第30話
泥濘の戦場での劇的な大勝から数日後。
グウィン率いる王国軍の前線基地に、これまでになくピリピリとした重苦しい空気が張り詰めていた。
サラが送った防水油の機動力によって防衛線をズタズタに引き裂かれ、大敗を喫した隣国オズガルド皇国が、これ以上の決定的な損害を避けるために休戦協定の使節団を派遣してきたのだ。
軍営の中央に急遽設営された大型の天幕。
そこでは長机を挟み、両国の代表者が静かに向かい合って座っていた。
王国側の代表は当然、漆黒の軍服に身を包み、大剣を腰に下げたまま腕を組んで深く椅子に腰掛ける「死なずの軍神」グウィン・マイヤー。
その横には、大量の書類を抱えた補佐官のベイルが、普段のおどけた態度を完全に消し去り、真面目な面持ちで控えている。
対するオズガルド皇国側の使節団トップは、軍神と対峙するに相応しい、いや、ある意味ではグウィン以上にこの場において異彩を放つ人物だった。
雪のように白い肌と、隙のないプラチナブロンドの髪をタイトにまとめ上げた美しい女性。
オズガルド皇国の陸軍司令官、エリス・ファンデッタである。
彼女は数々の過酷な戦場を指揮しながらも、いかなる悲惨な状況下でも決して表情を崩すことがない。その完璧なまでの冷徹さから、敵味方を問わず「鉄仮面」と恐れられている歴戦の女将軍だ。
軍服の襟元までをきっちりと締め上げたエリスは、真っ直ぐに背筋を伸ばし、氷のように冷たく鋭い視線を正面のグウィンへと向けていた。
彼女の斜め後ろには、皇国軍の軍服を隙なく着こなす口髭を蓄えた初老の男、補佐官のランドルフが、主の盾となるように渋い顔つきで静かに立っている。
死なずの軍神と、恐るべき鉄仮面。
歴戦の猛将同士が放つ言葉なき威圧感が激しくぶつかり合い、天幕の中は今にも火花が散りそうなほどの緊迫感に支配されていた。
不用意な一言でもあれば、即座に交渉は決裂し、再び血の雨が降る。
ベイルもランドルフも、息をするのすらためらわれるほどの重苦しい空気の中で、静かに交渉の口火が切られるのを待っていた。
しかし、この場にいる誰一人として、予想すらしていなかっただろう。
この歴史的で緊迫した会談のテーブルの下で、それぞれのあまりにもくだらなく、そして真面目すぎる思考が、全く明後日の方向を向いたまま交錯しようとしていることなど。
◇ ◇ ◇
天幕を支配する沈黙は、すでに数分間にも及んでいた。
エリス・ファンデッタは、微動だにせず正面のグウィンを見据えている。その研ぎ澄まされた氷のような視線は、相手の僅かな隙も逃さない冷酷な司令官のそれであった。
しかし、彼女の胸の内は、その鉄仮面からは想像もつかないほど激しく打ち鳴らされていた。
(なんてこと……信じられないくらい格好いい……!)
彼女の内心は、乙女のような大歓声に包まれていた。
(皇都の貴族たちのような軟弱さが微塵もないわ!あの歴戦の古傷、逞しい分厚い胸板、そして何にも動じない圧倒的な覇気……!これぞ私が求めていた本物の雄!どうしよう、見つめられているだけで顔が赤くなってしまいそう!)
エリスは必死に表情筋を凍りつかせ、ただひたすらに「冷徹な将軍」の仮面を顔面に張り付けていた。だがその実態は、一目惚れした相手を瞬きすら惜しんで凝視しているだけであった。
一方、彼女から熱烈な(そして外見上は殺気立った)視線を一身に浴びているグウィンはというと。
組んだ太い腕にどっしりと体重を預け、猛禽類のような鋭い眼光でエリスを射抜いていた。その姿はまさに、いかなる交渉にも屈しない「死なずの軍神」の威厳そのものである。
だが、彼の脳内を占めていたのは、国家間のパワーバランスでも国境線の引き直しでもなかった。
(……早く終わんねえかな)
グウィンは政治的な駆け引きというものが死ぬほど嫌いだった。そもそも興味が微塵もない。
(腹減ったな……。今日の飯はなんだろう。サラが王都で食わせてくれた、あの魚介のホワイトシチューがまた食いたいな。いや、待てよ。あいつのことだ、こんな退屈な停戦交渉をしてるって知ったら、またわけのわからん劇薬や謎の道具を手土産に陣中見舞いに来たりしねえだろうな……)
彼はエリスの視線を受け止めながら、ひたすらに今日の夕飯の献立と、妻の予測不能な行動についての懸念を巡らせていた。
彼が時折見せる眉間のシワや険しい表情は、敵国への威嚇などではなく、単なる空腹と妻への呆れから来るものだった。だが、それが奇跡的に「敵国への無言の圧力」として完璧に機能してしまっている。
互いに全く別の次元を彷徨っている二人のトップ。
