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「愛など不要ですから。お気をつけて」  作者: あとりえむ


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第33話

二週間の休戦期間が明け、両軍の代表は再び国境に設営された大型の天幕に集結した。


天幕の中に広がるのは、二週間前よりもさらに濃密で、息が詰まるほどの重苦しい緊張感だった。

それもそのはずである。一時的な休戦とは違い、今回話し合われるのは両国の未来を左右する国境線の確定と、捕虜の処遇という最大の難題なのだ。


王国側の補佐官であるベイルの目の下には、くっきりと濃い隈が刻まれていた。


本国の上層部や貴族たちを相手に、いかに譲歩を引き出し、かつ自国の利益を最大化する条件を呑ませるか。この二週間、彼はろくに睡眠も取らずに神経を削るような調整と根回しに奔走し続けていたのだ。


内心では(愛しの氷の薔薇に再会できるというのに、こんな酷い顔を見せることになるとは……!)と血の涙を流して嘆きつつも、ベイルは有能な外交官としての冷徹な仮面を必死に顔面に貼り付けていた。


対する皇国側の補佐官、ランドルフもまた疲労困憊の様子であった。

自国の強硬派を抑え込み、現実的な落とし所を探る作業は困難を極めた。彼は渋い顔つきをさらに険しくさせながら、眼の前に座る死なずの軍神と、底知れぬその補佐官の動向を油断なく窺っている。


エリス・ファンデッタもまた、完璧な鉄仮面を被り、氷のような視線を真っ直ぐにグウィンへと向けていた。

ただ一人、グウィンだけが変わらぬ無骨な姿勢で腕を組み、静かに目を閉じている。



互いの腹を探り合うような、ひりつくような沈黙。

言葉という名の刃を交える過酷な外交戦が、今まさに始まろうとしていた。




いざ交渉の口火を切ろうと、ベイルが深く息を吸い込み、口を開きかけたその瞬間だった。


グウィンが唐突に無言のまま片手を上げ、ベイルの言葉を制止したのだ。

そして、天幕の隅で硬直して控えていた自軍の兵士に向かって、短く指示を飛ばした。


「あれを出せ」


その予想外の行動に、天幕内の空気が一瞬だけピタリと凍りつく。


敵軍の代表に対し、軍神はいったいどのような先制攻撃を仕掛けるつもりなのか。ベイルもランドルフも息を呑んで次の展開を待ち構えた。


しかし、グウィンの目的は盤外の心理戦でも何でもなく、ただ一つ。

王都にいる妻サラから厳命された、「新作ハーブ茶の詳細なデータと使用感を報告する」という最重要任務を遂行することであった。


(身内の連中に飲ませただけじゃ、気を使って『美味いです』としか言わねえからな。偏ったデータだと後でサラに怒られる。全く見ず知らずの、しかも敵国の奴らの素直な意見なら、完璧な報告書が書けるはずだ)


不器用な男なりに妻の商売を真剣に考え抜いた結果、なんと敵国の将軍たちを新商品のモニターとして利用するという、常軌を逸した結論に至っていたのである。



兵士がお盆に乗せて運んできたのは、血生臭い剣でも恐ろしい脅迫状でもなく、温かな湯気を立てる四つの上品な茶器だった。

それはグウィンとベイル、そして向かいに座るエリスとランドルフの目の前に、それぞれ静かに置かれた。


「……まずはこれを飲め。話はそれからだ」


グウィンが低い声でそう告げると、天幕の中には極上のハーブが織りなす、戦場にはおよそ似つかわしくない甘く爽やかな香りがふわりと漂い始めた。


目の前に置かれた湯気を立てる茶器を睨みつけ、ランドルフの顔色はさらに険しいものとなった。


(なんという恐るべき策だ……。一見して優雅な茶会を装い、我々の警戒を解こうというのか。いや、それだけではない。この甘い香り、おそらく思考を鈍らせる毒や、自白剤の類が仕込まれているに違いない!)


歴戦の補佐官であるランドルフの脳内で、瞬時に最悪のシナリオが駆け巡る。

いかに休戦協議の席とはいえ、敵から出された飲み物に口をつけるなど正気の沙汰ではない。ランドルフがエリスを制止しようと視線を向けた、まさにその時だった。


「……ああ、体に染みる。いい香りだ」


静かな天幕の中に、グウィンの深く満足げな吐息が響き渡った。

彼はいち早く自分の茶器を手に取ると、熱いハーブ茶を一切の警戒もなく飲み干し、ふうっと息をついていたのだ。

戦場の埃と硝煙にまみれた体に、妻が調合した極上のハーブが染み渡っていくのを、ただ純粋に堪能しているだけの無防備な姿であった。


しかし、その軍神の姿を目の当たりにしたランドルフの脳髄に、さらなる戦慄が走る。


(……馬鹿な、毒見もさせずに自ら飲み干しただと!?いや、違う。これは我々に対する究極の無言の圧力だ!『俺は己の杯に一切の疑いを持たないが、貴様らは相手の差し出した杯すら受け取れぬ臆病者か』と、暗に我々の度量を試しているのだ!)


勝手な深読みを光の速さで加速させたランドルフの額から、滝のような冷や汗が流れ落ちる。


ここで茶に口をつけなければ、皇国の代表は軍神の威圧に屈した腰抜けだと外交の場で宣言するようなもの。すなわち、これはただの茶会などではなく、皇国の威信を懸けた命懸けの盤外戦なのだと彼は確信してしまった。


(くっ……完全に退路を断たれた。この死地の茶会、受けて立つしかないか……!)


ランドルフは決死の覚悟を決め、震える手で茶器を手に取った。


一方のエリスは、(彼と同じお茶を飲めるなんて……!)という乙女の歓喜を鉄仮面の裏側に隠しつつ、表面上は極めて優雅な所作で茶器に口をつけた。


両国の補佐官が抱く極度の警戒と、密かな恋心。

それぞれの思惑が交錯する中、皇国の代表二人は、妻の命を受けた軍神が用意した特製ハーブ茶を、恐る恐る喉の奥へと流し込んだ。



喉の奥へと流れ込んだ琥珀色の液体は、彼らの予想を遥かに超える代物だった。

毒でも自白剤でもない。だが、ある意味ではそれ以上に恐るべき効力を秘めていた。


「……っ!」


茶を飲み下した瞬間、特製ハーブ茶の凄まじいリラックス効果が二人の脳天を一直線に突き抜けたのだ。


マイヤー商会が誇る職人とサラの計算によって完璧に調合された極上のハーブの香りと温かさが、過酷な戦場と本国での政治的重圧によってボロボロに擦り切れていた彼らの心身の奥深くにまで、じわじわと、そして強制的に染み渡っていく。


極限まで張り詰めていた神経の糸が心地よい音を立てて解け、重い鎧を脱ぎ捨てたような圧倒的な解放感が全身を包み込む。


「ほぉ……」


歴戦の補佐官であるランドルフの口から、無警戒極まりない間抜けな吐息が漏れた。

鉄仮面を被り続けていたエリスの肩からも、スッと不自然な力が抜け落ち、その冷たかった表情が嘘のように柔らかく緩んでいく。


つい先ほどまで一触即発の殺伐とした空気に支配されていた軍営の天幕の中は、たった一杯のお茶によって、まるでぽかぽかとした春の陽だまりのような、和やかで無防備すぎる空間へと完全に変貌してしまった。


これが、愛する夫の疲労を癒やすために商人の妻が作り上げた「特製ハーブ茶」の、恐るべき真の威力であった。

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