第32話
すれ違いと勘違いのまま突き進んだ四者会談だったが、国境線の最終的な確定という重大な問題に関しては、さすがに現場の将軍と補佐官の裁量だけで決められるものではなかった。
両国の補佐官であるベイルとランドルフが激しい(と周囲には見える)舌戦を交わした結果、正式な国境線の引き直しと捕虜の返還条件については、互いに一度本国へ持ち帰り、上層部の判断を仰ぐ必要があるという極めて妥当な結論に行き着いたのである。
「……双方の上層部の決裁が必要不可欠。今この場での即決は不可能というわけですな」
ベイルが、感情を一切排した極めて事務的な、有能で冷徹な外交官の顔を作ってランドルフに告げた。
「ええ。我が皇国も、持ち帰って検討する時間が必要です」
ランドルフもまた、渋い声で深く首肯する。
その言葉を受け、ベイルはスッと背筋を伸ばし、交渉のまとめに入るように静かで威厳のある声で提案した。
「ならば、まずは本日から二週間の休戦期間を設けるべきです。両軍は現在の位置から一歩も動かず、二週間後に再びこの場で協議の場を設ける。いかがか」
表向きは、これ以上ないほど的確で無駄のない一時停戦の提案である。
軍神の補佐官として恥じない、堂々たる外交術だ。
しかし、その完璧なポーカーフェイスの裏側で、ベイルの内心は荒れ狂う春の嵐のようだった。
(二週間!二週間あれば、王都の商人に極秘で最高級の薔薇の花束を手配させることができる!それに、私のこの熱い想いを綴った完璧な恋文を書き上げるにも十分すぎる時間だ!)
ベイルは手元の書類を見つめるふりをしながら、脳内で早くもエリスへ贈る愛のポエムの第一段落を猛烈な勢いで練り始めていた。
(ああ、二週間後の再会が待ち遠しい!冷酷な氷の将軍であるエリス殿も、この有能な私の計算し尽くされたスマートな提案に、きっと内心で舌を巻いているはずだ!)
一人で勝手に息巻くベイルの、極めて事務的な提案が天幕の中に静かに響き渡った。
ベイルの提案に対し、エリスは微かに顎を引き、氷のように冷徹な声で応じた。
「二週間ですね。承知しました。その条件で一時休戦の協定を結びましょう」
鉄仮面の異名に違わぬ、一切の感情を読み取らせない完璧な返答である。
しかし、彼女の胸の内では悲喜こもごもの嵐が激しく吹き荒れていた。
(二週間!二週間も彼に会えないなんて耐えられないわ!でも、待って……二週間あれば、本国の仕立て屋を呼び寄せて、もっと私のスタイルが綺麗に見える新しい軍服を新調できるじゃない!次はもっと完璧な姿で彼に会うんだから!)
主君の冷静な決断の傍らで、ランドルフは一人深く納得し、内心で感嘆の息を漏らしていた。
(二週間という絶妙な期間……。我々に寸断された補給線を立て直す時間を与えるというのか。いや、これは『二週間待ってやるから、まともな条件を持ってこい』という軍神の絶対的な自信の表れだ。敵ながら見事な采配……これほど恐ろしく、そして器の大きい相手とはな)
彼は完全に的外れな深読みで、己の敗北感と相手への評価を勝手に跳ね上げていた。
そして、休戦の決定が下された交渉のテーブルで、グウィンはただ一言、地響きのように応えた。
「うむ」
腕を組んだままの彼の脳裏には、ようやく訪れた安息の時間が浮かんでいた。
(二週間も休みか。たまにはゆっくり寝られるな。……だが、サラのやつ、俺が暇になったと知ったら、また妙な手土産を持っていきなり陣中見舞いに来たりしねえだろうな。この前の防水油と激辛胡椒みたいな、わけのわからんもんをどっさり抱えて……)
予測不能な、しかし愛してやまない妻の行動を想像し、グウィンの口角がわずかに、本当にわずかにだが上がった。
その軍神の微かな笑みを、エリスは(私との休戦に微笑んでくれた!)と胸をときめかせ、ランドルフは(余裕の笑み……なんというプレッシャーだ)と冷や汗を拭い、ベイルは(私が時間を稼いだことに感謝しているのだな!)と誇らしげに胸を張る。
最後まで見事に全員の思考がすれ違ったまま、二週間の休戦協定は極めてスムーズに合意へと至ったのである。
天幕の空気が少しだけ緩み、長机の上に用意された仮の休戦協定書に、双方の代表のサインが交わされた。
表向きは最後まで張り詰めた緊張感を保ったまま、エリスたち皇国の使節団は席を立ち、軍営を後にするための短い挨拶を交わす。
「では、二週間後に」
冷徹な声で言い残し、エリスは完璧な所作で踵を返し、背を向けた。
しかし、天幕の出口を潜る直前、彼女はどうしても抑えきれない乙女心から、わずかに肩越しに振り返ってグウィンの姿を盗み見た。
最後に一度だけ、あの鋭い視線を合わせておきたい。
そんな彼女の熱視線の先で、グウィンは確かに彼女の方を、正確には天幕の入り口の方角を、猛禽類のような鋭い眼光で真っ直ぐに睨み据えていた。
(ああ……なんて鋭く、力強い眼差し。去り際まで見送ってくれているなんて!)