しかし、何も知らない周囲の人間からすれば、それは一触即発の、息を呑むような高度な心理戦にしか見えないのであった。
沈黙を破ったのは、皇国側の補佐官であるランドルフだった。
「……マイヤー閣下。本日は我が皇国の休戦の申し入れをお受けいただき、感謝申し上げる」
低く渋い声が天幕に響き渡る。それに合わせ、エリスも微かに顎を引き、冷ややかな視線のまま形式的な会釈を送った。
対するグウィンは、組んでいた腕を解くこともなく、ただ一言、地響きのように重々しく応えた。
「うむ。……あとはベイル、任せる」
それだけ言い放つと、グウィンは再び深々と椅子に背中を預け、目を閉じてしまった。
(今日の夕飯は干し肉のスープか、それとも豆の煮込みか……)という極めて個人的な思索に、全意識を集中させるために。
主君からの絶対的な信任、という名の完全な丸投げを受けた補佐官のベイルは、音もなく立ち上がった。
彼は手にした分厚い書類の束を机に置き、極めて優秀で冷徹な外交官の顔を作り上げる。
「オズガルド皇国軍、エリス・ファンデッタ司令官殿。並びにランドルフ殿。我が王国軍を代表し、これより休戦協定の具体的な条件提示を行わせていただきます」
淡々と、感情を一切交えないベイルの澄んだ声。
彼のその隙のない態度は、誰の目にも軍神の右腕として相応しい、有能で冷酷な男として映っていたはずだ。
しかし、ベイルの頭の中は、先ほどからピンク色の花吹雪が舞い散る大惨事となっていた。
(ああ……なんという美しさだ!間近で見ると、さらに透き通るような肌!まさに戦場に咲く一輪の氷の薔薇!)
ベイルは書類に視線を落とすふりをしながら、エリスの美貌をチラチラと盗み見ては内心で悶絶していた。
(冷徹な敵国の女将軍と、彼女と敵対する王国軍の補佐官……!ああ、なんという数奇な運命!許されざる禁断の恋!もしや、この冷たい視線の裏で、彼女も私という有能な男の魅力に惹かれ始めているのでは!?そうだ、そうに違いない!私ってば、なんて悲劇の主人公なんだ!)
表向きは国境線の不可侵領域について厳しい数字を並べ立てながら、ベイルの脳内ではすでにエリスとの駆け落ちの逃走ルートまでが綿密に計算され始めていた。
軍神は夕飯の献立に思いを馳せ、敵の女将軍は軍神の肉体にうっとりとし、その補佐官は敵将軍との悲恋の妄想に酔いしれる。
極限の緊張感に包まれていたはずの休戦交渉のテーブルは、ここにきて完全に制御不能なカオスの様相を呈し始めていた。
ベイルが冷徹な声で提示する過酷な条件に対し、エリスは表情一つ変えることなく、ただ真っ直ぐに目を閉じたグウィンを見つめ続けていた。
その静寂に包まれた極限の空間で、皇国側の補佐官であるランドルフだけが、一人真面目に静かな戦慄を覚えていた。
(……素晴らしい。我が司令官の、この一切の隙を見せない胆力はどうだ)
ランドルフは、微動だにしないエリスの背中を頼もしげに見つめながら内心で深く感嘆していた。
王国から突きつけられる厳しい条件を前にしても、決して焦りを見せず、敵の総大将から目を離さない。それは彼女の底知れない精神力の証だと、ランドルフは信じて疑わなかった。
彼には、エリスがただグウィンの顔を凝視してうっとりしているだけだとは、夢にも思わなかったのである。
そして、彼の鋭い観察眼は、目を閉じたまま微動だにしないグウィンへと向けられた。
(これが、死なずの軍神……。交渉のすべてを部下に任せ、自身は一言も発さない。小賢しい言葉など不要、ただ己の存在と覇気のみで我が皇国を屈服させようというのか。なんという底知れない男だ)
ランドルフの額から、一筋の冷たい汗が流れ落ちる。
今日の夕飯のおかずを真剣に悩んでいるだけの男が放つ無自覚な沈黙を、彼は「究極の威圧」として受け取ってしまっていた。
(あの補佐官のベイルとやらも侮れない。主君の無言の意図を完璧に汲み取り、こちらが最も痛いところを的確に突いてくる。あの能面のような表情の裏で、どれほどの盤面を読んでいるというのか……)
エリスとの悲恋の妄想で頭が沸騰している男の事務的な読み上げを、ランドルフは「高度な外交戦術」として高く評価し、さらに顔を強張らせた。
誰一人としてまともに会話のキャッチボールをしていない。
全員の思考が完全に明後日の方向を向いているにもかかわらず、ランドルフの真面目すぎる深読みによって、この四者会談は「互いの腹を探り合う、極めて高度で緊迫した心理戦」として奇跡的に成立してしまっていたのである。
すれ違いと勘違いの連鎖は、まだ始まったばかりであった。











