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「愛など不要ですから。お気をつけて」  作者: あとりえむ


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第25話

王都の海軍本部。


執務室の窓から一直線に飛び込んできた軍用の大鷹が、バルトロメオ提督の腕にバサリと降り立った。


その足に括り付けられた小さな筒から報告書を取り出した提督は、そこに記されたデミウス副官からの凶報に血相を変えた。


ゲイルズ海賊団の強襲。そして、マイヤー商会の会頭であるサラの誘拐。


あの死なずの軍神の最愛の妻が、己の管轄する海域で攫われたのだ。もしグウィンがこの事実を知れば、軍を抜けて海軍本部を物理的に破壊しにきかねない。


提督は即座にペンを走らせ、「奥方は私が必ず助け出す。だからどうか、早まって海軍本部を消し飛ばさないでくれ」と書き記した手紙を封にし、内陸の戦線にいるグウィン宛てに最速の急使を放った。


休む間もなく、バルトロメオ提督は自ら精鋭部隊を率いて海軍の全艦隊を出撃させた。


風を切り裂き猛スピードで南方の海域へと向かった大艦隊は、焦燥に駆られながら捜索を続けていたデミウス副官の護衛艦と無事に合流を果たす。


己の失態に青ざめ、深く頭を下げる副官を「今は一刻も早く奥方を救出するのが先だ」と制し、提督は海域一帯の本格的な捜索を開始した。


しかし、ゲイルズ海賊団がねぐらとする島は、一年中深い霧に覆われ、船の腹を容赦なく引き裂く複雑怪奇な暗礁に守られた天然の要塞である。


海軍が長年討伐できずにいたのも、その正確な場所を特定することすら極めて困難だったからに他ならない。


焦りからピリピリとした空気が漂う中、精鋭を揃えた大艦隊をもってしても手がかりのない濃霧の海を彷徨うことしかできず、海軍兵士たちの間には重苦しい焦燥感だけが募っていった。



◇ ◇ ◇



内陸の最前線。立ち込める硝煙と、降り続く雨に打たれた湿った土の匂いが混ざり合う、泥濘の戦場。


漆黒の軍服を敵の返り血と泥で黒ずませたグウィンは、手にした大剣を無造作に一振りし、刃にこびりついた脂を振り払っていた。


「閣下、海軍より急使が到着しました!」


側近の叫びとともに現れたのは、馬を乗り潰さんばかりの勢いで駆けつけてきた、死人のように青ざめた表情の伝令兵だった。


海軍提督からの親書を携えた伝令は、目の前に立つ軍神の放つ圧倒的な威圧感に気圧され、文字通り膝を震わせながらその口を開いた。


「も、申し訳ございません!王都へ帰還途中のマイヤー商船がゲイルズ海賊団の強襲に遭い、商会主、サラ殿が連れ去られました!」


その報告が響いた瞬間、周囲にいた将校たちの間に戦慄が走る。


誰もが、グウィンが怒りに任せてこの場を破壊し尽くすのではないかと身構えた。軍神の最愛の妻が、己の不在の間に奪われたのだ。その怒りの火の粉を浴びれば、命がいくつあっても足りない。


しかし、数拍の沈黙の後、グウィンが示した反応は誰もが予想しなかったものだった。


彼は怒鳴ることも、取り乱すこともなく、ただ静かに大剣を背の鞘へと納めた。


そして、どこか遠い場所を見つめるように、戦場の重苦しい灰色の空をじっと見上げたのだ。


その瞳には逆上した色など微塵もなく、驚くほど冷徹で、透き通った信頼の色が宿っていた。



灰色の空を見上げながら、グウィンの脳裏には出立の朝の光景が鮮明に蘇っていた。


王都の屋敷の玄関で、自信に満ちた笑みを浮かべて南方の海図を広げていた妻の姿だ。


彼女は自身の完璧な仕入れ計画を誇示するように、確かにこう言っていた。『星屑貝の防水油は、夜の海水に触れた時にだけ青白く発光するという特殊な性質を持っていますの』と。


ただで攫われて大人しく震え、泣き寝入りして丸損を受け入れるようなタマではない。


あのしたたかな商人の妻が、己の利益を理不尽に奪われたまま終わるはずがないのだ。あの絶望的な状況下であっても、彼女は手元にある最も有効な手札を切り、確実に反撃と回収のための布石を打っているはずだ。


妻のブレない思考回路を世界中の誰よりも深く理解しているグウィンは、口元に薄く不敵な笑みを浮かべた。


「閣下……?」


軍神の予想外の反応に恐る恐る顔を上げた伝令兵に対し、グウィンは提督からの親書を無造作に懐へ仕舞い込むと、短く、しかし絶対的な確信を込めて言い放った。


「提督に伝えろ。暗夜の海を見よ。俺の妻が、すでに完璧な案内標識を残している、とな」


その謎めいた伝言の意味を理解できず呆然とする伝令兵を尻目に、グウィンは再び血濡れた大剣を抜き放つ。


海のことなど案じる必要はない。妻が残した道標さえあれば、あとは海の専門家である提督が必ず仕事をしてくれる。そう信じきった男の背中は、微塵の迷いもなく眼前の戦線へと向かっていった。

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