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「愛など不要ですから。お気をつけて」  作者: あとりえむ


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第45話

祝祭の喧騒は、夜が更けるにつれてさらにその熱を増していた。


エリスが高級な美容品の小瓶を抱えて感涙にむせびながら立ち去った後、サラは静まり返った帳場で、本日の最終利益予測を計算盤に叩き込んでいた。その指先が奏でるリズムは、もはや一つの音楽のようでもあった。


「ふふ、これだけの資金があれば、次は皇国側の流通網の買収も視野に入りますわね」


サラが勝利の余韻に浸りながら計算盤の最後の一弾を弾こうとした、その時だった。


「素晴らしい。計算盤の音が、まるで恋人たちの語らいのように甘美に聞こえるのは初めてだよ」


帳場の入り口の幕を軽やかに跳ね上げ、一人の青年が姿を現した。

黄金色に輝く髪を無造作に流し、身に纏っているのは一見すると庶民の平服だが、その生地の光沢と立ち振る舞いには、隠しきれない高貴さと奔放さが滲み出ている。


「おや、どちら様でしょうか。本日の営業はすでに終了しておりますが」


サラは完璧な営業スマイルを維持したまま、鋭い視線で青年を値踏みした。

首筋に見える微かな紋章、指先にある独特の細工。サラの脳内データベースが瞬時に答えを弾き出す。目の前にいるのは、皇国の第三皇子にして、遊興と道楽に耽ると噂される自由人、フライス・ドン・ファリスその人であった。


フライスはサラの警戒などどこ吹く風で、彼女のデスクに身を乗り出し、至近距離でその瞳を覗き込んだ。


「名前なんて後回しでいい。僕はね、この数日間ずっと君を見ていたんだ。王国の軍神を御し、難攻不落の荒野を数日で黄金の農地へと変え、挙句の果てには我が国の堅物司令官をカモにして富を築く……。君こそが、この退屈な世界に現れた唯一の『至宝』だ」


あまりにも芝居がかった口説き文句に、サラの眉が微かに動く。


「……お褒めに預かり光栄ですわ、皇子殿下」


「おっと、正体までお見通しか。ますます気に入ったよ。王国になんて置いておくには惜しすぎる」


フライスはサラの手を強引に取り、その指先に跪くような仕草を見せた。


「どうだい、僕の専属商務官として、いや、僕の妃として皇国へ来ないか? 君のその美貌と知略があれば、僕と一緒にこの大陸の半分をマイヤー商会の領土にすることだって不可能じゃない」


友好ムードに包まれていた会場の空気が、その瞬間、一気に氷点下へと叩き落とされた。



「……おい、そこまでだ」


低く、地鳴りのような声が帳場に響いた。


フライス皇子がサラの手を取ったその直後、幕を割って現れたのはグウィンだった。その全身からは、戦場での殺気とはまた質の異なる、静かで重苦しい圧迫感が放たれている。


「マイヤー閣下、お早いお着きだね。挨拶が遅れたけれど、この祝祭は本当に素晴らしい」


フライスはサラの手を離すことなく、不敵な笑みを浮かべてグウィンを振り返った。しかし、グウィンの視線は皇子の顔など見ていなかった。ただ一点、サラの指先を握るその「無礼な手」にのみ固定されている。


(……俺の妻に、どこの馬の骨とも知れぬチャラ男が馴れ馴れしく触れてやがる)


グウィンにとって、サラは守るべき家族であり、自身の平穏を支える唯一の拠り所だ。軍人として、自らの陣営の最も深い場所に土足で踏み込まれ、大切な存在を奪おうとする不届き者の出現に、彼の内なる獣が牙を剥いた。


ギリギリ、と嫌な音が静まり返った帳場に鳴り響く。


グウィンが腰の大剣の柄を握りしめた音だった。あまりの握力に、硬質な柄の革張りが悲鳴を上げている。この男にとって、言葉による警告は一度きりだ。次があれば、この場が国際問題の火種になろうとも、目の前の男を斬り伏せることに躊躇はない。


「殿下、その方は王国の将軍の奥様です! ご冗談でもそのような……!」


慌てて駆け込んできたランドルフが、フライスの無謀な振る舞いに血の気を引かせている。しかし、当のフライスはグウィンの剥き出しの殺気すら楽しむように肩をすくめた。


「冗談? 心外だな。僕はいつだって、価値のあるものに対しては真剣だよ。なあ、サラ殿? 鈍重な軍人の隣で土をいじっているより、僕の隣で世界の富を回す方が、君の性分に合っているとは思わないかい?」


再び向けられた熱い視線に、周囲の空気はピリピリと爆発寸前の不穏な重さに包まれていった。



グウィンの周囲の空気が、今にも火花を散らしそうなほど鋭く張り詰める。一触即発。平和な祝祭が瞬時に惨劇の舞台へと変わりかねないその極限状態の中で、当のサラだけは、一人冷徹な思考の海に沈んでいた。


(皇国の第三皇子……遊興好きで知られる彼の個人資産は、王国の国家予算の数パーセントに相当するという噂。しかも彼には、皇国最大の商圏である南方都市への強い発言権があるはず……)


サラの瞳の奥で、計算盤の珠が目にも留まらぬ速さではじき出される。

夫の殺気も、皇子の甘い口説き文句も、彼女にとっては「市場価値」を測るためのデータの一つに過ぎなかった。


(この皇子を単に追い返せば、この場は収まるかもしれない。でも、それでは機会損失になってしまう。もし彼を正式なビジネスパートナーとして……いえ、パトロンとして取り込むことができれば、マイヤー商会の皇国進出は十年単位で前倒しになるわ!)


サラはフライスに握られたままの自分の手を、そっと、しかし計算された角度で引き抜いた。そして、狂犬のような殺気を放つ夫と、不敵に笑う皇子の間に、凛とした所作で割って入った。


「皇子殿下、私のような者にそこまでのお言葉をいただき、身に余る光栄ですわ。……ですが、私はあいにく『所有される』ことには興味がございませんの」


「ほう?」


フライスが面白そうに目を細める。サラは流れるような動作で、手元の計算盤を皇子の目の前に突きつけた。


「ですが、投資に興味がおありでしたら、話は別です。殿下の有り余る財力と、我が商会の流通網が手を組めば、この大陸に新たな金の流れを作ることができましてよ? 妃という不自由な地位よりも、私の最優先取引相手という特権……殿下ほどの遊び人なら、その価値がおわかりになりますわよね?」


その言葉は、口説き文句よりも遥かに深くフライスの好奇心を貫いた。



「……投資だと?」


一方、背後ではグウィンが、殺気の中に戸惑いを混ぜながら大剣を握る力をわずかに緩めていた。


妻がまた、目の前の王族を「獲物」として品定めし始めたことに気づいたからである。


「ったく!しゃーねーな!」


グウィンは大剣から完全に手を離すと、哀れな獲物を見る目でフライスを見つめ、静かに同情の溜息を吐いた。

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