第17話
王都の屋敷の執務室に、私は気象を研究する学者たちと、実家が懇意にしていた腕利きの職人たちを急遽招集した。
彼らの前に広げたのは、北方の詳細な地図と、あの渓谷で使った船用の強化絹の切れ端だ。
大石橋を渡った際に用いた気球の技術をさらに小型化し、無人で飛ばして北方の砦へ物資を投下する。
私の口から語られた前代未聞の空挺補給作戦に、集まった男たちは一様に目を白黒させた。
「奥様、いくらなんでも無茶です!」
気球職人の一人がたまらず声を荒げる。
「無人の気球を風任せで飛ばすなど、成功率が低すぎます。少しでも風向きが変われば、貴重な物資が雪山に散らばるか、最悪の場合は敵陣に落ちて塩を送るようなものですよ!」
学者たちも深く頷き、自然の風を完全にコントロールすることなど不可能だと猛反対を始めた。
しかし、私は彼らの反論を静かに聞き流し、ドンと分厚い書類の束を机に置いた。
「これは過去数十年にわたる、王都から北方へ向けて吹く偏西風の詳細な気象データよ」
私は商談用の計算盤を滑らせ、気象データを元に弾き出したばかりの数字の羅列を彼らの前に突きつけた。
「商人はね、運や風任せで投資をしたりしないの」
「風の強さ、気温による浮力の変化、気球の重量。すべての変数をこの計算式に当てはめれば、どこで燃料を尽きさせれば砦の真上に落下するか、ピンポイントで導き出せるわ」
私の数字に対する絶対的な自信と、一切の隙もない計算結果を前に、学者も職人も返す言葉を失い押し黙る。
「さあ、反論がないならすぐに作業に取り掛かってちょうだい。私の投資先が凍りつく前に、あの空に道を作るのよ」
◇ ◇ ◇
王都では、その日から不眠不休の作業が始まった。
アンナは職人たちを指揮し、気球に乗せる物資の極限までの軽量化とパッケージングを急ピッチで進めている。
空挺補給を成功させる鍵は、気球の浮力と荷物の重量の完璧なバランス、そして何より落下させるタイミングだ。
一定の時間が経過した瞬間に燃焼が止まり、砦の真上で気球が降下を始めるように、私は特殊な時限装置の調整に没頭していた。
少しの誤差が命取りになる。私は商人の緻密な計算能力の全てを、この小さな装置の歯車に注ぎ込んでいた。
◇ ◇ ◇
一方、北方の雪山砦は限界の時を迎えようとしていた。
ついに備蓄庫の食糧と燃料が完全に底をつき、暖を取ることすらできなくなった砦内に、重く冷たい死の気配が立ち込めている。
クラウスたち守備隊の気力と体力は限界に達し、寒さに震えながらうずくまる者が後を絶たない。
砦を包囲する敵軍は、あえて総攻撃を仕掛けてこなかった。吹雪の中で無駄な血を流すよりも、砦の中の兵士たちが凍え死ぬのを待つ方が確実だと悟っているのだ。
誰もが声を発することすらできなくなる中、グウィンもまた口数を減らしていた。
彼は凍てつく監視塔の上に立ち、厳しい表情でただひたすらに、猛吹雪の空を見上げ続けている。
◇ ◇ ◇
気球の打ち上げを決行する夜が訪れた。
王都の郊外に設営された発射場には、強化絹で作られた無数の気球が並べられ、今か今かと空へ飛び立つ時を待っている。
私が計算した通り、北へ向かう偏西風の強さと向きは完璧な状態に仕上がっていた。
「一番機、テスト飛行として放ちます!」
職人の合図とともに、空の気球がふわりと夜空へ舞い上がる。
しかし、順調に高度を上げていた気球が上空の気流に乗ろうとしたその瞬間だった。
ゴォォォッという不気味な唸り声とともに、予期せぬ強烈な突風が吹き荒れた。
風に激しく煽られた一番機は、あっという間にバランスを崩し、私たちの目の前で無残にも森の奥へと墜落してしまったのだ。
「駄目だ、上空の気流が荒れすぎている!」
「自然の気まぐれには勝てません、奥様!今夜の作戦は延期すべきです。このまま本番を決行すれば、物資はすべて雪山の彼方に消えてしまいます!」
職人たちが青ざめた顔で作戦の中止を訴えかける。
けれど、雪山のあの男に明日を待つ余裕などないことは、私が一番よくわかっていた。
「延期なんて認めないわ」
私は燃え盛る篝火の前に陣取り、すぐさま気象データと手元の計算盤を睨み直した。
「風は気まぐれなんかじゃない。商取引の相場と同じで、一見不規則に見えるものにも必ず法則があるはずよ」
商人の研ぎ澄まされた直感と、数字への異常なまでの執念を融合させ、私は突風が吹く間隔と乱気流の周期を猛烈な勢いで計算していく。
パチパチと弾かれる計算盤の音が、吹き荒れる風の音を切り裂いて響き渡る。
「……見えたわ」
風のわずかな変化の法則を完全に捉えた私は、気球の発射角度と時限装置の燃焼タイミングの再計算を、その場ですべて完了させた。
修正された完璧な計算に基づき、私は職人たちへ力強く発射の号令を下した。
「今よ、撃ち放ちなさい!」
私の声に合わせて、次々と夜空へ放たれる無数の気球たち。
再計算された発射角度とタイミングは、上空で荒れ狂う乱気流の隙間を見事に縫い、気球たちを強烈な偏西風の真っ只中へと乗せた。
気球の下に灯された時限装置の炎が、真っ暗な夜空で星屑のような小さな光の帯となり、一直線に北方の空へと吸い込まれていく。
必ず届くわ。
私は空を見上げ、あの不器用な仕事バカの頭上に私の投資が舞い降りることをただひたすらに祈った。
◇ ◇ ◇
そして、数日後。
食糧も燃料も尽き、完全なる死の静寂に包まれようとしていた北方の雪山砦。
冷え切った身体を丸め、砦の壁際で静かに死を覚悟し始めていた守備隊長クラウスは、薄れゆく意識の中で猛吹雪の空を見上げていた。
……幻覚だろうか。
分厚い灰色の雲と雪に覆われた空の向こうから、無数の不思議な丸い影が、ゆっくりとこちらへ向かって降下してくるのが見えた。











