的の石を切り出すぞ」
周囲でうめき声を上げて転がる私兵たちを一瞥もせず、グウィンはあっさりと剣を肩に担ぎ直した。
彼の視線はすでに、渓谷の切り立った岩壁の一部、黒く鈍い光を放つ星鋼石の岩脈へと真っ直ぐに向けられている。
そして彼は大剣を上段に構え、極めて硬いとされる星鋼石の岩盤に向かって、渾身の力を込めて刃を振り下ろした。
ガァァァァンッ!!
常識ではあり得ない剣の一撃によって強固な岩盤が悲鳴を上げてひび割れ、精鋭たちがそこへすかさず鋼の楔を打ち込む。
妻に頼まれた巨大な製粉所を造るための、途方もなく重く、最高級の石材の塊が、轟音と共に切り出されていった。
こうして、マイヤー商会の物流を断つという長兄派の命運を懸けた妨害計画は、妻に頼まれた石切りの仕事の邪魔になるという極めて理不尽な理由により、ただの害獣駆除として軍神の暴力の前に一網打尽にされ、完全に頓挫したのである。
◇ ◇ ◇
グウィンたちが切り出した巨大な星鋼石は、精鋭たちの手によって無事に皇国南方のフライスの領地へと運び込まれ、すぐさま最高級の小麦を挽くための巨大な製粉所の建設が開始された。
一方、私兵部隊が「石切りのついで」に壊滅させられたという信じがたい報告は、皇都で待つ長兄派の貴族たちに致命的な絶望をもたらした。
なけなしの全財産を投じた最後の反撃すらも、文字通り物理的に粉砕されてしまったのだ。
この好機を、狡猾な第三皇子フライスが見逃すはずがなかった。
数日後、開かれた皇国の議会において、フライスは兄たちのこれまでの悪行を白日の下に晒した。
民が飢えに苦しむ中で関所を不当に封鎖して私腹を肥やそうとしたこと、あまつさえ偽の盗賊団を組織して国を潤す正規の物流網を武力で破壊しようとしたこと。
フライスは、サラの密偵が事前に集めていた動かぬ証拠も交えながら、それらを次々と突きつけたのである。
資金源を絶たれ、私兵も失い、もはや何の力も残されていなかった長兄と次兄の派閥は、議会での徹底的な追及に反論する余力すらなかった。彼らの失脚は誰の目にも明らかであり、長きにわたって皇国を疲弊させた醜い後継者争いは、実にあっけない形で終焉を迎えた。
安価で良質な食糧を安定供給し、最新の製粉所まで建設して民の生活を豊かにしたフライスを非難する者など、もはや皇国内には一人もいなかった。
民心と胃袋を完全に掌握し、圧倒的な支持と経済基盤を手に入れたフライスは、兄たちを完全に排除し、ついに次期皇帝としての地位を確固たるものとしたのである。
そしてそれは同時に、知略と物流、そして無敵の夫の力を完璧に操り、皇国という巨大な国家の市場すらも意のままに支配してみせたサラ・マイヤーの、商人としての絶対的な勝利を意味していた。











