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「愛など不要ですから。お気をつけて」  作者: あとりえむ


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第42話

特設の帳場で山のように積まれた書類と金貨を前に、サラは涼しい顔で計算盤を弾き続けていた。

祭りの熱狂が最高潮に達する中、帳場の入り口の幕が乱暴に跳ね上げられた。


「おい、サラ。ちょっといいか」


無骨な声とともに姿を現したのは、平服姿のグウィンだった。その後ろには、完全武装のまま祭りの空気に気圧されていた皇国の使節団、エリスとランドルフが続いている。


サラは計算盤を置き、完璧な商人の微笑みを浮かべて立ち上がった。


「いらっしゃいませ、皇国使節団の皆様。本日は休戦の祝祭にようこそお越しくださいましたわ。私がこの祭りの元締めを務めております、マイヤー商会会頭のサラと申します」


優雅に一礼するサラを前に、エリスとランドルフは怪訝な顔を見合わせた。王国の将軍が、なぜ一介の商会会頭の元へわざわざ自分たちを案内してきたのか。

そんな二人の疑問などお構いなしに、グウィンは親指でサラを指し示し、極めてあっさりと、そして当然のことのように言い放った。


「ああ、こいつは俺の妻だ」


そのたった一言が、皇国の使節団に与えた衝撃は計り知れないものだった。


(妻……!そうか、マイヤー閣下は既に所帯持ちであったか!)


ランドルフは目を見開き、そして密かに、心の底から安堵の息を吐き出した。

あの休戦交渉の場で、自国の司令官が敵将に向けて放った危険すぎる恋心。それがこれ以上の国際問題に発展する前に物理的な事実によって絶たれたことは、皇国の補佐官にとってこの上ない朗報であった。


一方、その残酷な事実を直接叩きつけられたエリスはといえば。


「……お初にお目にかかります、サラ殿」


表面上は、氷のように冷徹な「鉄仮面」の表情を完璧に維持していた。声のトーンにも一切の乱れはない。

しかし、彼女の内心では、ようやく見つけた生涯の初恋が開始秒数で玉砕したという絶望的すぎるショックにより、大雨の中で膝から崩れ落ちて大号泣する乙女の姿があった。


ピキッ、と微かな高い音が鳴る。


エリスが歓迎の品として先ほど手渡され、優雅に握りしめていたはずのガラスのワイングラスに、彼女の無意識の凄まじい握力によって無惨な亀裂が走った音だった。



 ◇ ◇ ◇



エリスがグラスにヒビを入れるほどの静かなる絶望に打ちひしがれていたその裏側で、一人の男が完全なる復活を遂げていた。


会場の喧騒から少し離れた、甘い焼き菓子の匂いが漂う屋台群。

そこには、王国の有能な外交官であり将校でもある、補佐官ベイルの姿があった。


彼は先日の休戦会談において、エリスへ向けて愛のポエムを絶叫した挙げ句に秒でフラれるという、外交官としてあるまじき大失態を演じていた。その後、あまりの羞恥心から精神崩壊を起こし、「過去の黒歴史を埋める」と叫びながら狂ったように泥まみれで大地を掘り返していたはずである。


しかし、その悲痛な現実逃避は、現地の農民たちの目に「戦争の過去を悔い改め、身を粉にして贖罪する高潔な騎士」として映り、壮絶な勘違いの末に彼を村の英雄へと祭り上げてしまっていたのだ。


「ベイル様、こちらのお菓子も召し上がってくださいな!」


「いやだわ、私がお渡しした果実水が先ですわよ!」


今や泥汚れを完璧に洗い流し、瀟洒な平服を着こなしたベイルは、村の若い娘たちに幾重にも囲まれ、キャーキャーと黄色い歓声を浴びていた。


「ああ、ありがとう麗しきレディたち。君たちのその可憐な笑顔は、この祝祭を照らすどんな灯りよりも美しく、私の心を温めてくれる」


つい先日まで「過去を埋めねばならんのだ」と血の涙を流していた男は、持ち前のキザなスマイルを完全に取り戻し、娘たちに向けて手当たり次第に甘い言葉を囁き散らしていた。


