第三話『焦げた匂い』
# 第三話『焦げた匂い』
小屋を出たとき、みことは思わず深く息を吸った。
外の空気は冷たかった。
林の中は相変わらず静かだったが、小屋の中よりはましだった。あの場所には何かがある。まだ言葉にできない何かが。
みことは無意識に振り返る。
小屋はそこにあった。
古びた木造の建物。
窓は閉ざされている。
何も変わらない。
だが。
なぜかさっきより遠く感じた。
「なんだったんですか、あれ」
ゆいが隣に並ぶ。
「分からない」
「みことさん、そればっかりですね」
少しだけ不満そうな声だった。
みことは苦笑する。
「だって本当に分からないし」
「でも何か知ってる感じでした」
「そんな顔してた?」
「してました」
ゆいは即答した。
その言い方がおかしくて、みことは少しだけ笑う。
気づけば自然に話していた。
不思議だった。
何度も死んでいる。
何度も繰り返している。
それなのに、ゆいと話していると少しだけ普通に戻れる気がした。
神代は少し前を歩いている。
三回目の男は苛立ったように枝を蹴飛ばしていた。
そのとき。
「ねえ」
ゆいが小さな声で言う。
「みことさん」
「ん?」
「本当に五回目ですか?」
みことは足を止めた。
思わずゆいを見る。
ゆいは真剣な顔をしていた。
「どうしてそう思うの」
「なんとなく」
少し考えてから続ける。
「五回目って感じがしないんです」
「どういう意味?」
「もっと多そう」
みことは笑う。
「それはないよ」
そう答えながら。
ほんの少しだけ不安になった。
本当に五回目だろうか。
もちろん五回目だ。
覚えている。
一回目も。
二回目も。
三回目も。
四回目も。
全部。
だが。
そのはずなのに。
思い出せない時間がある気がした。
夢を見たあとのような感覚。
何かが欠けている。
そんな違和感。
「神代さんは?」
ゆいが前を歩く男を見る。
「本当に七回目なんですかね」
その瞬間。
神代が振り返った。
聞こえていたらしい。
「どう思う」
逆に聞いてくる。
ゆいは少し困った顔をした。
「分かりません」
「それでいい」
神代はそれだけ言った。
そして再び前を向く。
ゆいが小さく呟く。
「絶対変な人ですよね」
「うん」
「怪しいですよね」
「うん」
「信用してます?」
みことは少し考える。
そして答えた。
「してない」
ゆいが頷く。
「私も」
だが。
本当は少し違った。
信用していない。
それは本当だ。
でも。
敵だとも思えない。
神代はいつも何かを知っている。
そして何かを隠している。
そのことだけは確かだった。
林を抜ける。
そこで初めて異変に気づいた。
道路があった。
来たときにはなかったはずの。
アスファルトの道。
真っ直ぐ伸びている。
「こんなのあったか?」
三回目の男が立ち止まる。
神代も眉をひそめる。
「ない」
短い返答。
みことの背筋に冷たいものが走る。
まただ。
何かが変わっている。
毎回少しずつ。
だが確実に。
「どうする」
三回目の男が聞く。
「進む」
神代は即答した。
「戻っても意味がない」
みこともそう思った。
この世界はいつもそうだ。
立ち止まっても何も変わらない。
だから進むしかない。
四人は道を歩き始める。
十分ほど歩いた頃だった。
匂いがした。
みことは足を止める。
焦げ臭い。
鼻の奥を刺激する匂い。
小屋の中で感じたものと同じ。
いや。
もっと強い。
もっと鮮明。
頭が痛くなる。
視界が揺れる。
炎。
熱。
煙。
誰かの悲鳴。
断片的な映像が脳裏をよぎる。
「みことさん!」
ゆいの声。
気づくと膝をついていた。
「大丈夫!?」
「……うん」
大丈夫じゃなかった。
心臓が激しく脈打っている。
息が苦しい。
怖い。
何かを思い出しかけている。
でも思い出したくない。
そんな矛盾した感情が渦巻いていた。
「焦げた匂い……」
みことは呟く。
神代の表情が変わる。
本当にわずかに。
だが確実に。
「何を思い出した」
「分からない」
「嘘だな」
みことは顔を上げる。
神代は真っ直ぐこちらを見ていた。
「少し思い出した」
その言葉に。
みことは初めて気づく。
神代は知っている。
何かを。
自分たちよりずっと多く。
「神代」
みことは立ち上がる。
「何を知ってるの」
沈黙。
風が吹く。
木々が揺れる。
だが神代は答えない。
「教えて」
「無理だ」
「なんで」
「言葉にならない」
神代は苦しそうだった。
初めて見る表情だった。
「思い出したことは、人に説明できない」
「そんなの」
「本当だ」
その声は静かだった。
そして。
どこか悲しかった。
みことは反論できなくなる。
なぜなら。
自分にも覚えがあった。
焦げた匂い。
炎。
悲鳴。
何かを思い出した。
確かに。
でも。
説明しようとすると消えてしまう。
まるで夢みたいに。
「……なんなんだよ、この世界」
三回目の男が吐き捨てる。
誰も答えない。
答えを知らないから。
そのときだった。
道路の先に人影が見えた。
みことは目を細める。
一人の男。
黒い服。
こちらを見ている。
動かない。
ただ立っている。
遠いのに。
なぜか顔が見えた気がした。
笑っている。
感情のない笑顔。
ぞくりとする。
「……神代」
みことが呟く。
神代はすでに気づいていた。
表情が硬い。
「見るな」
低い声。
「黒だ」
ゆいが首を傾げる。
「黒?」
誰も説明しない。
できない。
ただ。
みことだけは理解した。
あれは普通じゃない。
あの男は。
自分たちと同じなのに。
決定的に違う。
次の瞬間。
黒は消えた。
そこにいたはずなのに。
いなくなっていた。
まるで最初から存在しなかったみたいに。
静寂だけが残る。
そして。
みことの胸の奥には。
言いようのない不安が残った。
あれはきっと。
また会う。
そんな気がした。




