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「愛など不要ですから。お気をつけて」  作者: あとりえむ


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第46話

サラの提示した「最優先取引相手」という極上の条件。

それは、第三皇子フライス・ドン・ファリスの鼓膜を心地よく、そして強烈に打ち据えた。


「……くっ、あははははっ!」


一瞬の沈黙の後、フライスは腹の底から湧き上がるような愉快な笑い声を帳場に響かせた。


先ほどまで甘い口説き文句を囁いていた芝居がかった色男の顔は完全に鳴りを潜め、そこには純粋な歓喜と、ゾッとするほど冷たい知性が同居する青年が立っていた。


「僕の妃としてではなく、最優先取引相手として手を組む、か。……素晴らしい。君のような強欲で賢い女性こそ、今の皇国には絶対に必要な人材だ」


フライスはサラの計算盤を軽く指先で弾き、その仮契約を即座に承諾した。


一見すると、道楽者の皇子がノリの良さだけで莫大な投資を決断したように見えるかもしれない。しかし、サラの冷徹な商人の目は、笑い皺の奥で鋭く光るフライスの獰猛な野心を決して見逃してはいなかった。


(この方、単なる遊興好きの遊び人ではありませんわね。意図的に無害な道化を演じて、周囲の目を欺いているだけの……相当な切れ者ですわ)


サラの脳内で、皇国に関する最新の情勢データが素早く照合されていく。


現在、オズガルド皇国では病床に伏す皇帝の後継を巡り、長兄と次兄による血で血を洗う熾烈な派閥争いが繰り広げられている。両陣営は軍事力と財力を削り合い、国全体が疲弊しつつあるという噂だった。


そんな中、政治に無関心な放蕩息子を装いながら、南方の商圏に独自のルートを持ち、莫大な個人資産を築き上げているこの第三皇子。


(なるほど。お兄様たちが表舞台で派手に潰し合っている裏で、彼らの経済基盤を密かに切り崩し、第三極として漁夫の利を狙うおつもりね。……なんて野心家。そして、なんて極上のパトロンなのかしら!)


サラは瞬時にフライスを、単なる金づるではなく「油断のならない劇薬」として認定した。劇薬は扱いを間違えれば自らを滅ぼすが、完璧にコントロールできればこれほど有用なものはない。


「我がマイヤー商会は、殿下の素晴らしい野心に全力で投資させていただきますわ」


「期待しているよ、僕の美しき共犯者」


優雅に微笑み返すサラに対し、フライスもまた不敵な笑みを深める。


二人の間に、妃の座などという安い言葉よりも遥かに重く、そして黒い利益で結ばれた密約が結ばれようとしていた。



二人が水面下で野心に満ちた握手を交わそうと互いに手を伸ばした、まさにその時だった。


スッと、二人の間に分厚く無骨な腕が割って入った。


フライスとサラの間に立ち塞がったグウィンは、先ほどまで発していた荒れ狂うような殺気を完全に収めていた。しかし、その代わりに彼が纏っていたのは、重く、静かで、底の知れない深海のような圧迫感であった。


「……マイヤー閣下。商談は成立したんだ。無粋な真似はよしてくれないか?」


余裕の笑みを崩さずに軽口を叩くフライスだったが、その背中には無意識のうちにじっとりと冷たい汗が滲んでいた。


目の前の男は、怒り狂っているわけではない。ただ、一切の感情を排した純粋な「武」の意志としてそこに存在している。それが何よりも恐ろしかった。


グウィンは腰の大剣の柄に無造作に手を置いたまま、鋭い眼光で皇国第三皇子の瞳を真っ直ぐに射抜いた。


「俺は政治なんてものには微塵も興味はない」


地を這うような低い声が、静まり返った帳場に重く響き渡る。


「俺の妻の商売に巻き込まれて、お前が骨の髄までしゃぶられるのは勝手にしてくれ。だが……」


グウィンが一歩、フライスへ向かって踏み出す。

まるで目に見えない巨大な刃を突きつけられたかのような錯覚に陥り、フライスは思わず息を呑んだ。


「あいつの商売の邪魔をしたり、少しでも危険な目に遭わせたりしてみろ。その時は……言わなくても分かるな?」


グウィンの放った言葉の刃は、比喩でも脅しでもなく、ただ純粋な事実の宣告としてフライスの喉元に突きつけられていた。


並の貴族であれば、その圧倒的な死の気配に泡を吹いて倒れていただろう。実際、フライスの背中は完全に冷や汗で濡れそぼっていた。


しかし、この第三皇子はやはりただの道楽者ではなかった。


(……なるほど。この男にとって、国家の存亡や軍の規律よりも、ただ一人の妻の安否の方が遥かに重いというわけか。そしてこの妻は、そんな恐ろしい軍神を完璧に手懐け、己の商売の最強の盾としている)


恐怖の底で、フライスの冷徹な計算が別の答えを弾き出す。


もしこの規格外の夫婦を自らの陣営に引き込むことができれば、それは兄たちが抱えるどんな軍隊よりも強力なジョーカーとなる。彼らの利益さえ損なわなければ、これほど頼もしい後ろ盾はないのだ。


「……降参だよ、マイヤー閣下。そんな恐ろしい宣告をされては、僕も命がけで彼女を守るしかないじゃないか」


フライスは両手を軽く挙げて降伏のポーズをとると、先程までの冷や汗を拭い去り、これまでにないほど澄んだ、野心的な笑みを浮かべた。


そして改めて、サラに向けて右手を差し出す。


「誓おう。君の商売の邪魔は決してさせないし、君を危険に晒すような真似もしない。僕たちが結ぶのは、互いに干渉しすぎず、純粋に利益のみを追求する最高で最悪なビジネスの密約だ」


サラはフライスの差し出した右手を見つめ、完璧な商人の微笑みをさらに深めた。


「ええ、その条件でよろしくお願いいたしますわ、フライス殿下。お互いの莫大な利益のために」


──パチン


サラが手元の計算盤を軽く弾く音を合図に、二人の手はしっかりと握り合わされた。


それは、王国の軍神の妻である新興商会の会頭と、オズガルド皇国の次期皇位を裏から狙う第三皇子による、誰の目にも触れない秘密の同盟の誕生であった。


背後で大剣の柄に手を置き、静かに二人を見下ろすグウィンの存在が、この密約が単なる口約束などではなく、絶対的な武力によって担保された極めて危険で強固なものであることを証明している。


「では、詳細な取引の打ち合わせは追って僕の部下から。王国の物流と皇国の資金、二つが交わる時が心底楽しみだよ」


フライスは満足げに言い残すと、背中にじっとりと張り付いた冷や汗を隠し、来た時と同じように軽やかな道楽者の足取りで帳場を後にした。



彼が去った後の帳場で、サラは手元の帳簿に新たな取引先の名前を書き込みながら、くすりと笑い声をこぼす。


「本当に、とんでもないパトロンを見つけてしまいましたわね」


「……お前が皇国の皇子までカモにするとは思わなかったぞ」


呆れたように肩をすくめるグウィンに対し、サラは涼しい顔で言い切った。


「カモだなんて人聞きが悪いですわ。私はただ、彼の野心に『適正価格』で投資して差し上げるだけですもの。それに、貴方がしっかり守ってくださるからこそ、私も安心して大船に乗れるのですよ」


「……ったく、しゃーねーな」


グウィンが短く息を吐き、静かに目を細める。


夜が更けゆく祝祭の喧騒の裏で、血で血を洗う皇国の権力闘争すらも莫大な利益に変えようとする、商人の妻の底知れぬ計算盤の音が再び軽快に鳴り響き始めていた。

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