第34話
天幕の中は、先ほどまでの殺気立った空気が嘘のように、穏やかで緩みきった空気に満たされていた。
マイヤー商会特製のハーブ茶の恐るべき効力は、敵国である皇国の二人だけでなく、王国側の補佐官であるベイルの理性をも完全に溶かしてしまっていた。
この二週間、本国の貴族や上層部との神経をすり減らすような調整で極限まで疲労が蓄積していたベイルにとって、この極上のリラックス効果はあまりにも劇薬すぎたのだ。
完全に緊張の糸が切れたベイルは、手元の書類から視線を外し、向かいの席で優雅にお茶を飲むエリスの姿をうっとりと見つめていた。
普段の冷徹な鉄仮面がハーブ茶の温もりで微かに綻び、ほんのりと頬を染めた彼女の美しさに、ベイルの脳内は完全にピンク色のお花畑へと移行していく。
これまでは有能な外交官としての理性でなんとか内心に留めていたはずの、あの壮大でくだらない悲恋のポエム。
それが、極度のリラックス状態により脳のストッパーを軽々と突き破り、あろうことかそのまま口からポロリと漏れ出てしまったのである。
「……ああ、我が氷の薔薇よ。この溢れる愛を、今すぐ貴女に伝えたい」
ぽかぽかとした陽だまりのような天幕の中に、芝居がかった、ひどく甘ったるいベイルの愛の告白が響き渡った。
静まり返った天幕に響いたベイルの甘い囁き。
普段の彼女であれば、敵国の補佐官からの戯言など、氷のような一瞥とともに一刀両断に切り捨てていたはずだった。
しかし、マイヤー商会特製のハーブ茶の恐るべき効力は、歴戦の女司令官が被っていた鉄仮面をも完全にドロドロに溶かし去っていたのである。
極度のリラックス状態により、将軍としての威厳も建前も全て投げ捨ててただの恋する乙女へと戻っていたエリスは、ベイルの甘い言葉を自分への求愛だと正しく認識した。
認識した上で、完全に緩みきった思考のまま、一切の取り繕いも遠慮もなく即座に言い放ったのである。
「っは?無理よ!私の心はとっくにグウィン様のものです!」
それは、国家間の重大な交渉の場としてはあまりにも唐突で、そして軍の司令官としてはあるまじき大失言であった。
敵の総大将に対する熱烈な恋心を、あろうことか敵陣のど真ん中で、しかも両軍の代表が顔を突き合わせる正式な会談のテーブルで、大声で堂々と宣言してしまったのだ。
頬を赤く染め、乙女全開のうっとりとした表情で真っ直ぐにグウィンを見つめるエリス。
もはやそこには、オズガルド皇国が誇る冷酷無比な鉄仮面の面影など微塵も残されていなかった。
エリスの口から飛び出した、信じられない爆弾発言。
その場にいた皇国側の補佐官であるランドルフは、自国の司令官が放ったあまりにも予想外すぎる言葉に、「なんですとぉぉ!?」と目玉が飛び出るほど驚愕した。
あまりの衝撃に手元が狂い、危うく持っていた熱い茶器を机に取り落としそうになる。慌てて両手で茶器を抱え込んだランドルフだったが、彼の思考は完全にショートしていた。
敵国の総大将に、自国の司令官が恋心を抱いている。しかもこの歴史的な休戦交渉の場で、堂々とそれを宣言したのだ。
ランドルフの頭の中では、これまでのエリスの不自然な態度や熱を帯びた視線が、恐ろしい勢いで一つの真実へと結びついていく。あれらは高度な心理戦などでは決してなく、ただ単に敵将に惚れていただけだったという、補佐官にとっては絶望的すぎる真実に。
一方、突如として愛憎渦巻く修羅場と化した天幕の中心で。
当のグウィン・マイヤーは、深く背もたれに体を預け、目を閉じたまま完全なる別世界を漂っていた。
(……ああ、美味い。それにこの香り、不思議とサラがそばにいるような気さえする)
彼を包み込んでいるのは、妻が調合した極上のハーブがもたらす安らぎの香りだけである。
眼の前で繰り広げられている部下の痛恨の失言も、敵国将軍からの熱烈な愛の告白も、敵国補佐官の激しい驚愕も、彼の耳には一切届いていなかった。
ただひたすらにハーブ茶の味覚と嗅覚に没入し、後でサラに提出するための詳細な使用感のレポート内容を真剣に組み立てているだけの、あまりにも平和すぎる姿がそこにあった。
自分の口から無意識に飛び出してしまった、あまりにも恥ずかしい愛のポエム。
それに対する、敵国司令官からの即答での玉砕宣告と、我が主君への熱烈な愛の告白。
目玉をひん剥いて震える敵の補佐官に、この異常事態を全く意に介さずハーブ茶を堪能し続ける我関せずの主君。
自分の失態から連鎖的に引き起こされたこの地獄のような空間で、ベイルの意識は急激に覚醒しつつあった。
(……待て。私は今、あのポエムを声に出して言ったのか……?)
全身の血がサァッと引いていく感覚。極度のリラックス状態から一転、ベイルの背筋を氷のような冷や汗が滝となって流れ落ちる。
敵の司令官に個人的な愛のポエムを囁き、しかも秒でフラれ、あまつさえ相手は自分の主君に惚れているという事実を自国と敵国の幹部の前で晒すという地獄の構図。
それは王国を代表する有能な外交官としての、完全なる社会的な死を意味していた。
その取り返しのつかない事実を明確に自覚した瞬間、ベイルの理性を繋ぎ止めていた最後の糸がプツリと音を立てて焼き切れた。
極度の羞恥心とパニックを通り越し、もはや半ばやけクソになったベイルは、勢いよく立ち上がった。
そして、二週間かけて本国と擦り合わせ、緻密に練り上げてきた交渉のための分厚い資料を、長机の上にバンッ!と力任せに叩きつけたのである。











