第五話『九回目の朝、それでも選ぶ』
痛みはなかった。むしろ、妙に静かだった。押し潰される感覚も、呼吸が止まる恐怖も、どこか遠くの出来事のようにぼやけている。ただ、終わるという事実だけが先にあって、その過程が抜け落ちている。死の直前に至るまでの記憶はあるのに、決定的な瞬間だけが欠けている。その欠落が、みことにとってはむしろ異様だった。自分がどうやって終わったのかを知らないまま、ただ結果だけを繰り返している。
目を開ける。
揺れ。エンジン音。青い座席。
戻っている。
確認する必要もないほど、身体が理解している。
九回目。
その数字を口にしたとき、ほんのわずかに感情が遅れてついてくる。驚きも恐怖もあるはずなのに、それらは一拍遅れて、すぐに整理されて消えていく。代わりに残るのは、状況を把握しようとする冷静さだった。
視線を巡らせる。乗客は同じ。配置も同じ。だが、細部は違う。女子高生の笑い方が少しだけ違う。サラリーマンの指の動きが一瞬遅い。そういう“微細なズレ”が、今の自分にははっきり見える。
そして、もう一つ。
自分の中にもズレがある。
前回まで感じていたはずの“躊躇い”が、薄くなっている。
「おい、今何回目だ」
前方で声が上がる。
「九回目」
即答する。迷いはない。
「……九回目か」
神代が小さく呟く。彼は今回も七回目を名乗った。回数は一致しない。それでも、この男は常に“状況を理解している側”にいる。
「前回、押された」
みことは言った。
一瞬、空気が止まる。
「誰に」
「分からない。でも、確実に押された」
言葉にすると、曖昧だった感覚が少しだけ輪郭を持つ。あのとき、背中にかかった力。自分の意思ではない方向に身体が動いた瞬間。
「……接触が条件か」
神代が低く呟く。
「何が」
「死因の移動だ」
その言葉に、みことの心臓がわずかに跳ねる。
「押し付ける、ってこと?」
「おそらくな。直接的な行動は制限されているが、結果だけを移すことはできる」
その説明は不完全だった。だが、感覚としては理解できる。
殺すことはできない。
だが、死ぬ“原因”だけは渡せる。
「じゃあ……わざとやればいいのか」
三回目の男が言う。
その言葉に、みことは反射的にゆいを見る。後方の席。変わらない表情。不安そうに周囲を見ている。
胸がわずかに痛む。
だが、前のような強い感情ではない。
それよりも先に、別の思考が浮かぶ。
――どうすれば、生き残れるか。
「簡単じゃない」
神代が言う。
「意図が必要だ。偶然じゃ成立しない」
「じゃあ逆に言えば、意図すればできるんだな」
「できる可能性がある、だ」
その曖昧さが、この世界の本質だった。
確定はしない。
だが、確実に近づくことはできる。
バスが減速する。
停留所。
林。
小屋。
みことは、ゆいを見る。
助けるか。
使うか。
その二択が、あまりにも自然に浮かぶ。
そして、自分がその選択を“考えていること”に気づく。
以前なら、迷っていたはずだ。
今は、違う。
「……来て」
声をかける。
ゆいが顔を上げる。
「え……?」
「大丈夫。今回は、ちゃんと分かってるから」
嘘ではない。
だが、全部でもない。
バスを降りる。
林へ向かう。
小屋に入る。
足元に注意する。
全員が中に入る。
静かだ。
何も起きない。
ここまでは、想定通り。
「今回はどう来る」
みことは呟く。
そのとき、壁がわずかに軋む。
横。
圧迫。
挟まれる。
直感的に理解する。
――潰れる。
「外に――」
言いかけた瞬間、みことは動かなかった。
一瞬の停止。
視線が、ゆいに向く。
距離は近い。
手を伸ばせば届く。
接触。
条件。
意図。
すべてが、頭の中で繋がる。
時間が遅くなる。
ゆいがこちらを見る。
何も知らない目。
信じている目。
その瞬間。
みことは、手を伸ばした。
掴む。
強く。
引き寄せる。
そして。
押す。
位置を、入れ替える。
「……っ」
声にならない声。
次の瞬間、壁が迫る。
鈍い音。
圧力。
骨が軋む音。
ゆいの身体が、潰れる。
みことは、その外側にいた。
無傷だった。
静寂が落ちる。
誰も動かない。
時間が止まったように感じる。
みことは、自分の手を見る。
震えていない。
呼吸も乱れていない。
ただ、事実だけがそこにある。
――生きている。
「……成功か」
神代の声が低く響く。
みことは顔を上げる。
「今、やったのは」
「分かってる」
言葉を遮る。
説明されるまでもない。
理解している。
「条件は三つだ」
神代が言う。
「接触、意図、同一状況」
その言葉が、ゆっくりと頭に入ってくる。
「同じ死因の中にいる必要がある。だから、範囲から外れたら成立しない」
「……じゃあ、さっきは」
「お前が“内側”で、相手を“外側”に押し出した」
みことはゆいを見る。
潰れた身体。
動かない。
理解が遅れてくる。
やった。
自分が。
自分の意思で。
殺した。
胸の奥が、わずかに軋む。
だが。
それは、思っていたほど大きくはなかった。
代わりに浮かぶのは。
――できる。
という確信だった。
「……次も使える」
自分の口から、その言葉が出た。
神代がわずかに目を細める。
「そうだな」
短く答える。
その視線は、どこか測るようだった。
みことはもう一度、ゆいを見る。
感情がないわけではない。
ただ。
優先順位が変わっただけだ。
生きることが、最優先になった。
そのとき。
壁に埋め込まれた鏡が、視界に入る。
そこに映る自分。
血のついていない顔。
整った呼吸。
そして。
わずかに、口角が上がっていた。
自分が、笑っている。
気づいた瞬間、ぞくりとする。
違う。
これは。
前と同じ。
“鏡の中”が先に笑っている。
現実の自分は、まだ笑っていない。
遅れて、表情が動く。
その瞬間、確信する。
――近づいている。
境界に。
人間でなくなる側へ。
みことは、ゆっくりと息を吐いた。
胸の奥の感情は、もうはっきりしていた。
恐怖ではない。
後悔でもない。
ただ。
進むしかない、という理解だった。
――まだ、戻れない。




