第39話
軍と民の奇跡的な連携により、農地を平らにならす作業は予定を大幅に前倒しして完了の目処が立とうとしていた。
無数の砲弾の跡は綺麗に埋め戻され、荒れ果てていた旧国境の緩衝地帯は、見渡す限り真っ平らな広大な土壌へと見事な変貌を遂げている。
残すは、この広大な農地に命を吹き込むための巨大水路の開通のみ。
しかし、水源である川から畑へと続くメインルートの掘削作業現場で、予期せぬ最大の難関が彼らの前に立ち塞がった。
「駄目だ!ツルハシの刃が全く立たねえ!」
「なんて硬さだ……地中にこんな馬鹿でかい岩盤が隠れていたなんて」
泥だらけの兵士たちが、お手上げだというように絶望的な声を上げる。
彼らの目の前には、掘り進めていた水路を完全に塞ぐようにして、ぬらりと黒光りする巨大で強固な岩盤が鎮座していたのだ。
何十人もの力自慢が交代で渾身の力でツルハシを振り下ろしても、表面がわずかに火花を散らして削れるだけで、分厚い岩盤はびくともしない。
「奥様、申し訳ありません。我々の持ち込んだ土木機材と人力では、この岩盤を貫通するのは不可能です」
現場の土木責任者が、視察に訪れたサラに苦渋の表情で報告する。
「これ以上ここで足止めを食うわけにはいきませんので、水路のルートを岩盤の横へ大きく迂回させるしか……」
「却下しますわ」
しかし、現場からの切実な妥協案を、サラは氷のように冷徹な声で即座に一刀両断した。
パチパチと手元の計算盤を弾く彼女の瞳には、一切の妥協を許さない商人のシビアな光が宿っている。
「ここで水路を迂回させれば、水流の勢いが確実に落ち、末端の畑まで十分な水が行き渡らなくなります。水量の低下はすなわち生産効率の低下。たった一つの妥協が、秋の収穫において天文学的な損失をもたらすのです。最短にして最高の直線ルート、それ以外は絶対に認めませんわ」
現場の空気が凍りつく。迂回が許されないとなれば、作付けの期日までに水路を完成させることは事実上不可能だ。
絶望感が漂い始めたその時、ズシン、ズシンと大地を揺らす重々しい足音が現場に響いた。
「……ったく!しゃーねーな!」
呆れたような、しかしどこか妻への絶対的な信頼が滲む声とともに歩み出たのは、司令官であるグウィン・マイヤーその人であった。
彼はゆっくりと背中に手を伸ばし、身の丈ほどもある巨大な両手剣を引き抜いた。
かつて数多の敵将を両断してきた軍神の相棒。それを、あろうことか農地の土木工事のために構えたのである。
「お前ら、よく聞け!」
グウィンの腹の底から響く怒声に、泥だらけの兵士たちの背筋が反射的にビクンと伸びた。
「俺がこれからこの岩盤の中心核を叩き割る!貴様らは俺の剣閃の衝撃に合わせて、岩の亀裂にありったけのツルハシと楔を打ち込め!一瞬の連携で完全に粉砕するぞ!」
「「「ハッ!!!」」」
もはやそれは、単なる土木作業などではなかった。
難攻不落の敵要塞を攻め落とすための、極めて実戦的で高度な軍事作戦の命令であった。
軍神の覇気を受けて兵士たちの目つきが再び鋭い戦士のものへと変わり、巨大な岩盤を包囲するようにして完璧な陣形が敷かれる。
「……さあ、邪魔な石っころをどかして、最高の畑を完成させようぜ」
グウィンは巨大な両手剣を上段に構え、その全身に恐るべき闘気を限界まで練り上げ始めた。
極限まで練り上げられたグウィンの闘気が、大気をビリビリと震わせる。
「おおおおおっ!!」
裂帛の気合いとともに、軍神の剛腕から放たれた両手剣が、巨大な岩盤の中心へと真っ直ぐに振り下ろされた。
──ズドォォォォンッ!
落雷のような轟音が旧国境の緩衝地帯に鳴り響く。
岩盤の中央に大剣が深々と突き刺さり、そこを起点として、分厚い岩の表面にドグシャァッと無数の亀裂が蜘蛛の巣のように走った。
「今だ!打ち込めええっ!」
ベイルの悲痛な絶叫を合図に、周囲を取り囲んでいた兵士たちが一斉に飛びかかる。
彼らは岩盤に生じた亀裂の急所を的確に見極め、持ちうる限りのツルハシと鋼の楔を、己の全体重を乗せて叩き込んだ。
軍神の圧倒的な一撃と、それに続く兵士たちの完璧な破壊工作。
パキンッ、という致命的な音が響いた次の瞬間。
難攻不落と思われた巨大な岩盤は、内側から弾け飛ぶようにして無数の瓦礫へと完全に粉砕されたのである。
「やったぞ!道が開いた!」
歓声が上がる中、最後の障害物が排除された水路の奥から、待ってましたとばかりに川の水がドッと押し寄せてきた。
茶色く乾ききっていた水路を勢いよく満たし、幾筋にも枝分かれしながら、平らに均された広大な農地の隅々にまで命の水が猛スピードで巡っていく。
歓喜に沸く兵士たちと、勢いよく広大な農地を潤していく命の水。
土と汗にまみれた男たちが偉業の達成に涙を流して抱き合う感動的な光景を横目に、サラは一人、極めて冷静に手元の計算盤を弾き続けていた。
「これで生産量の問題は完全にクリアされたわね。となれば、次は収穫後の物流網の構築ね」
彼女の冷徹な視線はすでに、目の前の劇的な光景を通り越し、秋の収穫、そしてその先に待つ莫大な利益へと向けられていた。
サラは持参した羊皮紙にさらさらと羽ペンを走らせ、農地に隣接して建設する巨大な穀物集積所の設計図を素早く書き上げていく。
収穫された天文学的な量の麦を一括で管理し、無駄な動線を一切省いて最短ルートで皇国へと送り出す。それは単なる農業用倉庫ではなく、この地の物流を完全に支配するための完璧な工場拠点であった。
かつて他国の命や土地を奪うためだけに存在していた、軍事力という名の強大な暴力。
それは今、一人の商人の妻の冷徹な計算と底なしの商魂によって、莫大な富と平和を生み出すための完璧な生産システムへと余すところなく変換されたのである。
こうして、最大の物理的障壁を粉砕した前代未聞の農地開拓作戦は、いよいよ約束された祝祭のフィナーレへと突入していくのだった。











