第二話『小屋』
# 第二話『小屋』
林の中は静かだった。
風は吹いているはずなのに、木々の葉が擦れる音がしない。鳥の鳴き声もない。バスが走り去る音だけが遠ざかり、それが消えると、世界から音そのものが抜け落ちたような感覚が残った。
みことは無意識に振り返る。
大型バスはすでに見えなくなっていた。
いつもそうだった。
停留所で降りる。
林へ入る。
そしてバスは消える。
まるで最初から存在しなかったかのように。
「……ここ、どこなんですか」
ゆいが小声で聞いた。
不安を隠せていない声だった。
「分からない」
みことは正直に答える。
「分からないって」
「本当に分からない」
説明しようとしても、説明できることがほとんどなかった。
なぜバスに戻るのか。
なぜ死ぬのか。
なぜ小屋があるのか。
何も知らない。
知っているのは、自分が何度もここへ来たという事実だけだった。
先を歩く神代が立ち止まる。
その視線の先には小屋があった。
近くで見ると、想像以上に古い。
外壁はひび割れ、木材は黒ずんでいる。窓は板で打ち付けられ、内部は見えない。
誰かが住んでいるようには見えなかった。
「入る」
神代が言う。
それだけだった。
三回目の男が舌打ちする。
「毎回思うけどよ。こんなの絶対ヤバいだろ」
「だから来てる」
神代は振り返らない。
「ここで何かが起きる」
「何が起きるんだよ」
「それが分かれば苦労しない」
男は顔をしかめる。
みことも同じ気持ちだった。
毎回ここへ来る。
毎回死ぬ。
なのに何も分からない。
ただ。
今回は少しだけ違った。
ゆいがいる。
それだけで空気が違う。
「本当に入るんですか……?」
ゆいがみことの服の袖を掴む。
その仕草が子供みたいで、みことは少しだけ笑った。
「怖い?」
「怖いです」
「私も」
「全然そう見えません」
「慣れただけ」
その言葉を口にした瞬間、自分でも少し嫌な気持ちになった。
慣れる。
死ぬことに。
恐怖に。
絶望に。
そんなものに慣れてしまっていいのだろうか。
神代が扉に手をかける。
ぎぃ、と軋む音。
暗い内部が姿を現した。
みことの心臓が大きく脈打つ。
この感覚を知っている。
何度も経験している。
なのに思い出せない。
そこが気持ち悪かった。
中へ入る。
床が小さく軋む。
部屋は思ったより広かった。
家具はほとんどない。
古びた棚。
壊れた椅子。
埃の積もった机。
それだけ。
誰かが生活していた痕跡はあるのに、人の気配はない。
みことは部屋を見回す。
何かある。
そんな気がした。
毎回そう思う。
だが見つからない。
「……なんか変ですね」
ゆいが呟く。
「何が」
「匂いです」
みことは鼻を動かす。
確かに木の匂いはする。
埃の匂いも。
だが、それだけではない。
どこか懐かしい匂い。
知っている匂い。
けれど思い出せない。
「焦げ臭い?」
ゆいが言った。
その瞬間。
みことの頭に鋭い痛みが走った。
焦げ臭い。
その言葉に反応した。
何かが引っかかった。
炎。
熱。
煙。
何かが浮かびかける。
だが。
掴む前に消える。
「……みことさん?」
「え?」
「顔色悪いです」
みことは慌てて首を振る。
「大丈夫」
本当は大丈夫じゃなかった。
焦げ臭い。
その言葉が妙に残る。
まるで。
死ぬ直前に嗅いだ匂いみたいに。
そのときだった。
神代が壁際でしゃがみ込む。
「見つけた」
全員の視線が集まる。
神代の前には古びた写真立てがあった。
ガラスは割れ、写真は色褪せている。
だが人物だけは分かった。
若い女性。
笑っている。
どこかで見た気がした。
「誰だ」
三回目の男が聞く。
「知らない」
神代は答える。
「でも毎回ある」
「毎回?」
「位置は違うが、必ずある」
みことは写真を見つめる。
知らない。
なのに。
胸がざわつく。
見覚えがある。
気がする。
「……誰なんだろ」
ゆいが呟く。
そのとき。
部屋の奥で何かが光った。
みことだけが気づいた。
反射的に視線を向ける。
棚の奥。
埃の積もった壁。
そこに小さな鏡が埋め込まれていた。
心臓が止まりそうになる。
鏡。
なぜか分からない。
だが。
見てはいけない。
そんな感覚が全身を駆け抜ける。
目を逸らそうとする。
なのに。
視線が離れない。
鏡の中の自分が映っている。
疲れた顔。
青白い肌。
少し怯えた目。
そこまでは普通だった。
だが。
鏡の中のみことが。
一拍遅れて瞬きをした。
全身の血が冷える。
呼吸が止まる。
今。
遅れた。
確かに。
遅れた。
「みことさん?」
ゆいの声で我に返る。
慌てて鏡から目を逸らす。
「どうしたんですか?」
「なんでもない」
声が震えていた。
神代がこちらを見る。
その目がわずかに細くなる。
何かに気づいたような。
そんな目だった。
だが何も言わない。
代わりに写真立てを見つめながら呟く。
「思い出すな」
独り言みたいな声だった。
「何を」
三回目の男が聞く。
神代はしばらく黙る。
そして。
「自分が誰だったかを」
そう言った。
その言葉だけが妙に重く部屋に残った。
みことはもう一度だけ鏡を見る。
今度は普通だった。
何も起きない。
ただ。
なぜか確信する。
あの鏡は。
また現れる。
そして次に見たとき。
もっと大事な何かを失う気がした。