エリスの胸の奥で、恋の鐘が乱れ打ちされる。
だが実際のところ、グウィンの視線はエリスの姿など完全に通り越し、天幕の外から夕食の乗った配膳盆を運んでくる兵士の姿にただ一点集中しているだけであった。
(やっと飯か。今日の匂いは……塩漬け肉の煮込みだな。悪くねえ)
腹を空かせた大男が、ただ晩飯の到着を殺気立つほど真剣に待ちわびているだけの光景。
しかし、その軍神の鋭い眼光に気づいたランドルフは、再び勝手に戦慄していた。
(我々が背を向けた瞬間に、いかなる奇襲や裏切りがあろうとも即座に対応できるよう、極限の集中力で出口を監視しているのか。去り際まで一切の隙を見せない……なんという武人だ)
夕食を見つめる男の視線を「最後まで油断しない軍神の鑑」と評価し、ランドルフは感嘆の息を漏らす。
エリスはエリスで、(獲物を狙うようなあの冷たい視線……もう、背中や横顔まで素敵すぎるわ!)と胸をときめかせながら、ウキウキとした足取りを必死に鉄仮面の裏に隠して帰路についていく。
極限のすれ違いと勘違いに彩られた歴史的な休戦会談は、こうして誰の腹も満たさぬまま(グウィン以外は)、奇跡の大成功を収めて幕を閉じたのである。
◇ ◇ ◇
使節団の姿が完全に天幕の外へと消え去り、遠ざかる足音が聞こえなくなった直後。
極限の緊張感に包まれていた軍営の空気は、グウィンの一言によって一瞬にして日常へと引き戻された。
「で、ベイル。今日の飯はなんだ」
大剣の帯を緩めながら、グウィンは本当に待ちきれないといった様子で配膳の兵士を急かした。
「さっきの……ええと、名前は何だったか忘れたが、あの白い髪の皇国の奴らが帰ったんだ。もう冷めないうちに食っていいんだろうな」
その信じられない発言に、書類を片付けていたベイルは目を剥いて天を仰いだ。
「閣下!あの美しい氷の薔薇、エリス司令官殿のお顔とお名前をもうお忘れになったのですか!?ああっ、なんという神の悪戯か!これでは私の悲恋の幕開けが、ただの一人芝居になってしまうではないですか!」
頭を抱えて芝居がかったように嘆くベイルを完全に無視し、グウィンは運ばれてきた塩漬け肉の煮込みにさっそく木のスプーンを突っ込もうとした。
その時だった。
「閣下!王都のマイヤー商会より、サラ奥様からの特急便が到着いたしました!」
天幕に駆け込んできた伝令兵の言葉に、グウィンの手がピタリと止まる。
ベイルも先ほどの悲劇の主人公モードから一瞬で我に返り、慌てて補佐官の顔に戻った。
伝令兵が恭しく差し出したのは、厳重に封がされた上質な羊皮紙の手紙と、ずっしりと重い謎の木箱だった。
グウィンは肉を食う手を一旦止め、手紙の封を切って流麗な妻の文字を目で追う。
『愛しい貴方へ。暖かくなってきたので、商会で開発した新作の携帯用虫除け香と特製ハーブ茶の試作品をお送りしますわ。陣中の暇を見つけて部下たちと消費し、後日詳細なデータと使用感を報告すること。もちろん、無茶な戦い方をして怪我など負い、貴方自身の商品価値を少しでも下げたら絶対に承知しませんからね』
相変わらず愛の言葉の代わりに無茶な要求と新商品のテストを押し付けてくる、冷徹で計算高い、けれど誰よりも愛おしい妻からの陣中見舞い。
こちらの必要としているものを、的確に予想してくる才覚は恐ろしいほどだ。
手紙を読み終えたグウィンの顔から、先ほどまで敵国を震え上がらせていた威圧的な軍神の面影が完全に消え去った。
「……ったく、しゃーねーな」
呆れたような、しかし隠しきれない深い愛情と喜びに満ちた笑い声が、天幕の中に低く響き渡る。
敵国の女将軍の熱烈な恋心など微塵も気づかず、ただ一人の妻の掌の上で嬉々として転がされる不器用な男は、最高に誇らしげな笑顔を浮かべて新たな手土産の木箱を開けた。











