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「愛など不要ですから。お気をつけて」  作者: あとりえむ


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第36話

王都のマイヤー屋敷でグウィンからの無責任極まりない、しかし最高に利益の匂いがする手紙を受け取ったサラは、一刻の猶予も置かずに動き出した。


休戦の絶対条件として組み込まれた、旧国境の緩衝地帯における穀物取引。


それをマイヤー商会が独占的に取り仕切る以上、取引価格が市場と同じ適正価格に固定されていても、生産量そのものを天文学的な数字に引き上げさえすれば莫大な利益を生み出すことができる。


しかし、それを実現するためには、広大な荒れ地を瞬く間に農地へと変え、次の作付けの時期に確実に間に合わせるという神業に近い手腕が必要だった。


「商機の女神は、準備を怠った者の前には決して微笑まないわ」


サラは屋敷の執務室から矢継ぎ早に指示を飛ばし、商会が抱える土木や物流の優秀な責任者たちを即座に招集した。

さらに、今回の計画において最も重要な要となる特級戦力として、マイヤー家の料理のスペシャリストであるアンナを指名する。


「アンナ、王都の市場に出回っている最高のスパイスと、商会が独占している秘蔵の食材をありったけ馬車に積み込みなさい。これから数千人の荒くれ者たちの胃袋を完全に支配してもらうわよ」


「かしこまりました、お嬢様。とびきりのご馳走で、軍神様ご自慢の兵士たちの心を虜にしてみせますわ」


ふわりと優しく微笑むアンナの瞳の奥には、もはや侍女のそれではなく、料理人としての恐るべき闘志が静かに燃え上がっていた。


グウィンからの手紙を受け取ってから、わずか半日。

サラは大量の資材と食材、そして選りすぐりの精鋭たちを何十台もの大型馬車に積み込むと、猛スピードで土煙を上げて王都を出発した。


目指すは、不器用な夫が待つ停戦直後の最前線である。



 ◇ ◇ ◇



一方、停戦協定が結ばれた国境の最前線。

血みどろの戦場から一転、奇跡的な休戦によって軍営には久方ぶりの穏やかな空気が流れていた。


グウィン・マイヤーは天幕の外に丸太の椅子を置き、春の陽気を浴びながら大きく欠伸をした。


王都に手紙を出してからまだ数日。面倒な事業の差配は全て有能な妻に丸投げしたのだから、当分はここでのんびりと兵士たちの休息に付き合えるだろう。


そう高を括っていた彼が、手元の白湯を飲み干そうとした時のことである。


「敵襲……いや、商隊です!王都の街道方面より、数十台の大型馬車が猛スピードでこちらに向かってきます!」


見張り櫓からの切羽詰まった報告に、グウィンは訝しげに眉をひそめた。

こんな辺境の最前線に、しかも休戦直後の不安定な時期にこれほどの規模で乗り込んでくる物好きなど、心当たりは一つしかない。


凄まじい土煙を上げて軍営の門前に急停止した先頭の馬車から、上質な生地でありながらも動きやすさを重視した、活動的な商人装束の女性が軽やかに降り立った。


「グウィン、休戦協定の締結、まことにお疲れ様でした。お言葉に甘えて、美味しい事業をいただきに参りましたわ」


最前線の土埃など気にも留めず、完璧な所作で微笑む愛妻の姿に、グウィンは持っていたカップを取り落としかけた。


「お前……手紙を出してまだ数日だぞ!?いくらなんでも早すぎるだろうが!」


目を丸くして驚愕する夫を前に、サラはふふっと楽しげに笑う。

しかし、その甘い夫婦の再会の余韻は、ほんの十秒で終了した。


「ゆっくりお話ししたいのは山々ですが、私たちには作付けまでの時間がありませんの。さあ、すぐに予定地を案内してくださいな」


愛する夫の無事を確認した瞬間に、商人の妻は即座に冷徹な仕事人の顔へと切り替わった。


サラは手元の革手袋をきゅっと引き締めると、休戦の証として手に入れた広大な土地へと、獲物を狙うような鋭い視線を向けたのである。



 ◇ ◇ ◇



グウィンに案内され、商会の責任者たちを連れて視察に訪れた旧国境の緩衝地帯。

そこは、サラの想像を遥かに超える惨状だった。


「……これは、ひどいですわね」


見渡す限りの広大な平原。しかし、その地表には長年にわたる両国の激しい戦闘の爪痕が生々しく刻み込まれていた。


塹壕や大砲の着弾によって地面は無数の穴でえぐられており、そのまま農地として使える平坦な面積が絶望的に少ない。土壌は荒れ果て、ところどころに焼け焦げた兵器の残骸まで転がっている状態である。


さらにサラの表情を険しくさせたのは、致命的な水環境の悪さだった。


「奥様。水源である川から、この予定地の中心まで距離がありすぎます。これでは、現地の農民たちの労働力の大半が、ただの水汲みだけで消費されてしまいます」


同行した商会の土木責任者が、手元の測量器を下ろしながら重苦しい声で報告した。


どれほど広大な土地があっても、水が引けなければ作物は育たない。かといって人力で遠くから水を運んでいては効率が悪すぎる。それでは王都からの莫大な初期投資や輸送費を相殺して利益を出すための「天文学的な生産量」など、夢のまた夢である。



広大な荒れ地を吹き抜ける乾いた風を浴びながら、サラは手元の計算盤をパチパチと弾いた。

導き出された結論は、極めてシビアなものだった。


「このボコボコの土地を平らに均し、水源から巨大な水路を引く。しかも、それを次の作付けの時期までに完遂しなければならない……」


現地の農民たちをかき集めたところで、彼らの細腕と数では到底作付けに間に合うはずがない。

もし期日に間に合わず秋の収穫量が足りなければ、皇国への穀物納品という国家間の約束を反故にすることになり、マイヤー商会の信用も莫大な利益も全てが水泡に帰す。


「普通のやり方では、絶対に不可能ね」


サラは革手袋に付いた土埃を払いながら、小さく息を吐いた。

しかし、彼女の瞳から冷徹な商魂の炎が消えることはなかった。不可能を可能にしてこそ、一流の商人である。


この絶望的な状況をひっくり返すためには、圧倒的な労働力が必要だ。それも、ただの労働力ではない。過酷な環境に耐えうる無尽蔵の体力と、完璧に統率の取れた組織力を持つ集団が今すぐ必要だった。


ふと、乾いた風に乗って、遠く離れた陣地から暇を持て余した兵士たちの野太い笑い声が聞こえてくる。


「……ふふっ。灯台下暗しとはこのことね」


何かを閃いたサラの唇に、不敵で優雅な笑みが浮かぶ。


その冷徹な視線は、荒れ地の先──休戦によって平和を持て余し、のんびりと欠伸をしている軍神と、王国軍の誇る精鋭部隊が駐屯する軍営へと、ゆっくりと向けられていった。

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