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「愛など不要ですから。お気をつけて」  作者: あとりえむ


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第44話

祝祭の喧騒が続く中、特設の帳場で計算盤を弾いていたサラは、ふと帳場の入り口付近で視線を彷徨わせているエリスの姿を捉えた。


鉄仮面の下に隠された、軍人らしからぬ落ち着きのない仕草。そして、遠くで兵士たちと談笑するグウィンを追う、熱を帯びた瞳。商人の鋭い観察眼を持つサラにとって、その正体を見抜くのは造作もないことだった。


(……あら。あの方、うちの仕事バカに惚れてるわね)


普通であれば、敵国の司令官が夫に想いを寄せていると知れば、妻として多少の動揺や嫉妬が生まれるものだ。しかし、サラの心に湧き上がったのは、冷徹なまでの歓喜であった。


(王国と皇国の緊張感、叶わぬ恋心、そして軍人としてのプライド……。これほどまでに購買意欲を刺激する条件が揃った『カモ』が、向こうからやってきてくれるなんて!)


サラは手に持っていた羽ペンを置き、最高に優雅で、それでいて毒を含んだ商人の微笑みを口元に湛えた。


一方のエリスは、先程の勝負での完敗に打ちひしがれながらも、サラという女性の底知れぬ強さに圧倒されていた。自分の浅はかな挑戦をすべて商機に変えたあの女。彼女こそがグウィンの隣に立つことを許された存在なのだと、身を以て知らされたのだ。


「エリス司令官、そんなところで立ち尽くしてどうなさいましたの? 勝負はもう終わりましたわ。今は祝祭のひとときを楽しみましょう?」


サラが帳場の奥から手招きをする。その誘いに吸い寄せられるように、エリスはおぼつかない足取りで、商人の張り巡らせた罠の真っ只中へと踏み出した。



帳場の奥に招き入れられたエリスは、そこに並べられた煌びやかな小瓶や、見たこともない滑らかな布地の数々に圧倒されていた。


「司令官、貴女のようなお美しい方が、戦場の砂埃でその肌を痛めていらっしゃるのは、同じ女性として見ていられませんわ」


サラは慈愛に満ちた表情で、宝石のように輝く翡翠色の小瓶をエリスの前に差し出した。


「これは王都の貴族たちの間でも、一部の者しか手に入れることができない特注の美容液ですの。これを一滴馴染ませるだけで、荒れた肌は赤ん坊のように瑞々しさを取り戻しますわ。……ああ、そういえば。うちの旦那様は、あまり派手な化粧よりも、こうした清潔感のある『整った素肌』を好む傾向にありますわね」


サラが何気なく、しかし計算し尽くされた絶妙なタイミングでグウィンの好みを差し挟むと、エリスの肩がビクンと跳ねた。


「……っ、そ、それは、別に私が気にするようなことでは……!」


「あら、軍人としても身だしなみは大切でしょう? それに、こちらの香水も。森の奥深くを思わせる、静かで凛とした香りですの。……グウィンは騒がしい匂いが嫌いですから、こういう落ち着いた香りのする方が近くにいると、不思議と心が休まるようですわよ」


エリスの鉄仮面が、音を立てて崩れていく。

サラが口にする言葉の一つ一つが、彼女の秘めたる想いの急所を的確に、そして容赦なく射抜いていた。


(グウィン様が好む素肌……そして、彼が安らぎを感じる香り……!)


