第20話
長い冬が終わり、王都に雪解けの季節が訪れた。
猛吹雪の北方の国境を完全に制圧し、雪崩で埋もれた街道に変わる新たな補給路まで確立してみせたグウィンの部隊が、ついに王都への凱旋を果たす日がやってきたのだ。
海路の開拓と、気球による前代未聞の空挺補給。
二つの偉業を立て続けに裏から支えた新生マイヤー商会の名声は、今や王都において確固たるものとなっていた。
もはや特権商人ギルドのオズワルドでさえ、私たちに手出しすることなど絶対に不可能なほどの圧倒的な経済的地位を築き上げたのだ。
王都の大通りは、死なずの軍神とその部隊の奇跡的な帰還に熱狂し、お祭り騒ぎに沸き立っている。
連日、貴族や商人たちから私たち夫婦を称える盛大な祝賀会への招待状が山のように届いていた。
けれど、私はそのすべてを丁重に、かつ冷たく断り捨てた。
私の投資先が過酷な雪山で命を懸けて戦っていた時に、安全な場所でぬくぬくと身を縮こまらせていた連中と美酒を酌み交わす義理など微塵もない。
それに、あの仕事バカがそんな堅苦しい席を好むはずがないことは、私が一番よくわかっている。
私は王都の喧騒から少し離れた屋敷の静かなダイニングで、ただ一人の不器用な夫を迎えるためのささやかな準備を進めていた。
◇ ◇ ◇
王都の大通りが軍神の帰還を祝う熱狂的な歓声に包まれている頃。
屋敷の玄関の扉が、乱暴な音を立てて開け放たれた。
式典も、軍上層部への凱旋の挨拶もすべて後回しにして真っ直ぐに帰ってきたその人は、相変わらず私の予想を遥かに超える無茶苦茶な男だ。
猛吹雪と血にまみれ、所々が破れてボロボロになった漆黒の軍服。
過酷な死闘を物語るその出立ちのまま、グウィンは屋敷のダイニングへと真っ直ぐに足を踏み入れた。
「……帰ったぞ」
低く、少しだけ掠れた不器用な声。
その顔を見た瞬間、私は用意していた完璧な商人の笑顔をうまく保てなくなり、視界がわずかに滲んでしまうのをどうすることもできなかった。
「おかえりなさい、投資の回収には少し時間がかかりすぎではありませんか? 本当に仕事馬鹿なんだからっ!」
震えそうになる声を必死に抑え、私は強がって見せながら彼をテーブルへと案内した。
そこに用意されているのは、アンナと共に腕によりをかけて作った極上のホワイトシチューだ。
海軍のバルトロメオ提督が管轄する港から最速で届けられた新鮮な魚介と、王都で一番の高級乳製品をふんだんに使った、新生マイヤー商会の物流網の集大成とも言える一皿である。
温かな湯気とともに広がる豊潤な香りが、彼が纏ってきた戦場の血生臭さを静かに、そして優しく塗り替えていく。
向かい合って座ったグウィンは、出されたシチューをスプーンですくい、黙々と口に運び始めた。
「……美味いな」
短く呟かれたその言葉とともに、雪山で完全に冷え切っていたはずの彼の体が、芯からじんわりと温まっていくのがわかる。
私はその安らかな顔をしばらく眺めてから、わざとらしく咳払いを一つして、分厚い羊皮紙の束をテーブルの上に滑らせた。
「なんだこれは」
「空挺気球作戦にかかった莫大な経費と、あわや私を未亡人にしかけたことへの違約金の請求書よ」
目を見開くグウィンに対し、私は商人の娘らしい不敵な笑みを浮かべてみせた。
「気球の材料費に職人たちの徹夜の手当、それにあの極上のスパイス。どれもこれも破格の追加投資だったわ。一生かけても返しきれないほどの額なんだから、これからは私のためにきっちり働いて回収させてもらうわよ」
私の強気な言葉を聞いたグウィンは、呆れたように一度深くため息をついた。
しかし次の瞬間、彼の口から飛び出したのは怒声ではなく、これまで聞いたこともないほど穏やかで、深く響く笑い声だった。
ひとしきり肩を揺らして笑い終えた彼は、降参だと言うように両手を軽く挙げてみせた。
「ったく、しゃーねーな。俺の完全な負けだ。一生かけて、お前のその莫大な投資のツケを払わせてもらうよ」
食後の穏やかな時間が、ダイニングを優しく包み込んでいた。
シチューの温かな香りと、窓から差し込む春の柔らかな陽射し。
血生臭い戦場こそが自分の生きる場所だと思っていたこの不器用な男は、今や完全に武装を解き、静かに目を細めてこの時間を味わっている。
きっと彼も気づいたはずだ。
自分が本当に帰るべき場所は、凍てつく雪山でもなく、剣の交わる戦地でもなく、この温かなシチューの匂いがする場所なのだと。
私もまた、空になった皿を見つめながら静かに喜びを噛み締めていた。
どれほど莫大な金貨を積まれようと、絶対に手放すことのない、世界で一番価値のある投資先を見つけられた幸運を。
愛など不要という、冷たい言葉から始まった私たちの政略結婚。
けれど、互いの知略と武力を惜しみなく注ぎ込み、いつの間にか無自覚な溺愛へと変わっていたこの関係は、今や誰よりも強い絆で結ばれていることを証明している。
「……これからも、きっちり稼いでいただきますからね、私の将軍様」
「ああ、覚悟しているさ。俺の商会主殿」
温かな春の陽射しの中、不器用で無敵な夫婦の穏やかな笑い声が、幸せな大団円を告げるようにいつまでも響き渡っていた。











