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「愛など不要ですから。お気をつけて」  作者: あとりえむ


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第31話

天幕の中の空気は、いよいよ一触即発のヒリヒリとしたものになりつつあった。


国境線の新たな引き直しと、先の戦いで捕らえられた皇国軍の捕虜の返還を巡り、補佐官であるベイルとランドルフの間で激しい舌戦が繰り広げられていたからだ。


「旧国境から南へ十里。そこまでの緩衝地帯の明け渡しが、捕虜一万の返還の最低条件です。これ以上の譲歩は我が軍としては考えられませんな」


ベイルが氷のように冷ややかな声で数字を突きつけると、ランドルフもまた渋い声で即座に反論する。


「それはあんまりな要求だ。その地域は我が皇国にとっても重要な穀倉地帯が含まれている。せめて五里、それに加えて捕虜の数に応じた金貨での身代金の支払いで手を打つという解決策を提案したい」


机の上に広げられた地図を挟み、両国の補佐官同士の視線が火花を散らすように激しく交錯する。


一歩も引かない両者の態度は、今にも机を蹴り飛ばして剣を抜き放ちそうなほどの緊迫感を孕んでおり、天幕の外で警備に当たる兵士たちが生唾を飲み込むほどだった。


しかし、これほど白熱した条件交渉の真っ只中にあっても、彼らの脳内は相変わらず完全に明後日の方向を向いたまま、止まることを知らなかった。



緊迫した空気の中、ベイルはスッと目を細め、意図的に数秒の重い沈黙を作った。


表向きは、相手の提案を冷酷に値踏みする有能な外交官の顔だ。

しかし彼の頭の中は、全く別の計算でフル回転していた。


(ここで私が『身代金で手を打ちましょう』と優しく譲歩すれば、エリス殿は私に感謝の眼差しを向けて惚れるか……?いや、違う!女心というものはギャップに弱いのだ。ここはあくまで冷徹な男を演じきり、後でこっそり甘い言葉を囁く……これだ!)


一人で勝手に迷走し、悲劇の恋の主人公から計算高い策士へと役柄を変えたベイルは、さらに鋭い一瞥をランドルフへと向けた。


その視線を受けたランドルフは、内心でギクリと身を強張らせた。


(なんという鋭い一瞥だ。あの僅かな沈黙……もしや、こちらの兵站がすでに限界に近く、あの穀倉地帯を失えば軍の維持が不可能になることまで完全に見抜かれているのか。この男、底が知れない!)


恋の駆け引きのつもりで作ったただの間を、ランドルフは「兵站の限界を見透かした高度な圧力」と勝手に解釈し、額に冷や汗をにじませて深く戦慄してしまっていた。



泥沼化しそうな補佐官同士のやり取りを断ち切ったのは、それまで沈黙を保っていた皇国の鉄仮面、エリスだった。


彼女はスッと冷たい視線を動かし、正面で腕を組んだまま目を閉じているグウィンへと真っ直ぐに向けた。


「グウィン・マイヤー閣下。十里の割譲を譲らないというのであれば、我が軍の将校以上の捕虜は、協定の正式調印を待たず今すぐ無条件で解放していただきたい」


それは、敗戦国側が突きつけるにはあまりにも図々しく、常識外れに厳しい条件だった。

表向きの彼女は、相手の怒りを買うことすら恐れない、冷酷無比な鉄仮面の将軍そのものである。


だが、その内心は乙女の祈りで爆発寸前だった。


(お願い、私を見て!さっきからずっと目を閉じているんだもの、こうでもしないとこっちを向いてくれないじゃない!怒ってもいい、呆れてもいいから、あなたのその素敵な低い声をもっと私に聞かせて!)


彼女がわざと厳しい条件をぶつけた理由はただ一つ、「好きな男の気を引きたかったから」という、外交の場にあるまじき極めて個人的で純粋な乙女心によるものだった。



エリスの常識外れな要求が天幕に響き渡った瞬間、ベイルとランドルフの間に走っていた緊張感がさらに跳ね上がった。


ランドルフは(なんと強気な外交手腕!死なずの軍神相手に一歩も引かないとは!)と主君の度胸に心底感服し、ベイルは(ああ、無謀な要求を突きつけるその冷たい唇もまた美しい!)とさらに惚れ直している。


しかし、肝心のグウィンはすぐには答えなかった。

彼は組んだ腕を解くことなく、目を閉じたまま、長く、重々しい沈黙を保ち続けたのだ。


(将校の無条件解放……これは明らかに我が国に対する挑発か、それともこちらの度量を試しているのか)


ランドルフが息を殺して軍神の次の言葉を待つ中、グウィンの脳内では極めて平和な思考が巡っていた。


(……サラから送られてきたあの青く光る防水油、まだ倉庫にけっこう余ってたよな。雨の日は助かるが、最近は暖かくなってきて虫が増えてきたな……次は虫除けの薬とか、美味い携帯食とか送ってこねえかな)


グウィンは妻の商会が開発するであろう新商品に思いを馳せながら、ただぼんやりと戦地での快適な生活について考えていた。

そこへ、エリスの甲高い声が耳に届き、彼は現実に引き戻される。


(……ん?あ、なんか聞かれてるな。捕虜がどうとか言ってたか?)


グウィンはゆっくりと目を開け、正面で自分を凝視しているエリスを見据えた。

細かい条件のすり合わせなど、彼にとってはどうでもいいことだった。そんなものは、王都にいる計算高い妻か、隣にいるベイルが勝手にやればいいのだ。


グウィンは深く息を吸い込むと、地を這うような低く威圧的な声で、ただ一言だけ重々しく言い放った。


「うむ。……ベイル、任せる」


その言葉とともに、彼は再び静かに目を閉じた。



たった一言。交渉の場においてあまりにも無責任ともとれるその短い返答は、天幕の空気を一変させた。


「……っ!」


エリスは微かに息を呑み、テーブルの下でギュッと両手を握りしめた。


(細かい条件など一切意に介さない……なんて器の大きな男なの!普通なら激怒するような無茶な要求にも全く動じず、部下にすべてを委ねるその絶対的な自信!ああ、やっぱり私の目に狂いはなかったわ!)


表向きは氷の仮面を崩さないまま、彼女の内心の好感度は限界を突破して成層圏まで到達しようとしていた。


一方、その同じ言葉を聞いたランドルフは、全く逆の意味で心臓を跳ね上がらせていた。


(なんというプレッシャーだ……!あえて多くを語らず、すべてを部下に一任することで、『そのような小手先の小細工は我が軍には通用しない』と暗に警告しているのだ。下手に交渉を長引かせれば、この男は迷わず大剣を抜くぞ……!)


軍神の底知れない恐ろしさに、ランドルフの背筋は冷たい汗でびっしょりと濡れていた。


グウィンは妻の仕送りや夕飯のことを考え、エリスはグウィンに熱烈な恋心を抱き、ベイルはエリスとの悲恋を妄想し、ランドルフはそのすべてを高度な心理戦だと勘違いして一人で震え上がる。



白熱する交渉のテーブルで、誰一人としてまともに会話のキャッチボールをしていない。

それにもかかわらず、奇跡的なすれ違いと勘違いの連鎖によって、極めて緊迫した高度な休戦会談は、なぜか極めてスムーズに、そして不思議なほど順調に次の議題へと進んでいくのであった。

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