エリスの脳内では、サラのアドバイスに基づき、完璧な美しさと香りを纏ってグウィンの隣に立つ自分の姿が、都合の良い妄想とともに爆発的に広がっていた。


「……そ、その美容液と香水。……い、いくらですの?」


蚊の鳴くような声で問うエリスに、サラは待っていましたと言わんばかりに、手元の計算盤をパチリと小気味よく弾いた。


「司令官、お目が高いですわ。本来は非売品なのですが、平和と友好の架け橋となる貴女のためですもの。特別に……これくらいのお値段でいかがかしら?」


提示されたのは、皇国の中堅将校の年収すらも軽く吹き飛ばすような、目玉が飛び出るほどの高額な数字であった。



提示された数字に、傍らに控えていたランドルフが「マイヤー夫人、それはあまりに……!」と絶句して身を乗り出した。皇国でも高級邸宅が一軒建ちかねない額である。


しかし、サラが囁いた「グウィンの好み」という劇薬は、エリスの理性を完璧に麻痺させていた。


「ランドルフ、下がりなさい。これは……これは皇国の威信を懸けた、私個人の戦いなのです!」


エリスは震える手で、腰に下げた革袋から私財の金貨をテーブルにぶちまけた。足りない分は、家宝の首飾りまで差し出す勢いである。


「私の……私の私財をすべて注ぎ込むわ!」


乙女のガチ勢っぷりを発揮して次々と貴重品を差し出すエリスに対し、サラは一瞬たりとも表情を崩さなかった。


「あら、まいどあり。司令官のその決断力、商売人として尊敬いたしますわ」


──パチパチパチ、パチン!


サラの手元の計算盤が、まるで軽快な楽器のように激しく、そして冷徹に鳴り響く。

利益確定の音が帳場に響くたびに、エリスの私財はマイヤー商会の資産へと華麗に変換されていく。


サラの脳内には、嫉妬などという非生産的な感情は微塵もない。あるのは、最高級のカモがもたらした驚異的な利益率への満足感だけだった。


「……それにしても、マイヤー夫人。貴女は本当に不思議な方ね」


商品を大切に抱え込んだエリスが、心底感服したような眼差しをサラに向けた。


「私があれほど不躾な挑戦をしたというのに、動じることもなく、それどころか敵である私にこれほど有益な助言を与えてくださるなんて。……貴女のその海のような器の大きさ、さすがはグウィン様が選んだ女性だわ。私、自分の小ささが恥ずかしくなりましたわ」


完全にカモにされているとは夢にも思わず、エリスはサラの「慈悲深い対応」に、敗北感を超えた深い敬意を抱き始めていた。



サラは、心酔した瞳で見つめてくるエリスに対し、聖母のような慈愛に満ちた微笑みを返した。


「そんな、滅相もございませんわ。私たちが手を取り合うことこそが、両国の真の平和に繋がると信じておりますもの。今後もお困り事があれば、いつでもこのサラ・マイヤーにご相談くださいませ。特別なお得意様として、全力でサポートさせていただきますわ」


その言葉に、エリスは感極まったように深く頷いた。

彼女の目には、グウィンの隣を奪い合うライバルだったはずのサラが、今や自分を美しく磨き上げ、報われない恋を応援してくれる高潔な師のように見えていた。


「ええ、信じているわ。これからは皇国における貴女の商売も、私が責任を持って後押ししましょう。このエリス・ファンデッタ、二言はありません!」


力強い約束を残し、エリスは手に入れたばかりの高級美容液と香水の小瓶を、まるで聖遺物でも扱うかのように大切に抱えて帳場を後にした。


その後ろ姿を見送りながら、サラは手にしていた羽ペンを置き、今日何度目かになる最高に深い溜息を吐いた。


「……いいお客様だったわ。まさか、皇国の司令官自ら我が商会の広告塔、いえ、最高級の終身顧客になってくださるなんて」


パチン、と最後の一弾を弾く。

計算盤が示した利益の合計額は、当初の予想を遥かに上回る、祝祭の総予算をたった一人で回収して余りあるほどの数字であった。



一方、外で部下たちとエールを飲んでいたグウィンは、なぜか皇国の兵士たちから「閣下、お察しします……」「あの強欲な妻の元で、よくぞこれまで……」という、同情と哀れみに満ちた視線を一斉に浴びていた。


何が起きているのか全く理解できないグウィンだったが、帳場の奥から聞こえてくる妻の、いつも以上に機嫌の良さそうな鼻歌だけは、嵐の前の静けさのように不気味に響いていた。

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