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「愛など不要ですから。お気をつけて」  作者: あとりえむ


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第35話

机に叩きつけられた分厚い資料の音が、カオスに包まれた天幕に乾いた音を響かせた。


これ以上この異常な空間に留まっていれば、有能な外交官としての自分の精神が完全に崩壊してしまう。本能でそう悟ったベイルは、もはや心理戦も駆け引きも全てかなぐり捨てる決意を固めた。


相手の腹を探り、少しでも自国に有利な条件を引き出す。そんな悠長なことをしている余裕は、今の彼の精神状態には微塵も残されていなかった。


とにかく一秒でも早くこの場を終わらせて、一目散に逃げ出したい。


羞恥とパニックで半ばヤケクソになったベイルは、二週間かけて本国の上層部から血を吐くような思いで引き出した、王国側の譲歩の限界であるギリギリの最終条件を、一息に早口でまくし立てた。


「旧国境から南へ十里の緩衝地帯の設置!これは譲れません。ですが、今後そこで収穫した穀物については、市場と同じ適正価格で全て皇国にお譲りします!」


それは、本来であれば何日もかけて互いの要求をぶつけ合い、少しずつ削り出していくべき最終妥協案の、身も蓋もない全暴露であった。



ベイルがヤケクソ気味に最終条件を叫んだのと、全く同じタイミングだった。


ハーブ茶のリラックス効果によって乙女の顔を晒し、あろうことか敵国の総大将への愛を叫んでしまったエリス。

彼女の脳裏に、自分がたった今しでかした取り返しのつかない大失言の事実が、時間差で猛烈に襲いかかってきたのである。


カアアアッと、首の先まで一瞬にして真っ赤に染め上げるエリス。

鉄仮面の面影など完全に吹き飛び、彼女もまたベイルと全く同じ思考に至っていた。


(恥ずかしい!もう無理!一秒でも早くこの場から逃げ出したい!)


これ以上この空間に留まり、自分の剥き出しの恋心に向き合うことなど到底耐えられない。

羞恥心で爆発寸前になったエリスは、椅子から身を乗り出すようにして、本国から預かっていた最大の譲歩案を絶叫した。


「旧国境から南へ十里もやむなし!ただしそこで収穫した穀物は市場と同じ価格でこちらに譲っていただきたい!」


それは、極限まで譲歩しつつも自国の生命線である食糧だけは確保するという、皇国側が二週間かけて練り上げた苦肉の最終条件だった。



王国の補佐官と、皇国の女司令官。

パニックと羞恥という全く同じ理由で精神の限界を迎えた二人の切実な叫び声が、天幕の中で寸分の狂いもなく綺麗に重なり合う。


王国の妥協と、皇国の譲歩。

二週間の熟考の末に両国がそれぞれ導き出した落としどころが、一言一句違わず見事なまでに完全一致した、奇跡の瞬間であった。



二人の声がぴたりと重なり合い、その必死な叫びの余韻が天幕の中に響き渡った直後。


極上のハーブ茶がもたらす至福の安らぎからようやく現実へと帰還したグウィンが、ゆっくりと目を開けた。


彼は、顔を真っ赤にして息を切らすエリスと、やけクソになって肩で息をするベイルを交互に見比べ、それから小さく目を丸くした。


そして、呆れたように、しかしどこかおかしそうに低く喉を鳴らした。


「……お前たち、気が合うな」


静かな天幕に、グウィンの穏やかな笑い声がこぼれ落ちた。


そのたった一言と、普段の恐ろしい軍神からは想像もつかないような静かな笑い声が、最後の引き金となった。


極限まで張り詰めていた重苦しい緊張感と、その後に訪れたあまりにも馬鹿馬鹿しいすれ違いのカオス。さらにはハーブ茶の凄まじいリラックス効果も相まって、限界を迎えていた天幕の空気が風船のように弾け飛んだのである。


「……っ、ふふっ」


最初に吹き出したのは、あれほど羞恥に震えていたエリスだった。


それに釣られるように、ベイルが腹を抱えて笑い始め、やがて渋面を貫いていたランドルフまでもが耐えきれずに大きな笑い声を上げた。


もはや敵も味方も関係なかった。

重苦しい交渉の場であったはずの天幕は、奇妙で穏やかな、そしてどこか清々しい笑い声に包み込まれていた。



ひとしきり笑い声を響かせた後、額ににじんだ汗をハンカチで拭ったランドルフが、やれやれと大げさに肩をすくめて切り出した。

「……ともあれ、両国の条件は見事なまでに完全一致しましたな。では、正式な戦後処理の手続きに移りましょうか」

かくして、多大な犠牲を出し泥沼化するかに思われた凄惨な戦争は、たった一杯の極上ハーブ茶と、四者四様の壮絶な勘違いとすれ違いの末に、誰も予想しなかったほど円満で迅速な停戦締結を迎えることとなったのである。



停戦の絶対条件となった、旧国境の緩衝地帯における穀物の大規模な生産と取引。

王国と皇国を繋ぐこの巨大な平和事業の物流は、停戦への多大な、そして何よりも予期せぬ決定的な功績が認められ、当然の権利であるかのようにマイヤー商会が独占的に全てを取り仕切ることとなった。



◇ ◇ ◇



王都にある広大な屋敷の執務室。

豪奢なデスクに座るサラ・マイヤーは、前線の夫から届いた報告書に目を通していた。


そこには、乱雑だが力強い筆致でこう記されている。


『お前の茶で戦争が終わったぞ。緩衝地帯で大規模な穀物の取引をすることになったから、あとの面倒な商売のやり取りは全部お前に任せる』


命じておいたハーブ茶の詳細なデータや使用感など一切書かれておらず、ただ国家間の巨大事業の面倒事を妻へ丸投げするだけのその呆れた手紙を見つめながら、サラは小さくため息を一つこぼした。


「ったくもう、しょうがないわね」


「お嬢様、グウィン様の口癖がうつってますよ」


傍らに控えていた侍女のアンナが、くすりと笑いながらからかうように言う。


「なっ……!そ、そんなことないわよ!ただ少し呆れただけなんだから!」


図星を突かれて一瞬だけ頬を朱に染めたサラだったが、すぐにコホンと一つ咳払いをして、冷徹で優雅な商人の笑みを口元に浮かべた。


「それよりアンナ、各部門の責任者に至急の招集をかけてちょうだい。王都周辺の輸送馬車も可能な限り押さえるのよ」


「まあ。何か良いことでも書いてあったのですか?」


「ええ。うちの不器用な旦那様が、とびきり大きくて面倒な仕事を丸投げしてくれたわ」


愛する夫の安全を確保した上に、その夫の無責任な丸投げのおかげで、また一つ莫大な利益を生み出す国家規模の事業を手に入れてしまったのだ。


「アンナ、忙しくなりそうよ」


「ふふっ、かしこまりました。ただちに手配いたします」


彼女の快進撃は、まだまだ止まることを知らない。

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