第47話
休戦の祝祭が終わり、エリスたち皇国使節団が本国であるオズガルド皇国へと帰還してから数週間後。
皇都の社交界は、かつてないほどの騒然たる空気に包まれていた。
その中心にいるのは、他でもない陸軍司令官エリス・ファンデッタである。
常に軍服の襟を首元まできっちりと締め上げ、氷のように冷酷な表情を崩さなかった「鉄仮面」の彼女が、王宮での夜会に姿を現すたびに周囲の視線を完全に釘付けにしていたのだ。
サラから「グウィンの好み」という悪魔の囁きと共に購入した特製美容液は、戦場の砂埃で傷んでいた彼女の肌に赤ん坊のような瑞々しい輝きを取り戻させていた。
さらに、森の奥深くを思わせる凛とした香水の香りが、彼女が本来持っていた美貌を極限まで引き出し、見違えるような洗練された美しさを放たせていたのである。
(ふふっ……これで私も、少しはグウィン様のお好みに近づけたかしら。次にあの無骨な彼にお会いする時、どんな顔をしてくださるか楽しみだわ)
夜会の壁際でグラスを傾けながら、エリス本人はひたすらに乙女の妄想を爆発させ、密かに自惚れていた。
しかし、彼女を遠巻きに取り囲む皇国の貴族令嬢たちの視点は、エリスの純情な乙女心とは全く別の、極めて現実的で切実なベクトルへと向いていた。
(あ、あの氷の女将軍の鉄仮面すらドロドロに溶かして、あんなに美しく変貌させるなんて……!一体どんな魔法の薬を使ったというの!?)
令嬢たちの間では、エリスの美しさの秘訣が瞬く間に最大の関心事となっていた。
美への飽くなき探求心に突き動かされた貴族の女性たちは、ついに恐る恐るエリスの元へと歩み寄り、その秘密を問い詰め始めたのである。
「エ、エリス様。その……お肌の艶と、素晴らしい香りは、一体どちらの品を使われているのですか?」
令嬢からの問いかけに対し、エリスは誇らしげに胸を張って答えた。
「あら、お目が高いこと。これは王国との休戦の折に、マイヤー商会という素晴らしい商会から特別に譲っていただいた品ですわ。品質は私が保証します」
グウィンの妻であるサラへの敗北を認め、彼女を「美の師匠」として密かに崇拝し始めていたエリスは、律儀にも聞かれるたびにマイヤー商会の名前を全力で宣伝して回った。
令嬢たちは「グウィン様好みの女になるための努力」を自慢しているエリスの内心など知る由もない。ただ「あの鉄仮面を絶世の美女に変えた魔法のアイテム」という事実だけが独り歩きし、皇国の社交界に爆発的な口コミとなって広がっていった。
サラの思惑通り、皇国の陸軍司令官は、マイヤー商会の最高級かつ無自覚な広告塔としてこれ以上ないほど完璧に機能してしまったのである。
エリスの無自覚な宣伝効果は、サラの事前計算すらも大きく上回る凄まじい威力を発揮した。
「魔法の美容液」と「魅惑の香水」の噂は、皇都の貴族令嬢から裕福な商人の妻たちにまで瞬く間に広がり、王都のマイヤー商会本部には皇国からの注文書が文字通り雪崩のように押し寄せてきたのである。
執務室のデスクに山積みになった高額な注文書の束を前に、サラは手元の計算盤を軽快にパチパチと弾き、極めて満足げな笑みを浮かべていた。
「ふふっ、素晴らしいわ。エリス司令官には、次回の美容液の新作をお中元として特別にサービスして差し上げませんとね。これで皇国の富裕層の財布の紐は完全に我が商会が握ったも同然ですわ」
美容品や香辛料だけではない。休戦協定で定められた旧国境の巨大農地から収穫される、大量の麦の輸出も目前に控えている。このまま皇国の市場を独占すれば、マイヤー商会の利益は完全に青天井となるはずだった。
しかし、莫大な利益が動くところにハイエナが群がるのは世の常である。
上機嫌なサラの元に、皇国の情勢調査を任せていた商会の部下が顔を青ざめさせて駆け込んできた。
「お嬢様、緊急の報告です!皇都へ続く主要な陸路の関所について、極めて厄介な事実が判明いたしました!」
息を切らす部下が提出した調査報告書に素早く目を通したサラの表情から、先程までの優雅な笑みがスッと消え去り、冷徹な商人の顔へと切り替わった。
報告書に記されていたのは、皇位継承争いを繰り広げる長兄と次兄派の貴族たちによる、あまりにも露骨で陰湿な妨害工作であった。
彼らは皇都へと続くすべての主要な街道と関所を自らの派閥の軍事力で完全に牛耳り、マイヤー商会の荷に対してのみ、通常の何倍にも跳ね上がる不当で法外な関税をかけようと目論んでいたのだ。
「……なるほど。私たちが休戦協定のルール通りに適正な市場価格で麦を国境で引き渡しても、関所を通るたびに法外な税を上乗せされれば、最終的に皇都の民衆にはとんでもない高値で売りつけられることになりますわね」
サラは報告書を机に置き、静かな声で呟いた。
サラの言葉に、報告を持ってきた部下も悔しそうに拳を握りしめた。
「その通りです。我々が苦労して開拓した農地から生み出された麦が、民衆の飢えを凌ぐどころか、あの兄君たちの血みどろの権力闘争の軍資金へと丸ごと変換されてしまいます。これでは、我々は彼らのためにタダ働きさせられているようなものです!」
サラは椅子の背もたれに深く体を預け、冷静に思考を巡らせた。
休戦協定で定められた「適正な市場価格での取引」というルール。兄派の貴族たちは、このルールを逆手に取ったのだ。マイヤー商会が協定違反を避けるために国境では安く麦を卸さざるを得ないことを見越し、自分たちが支配する関所で莫大な税を上乗せして利益を不当に中抜きする。
(単に私の利益が削られるだけではありませんわね。最終的に高値で麦を買わされた皇国の民衆は、『王国とマイヤー商会が暴利を貪っている』と勘違いして我々を恨むでしょう。下手をすれば協定違反と騒がれるかもしれない。私が築き上げた完璧なブランドイメージに傷をつけ、あまつさえ自分たちの資金源にするなんて……随分と舐められたものですわ)
サラの瞳の奥で、冷たく、しかし激しい商人の怒りの炎が静かに燃え上がった。
商人は利益を追求する生き物だが、それは対等な取引と知略の末に得られる正当な報酬であってこそ。他人のふんどしで相撲を取り、しかもルールを盾に不当な中抜きを図るような三流のやり口を、誇り高き大商会の会頭が許すはずがなかった。
「……お嬢様。これでは陸路を使った輸送は関税のせいで完全に赤字です。麦の輸出、それに美容液などの追加注文も、皇国内の情勢が落ち着くまで全て見合わせるべきでは……?」
部下が恐る恐る進言するが、サラはフッと鼻で笑い、手元の計算盤をパチンと弾いた。
「冗談でしょう?せっかく育てた最高の顧客と大量の注文を前にして、指をくわえて引き下がるなんて、三流の商人がすることですわ。彼らが陸の道を塞ぎ、関税という名の不当な通行料を強要するというのなら……」
サラは立ち上がり、執務室の壁に掛けられた巨大な大陸地図へと歩み寄った。
そして、関所がひしめく皇国への陸路ルートからスッと視線を外し、その横に広がる広大な青い領域を、細く白い指先で優雅になぞった。











