第21話
過酷な雪山での圧倒的な大勝から季節は巡り、王都には穏やかな風が吹き始めていた。
マイヤー商会は海軍のバルトロメオ提督の多大な協力を得て、ついに海を越えた大規模な海洋貿易事業を本格始動させようとしている。
その輝かしい門出の日、王都のマイヤー屋敷の玄関では、奇しくも夫婦が同時に全く別の戦場へと出立しようとしていた。
漆黒の軍服に身を包み、大剣を腰に下げたグウィンは、新たな内陸の激戦区へと派遣される。
一方の私は、南方の活気あふれる街アラバナの商人と新規貿易の独占契約を結ぶため、提督の副官デミウスが率いる護衛艦と共に自ら商船に乗り込む手はずとなっていた。
私は出立前の慌ただしい玄関ホールで南方の海図を広げ、目の前に立つ不器用な夫に向かって不敵に微笑んでみせた。
「今回向かうアラバナには、星屑貝の防水油と竜血胡椒という素晴らしい特産品がありますの。独占契約できれば、王都の市場でバカ売れ間違いなしですわ」
剣の帯を締め直していたグウィンが、呆れたように一度だけ深くため息をつく。
「星屑貝の防水油は、塗ると完璧に水を弾くだけでなく、海水に触れると青白く発光するという特殊な性質を持っていますの。夜間の海上での目印にもなりますから、海軍にも高く売れますわね。そして竜血胡椒は、耳かき一杯で人が悶絶するほどの超激辛スパイス。過酷な戦地にいる貴方への、いざという時の実用的で最高のお土産としても最適だと思いませんこと?」
「……お前は相変わらず、商売と金のことばかりだな」
呆れ果てたような口調とは裏腹に、彼の声には隠しきれない深い愛情が滲んでおり、その鋭い瞳は私が口にした二つの品名をしっかりと記憶に刻み込んでいた。
私は海図を優雅に折りたたみ、彼の逞しい胸元を軽く叩いた。
「私の最も価値ある投資先が、過酷な戦場で少しでも快適に利益を上げられるようにするための緻密な計算ですわ。必ず手に入れて戻りますから、貴方も無茶な戦い方をして商品価値を下げないように気をつけることね」
「ったく、しゃーねーな。お前も、海の上で変な厄介ごとに巻き込まれて損を出すなよ」
私たちは互いの無事と、それぞれの場所での圧倒的な勝利を静かに誓い合う。
そして、私と仕事バカの夫は、それぞれ別の空が広がる新しい戦場へと力強く足を踏み出した。
◇ ◇ ◇
王都の肌寒さが嘘のように、南方の港町アラバナは突き刺さるような陽射しと熱気に満ちていた。
極彩色の織物が風に揺れ、見たこともない果実の甘い匂いと、鼻腔をくすぐる強い香辛料の香りが混ざり合って街全体を包み込んでいる。
「見事な活気ですわね。王都の洗練された市場も好きですが、こういう野性味あふれる混沌も商人の血が騒ぎますわ」
私が目を輝かせながら異国の情景を見渡すと、背後に控える護衛のデミウス副官が少しだけ険しい顔で周囲を警戒した。
「奥様、あまり人混みには近づかないでください。提督から、奥様の身に何かあれば腹を切らされると釘を刺されておりますので」
「あら、頼もしいこと。でも安心なさいな。私の命にはあの男の莫大な違約金が掛かっているから、そう簡単には手放しませんわ」
アラバナを牛耳る豪腕商人たちとの会合は、痛快なほど私の計算通りに進んだ。
最初は若い女と侮っていた彼らも、マイヤー商会の緻密な物流データとバルトロメオ提督の強固な後ろ盾、そして圧倒的な量の金貨を前に沈黙する。
一切の反論を許さない私の完璧な交渉術を背後で見ていたデミウス副官は、「戦場にいる将軍閣下よりも恐ろしい……」と小さく呟いていたが、あえて聞こえないふりをしてあげた。
無事に独占契約を勝ち取った後、私たちは出航までの時間を利用して市場のさらに奥へと足を踏み入れた。
「奥様、わざわざこのような薄暗い路地まで来なくても……」
「いいえ、ここからが本番ですわ。表の市場にはない、極上の手土産を見つけなくてはなりませんから」
埃っぽい商店の奥深くで、私はついに目当ての品を見つけ出し、満足げに微笑んだ。
「ありましたわね。星屑貝の防水油と、竜血胡椒」
私が大量の樽詰めの油と、厳重に瓶詰めされた赤黒い粉末を買い占めるよう指示を出すと、デミウス副官が怪訝そうな顔をする。
「その油、やけに生臭いですが……それにその胡椒は、近くにいるだけで目が痛くなります。本当に手土産なのですか?」
「ええ。この防水油はとても優秀ですのよ。そしてこの竜血胡椒は、耳かき一杯で大の男が悶絶する超激辛スパイス。寒冷地ではごく少量を料理やお酒に混ぜれば防寒対策になりますし、弾薬や飛び道具として加工すれば武器としても使えるかもしれません。過酷な戦場にいる私の仕事バカには、こういう実用的な劇薬が一番の愛情表現ですわ」
「……将軍閣下の胃袋が心配でなりません」
デミウス副官の心底同情するような溜息を聞き流し、私は買い占めた手土産を商船の船底倉庫へと積み込ませた。
泥と血にまみれる不器用な夫がこれを見てどんな呆れた顔をするか。
それを想像するだけで、南国の太陽よりも温かい感情が胸の奥に広がっていくのを自覚しながら、私は大いなる成果と共に王都への帰路についた。