村人たちにちやほやされる中で、彼のエリスへの悲恋と絶望の記憶は、自ら掘ったあの穴の奥底へすでに完全に埋め立てられてしまっていたのである。



 ◇ ◇ ◇



初恋の玉砕という致命傷を負いながらも、エリスは皇国の司令官としての気丈さを保ち、静かにサラの帳場を後にした。


祭りの熱狂的な喧騒の中を無言で歩き出し、なんとか崩れそうな平常心を保とうと努めていた彼女の視界の端に、信じられない光景が飛び込んできた。

それは、村の娘たちに囲まれてデレデレと鼻の下を伸ばし、甘い言葉を囁き散らしている王国軍の補佐官、ベイルの姿だった。


(……は?つい先日、正式な会談の場で私に向かってあれほど情熱的に愛のポエムを絶叫していたというのに、もうあんな別の女たちに鼻の下を伸ばしているなんて!)


エリスの足がピタリと止まる。

失恋のショックで傷ついていた彼女の乙女心は、あまりにも切り替えの早い敵国の外交官の姿を見て、急速に冷え込んでいった。


(やはり男なんて、薄情で信じられない生き物ね……!)


エリスは、チャラチャラと笑うベイルに向けて、文字通り汚物でも見るかのような、心底軽蔑しきった氷の視線を突き刺した。

司令官としての威圧感と、乙女の怒りと呆れが混ざり合ったその眼差しは、もはや殺気と呼んでも差し支えないほどの鋭さを放っていた。


しかし、その彼女の尋常ではない視線にいち早く気づいたランドルフは、隣で勝手に息を呑んで戦慄していた。


(あの鋭く射抜くような視線……!我が司令官は、表面上は平和な祭りを装いつつも、すでに王国の有能な外交官であるあの男の隙を徹底的にうかがい、次なる外交戦の布石を打っているのだな!)


ランドルフの額に、冷や汗がにじむ。


男への純粋な軽蔑の眼差しを「敵国への高度な諜報活動」と相変わらず的外れな深読みをした皇国の補佐官は、どんな状況でも一切の油断を見せない主君の恐るべき精神力に、ただただ畏怖の念を抱くのであった。



軽薄に笑うベイルから冷たく視線を切り、エリスはきつく唇を噛み締めた。


あんな薄っぺらな言葉を吐く男に比べれば、妻の前であっても愛の言葉一つ口にせず、ただ「俺の妻だ」と堂々と言い放つあの不器用な無骨さこそが、どれほど誠実で至高の輝きを放っていることか。


失恋の絶望に打ちひしがれていた彼女の胸の奥で、持ち前の負けず嫌いな軍人としての魂が静かに、しかし熱く燃え上がり始めていた。


(ええ、そうですわ。グウィン様の妻だというなら、それ相応の器があるはず。ぽっと出の商人の女が、本当にあの偉大な軍神の隣に立つにふさわしいのか、この私が徹底的に見極めてやりますわ!)


悲しみを怒りと対抗心に変換し、エリスは完全に吹っ切れた様子でクルリと踵を返した。

その足取りは迷いを捨て、再びサラのいる特設帳場へと真っ直ぐに向けられている。


その後ろ姿を追いかけながら、ランドルフはゴクリと固唾を飲み込んだ。


(あの決意に満ちた背中……!敵の外交官の隙を突くだけでは飽き足らず、いよいよ自ら敵の本丸、あの底知れぬ商人の妻へと直接仕掛けるおつもりか。なんというアグレッシブな戦術……!)


皇国の補佐官は、主君の乙女心から来る私怨の突撃を「高度な情報戦からの強襲」と解釈し、冷や汗を流しながらその背中を頼もしげに見つめていた。


祝祭の熱狂と極上エールの香りが入り混じる平和な青空の下。

それぞれの壮絶な勘違いとすれ違いを乗せたまま、氷の女将軍と冷徹な商人の妻による、誰も予想しなかったプライドを懸けた新たなる戦いの幕が、今まさに切って落とされようとしていた。

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