第六話『十回目の朝、もう戻れない』
音がなかった。潰れる感覚も、痛みも、悲鳴も、すべてが一瞬で切り離されていた。ただ、結果だけがあった。自分が生き残り、別の誰かが死んだという事実。その過程が、やはり曖昧なまま抜け落ちている。記憶はあるのに、決定的な瞬間だけが記録されていない。まるで、そこだけ“見てはいけないもの”として削除されているようだった。
目を開ける。
揺れ。エンジン音。青い座席。
戻る。
確認。
呼吸。
思考。
順番に、すべてが再起動していく。
「……十回目」
声に感情はほとんど乗らなかった。数字が増えたことへの驚きも、恐怖も、もう表面には出てこない。それよりも先に、状況を把握する意識が動く。
視線を巡らせる。乗客。配置。ズレ。
ある。
明確に、ある。
女子高生が笑っていない。サラリーマンがスマートフォンを見ていない。子どもが泣いていない。
“日常の演技”が、崩れている。
「おい、今何回目だ」
前方で声が上がる。
「十回目」
即答する。
数人が振り向く。その中に、これまでとは明らかに違う“視線”が混ざっていた。
理解している、ではない。
見ている。
観察している。
評価している。
「……十か」
神代が呟く。
「八回目だ」
回数がさらにズレている。だが、問題はそこではなかった。
みことは、ある人物に気づく。
後方の席。
窓際。
知らない顔。
だが、違和感が強い。
その人物は、こちらを見ていた。
瞬きが少ない。
呼吸のリズムがない。
ただ、見ている。
「……あれ」
みことは小さく呟く。
神代の視線が動く。
そして、一瞬だけ固まる。
「見るな」
低い声。
しかし、遅い。
目が合う。
その瞬間。
“理解される”。
言葉ではない。
感覚。
自分の中身を覗かれたような、強烈な違和感。
その人物の口が、わずかに動く。
笑っている。
だが、それは“人間の笑い方”ではない。
筋肉の動きとしての笑い。
意味のない、形だけの笑い。
「……黒だ」
神代が言う。
その一言で、空気が変わる。
「鏡を二回以上見たやつだ。もう人間じゃない」
説明は短い。
だが、十分だった。
みことは視線を逸らす。
見てはいけない。
関わってはいけない。
直感がそう告げている。
「何をするんだ」
三回目の男が言う。
「分からない。ただ、ループの中で“別の役割”を持っている」
神代の言葉は慎重だった。
「敵か味方かも分からない」
みことは息を整える。
黒。
人間ではない存在。
ルールの外側にいる可能性。
その情報が、静かに積み重なる。
バスが減速する。
停留所。
林。
小屋。
いつもと同じ流れ。
だが、今回は違う。
黒がいる。
その事実だけで、すべての前提が崩れる。
「……降りる」
神代が言う。
「同じだ。分岐はここしかない」
みことは立ち上がる。
後方を見る。
ゆいはいない。
代わりに、あの黒がいる。
視線が合う。
逸らす。
だが、分かる。
追ってくる。
バスを降りる。
林へ向かう。
小屋に入る。
足元に注意する。
全員が中に入る。
静かだ。
異様なほど。
何も起きない。
「……来ない」
三回目の男が呟く。
その瞬間。
背後で、扉が閉まる。
音がない。
気づいたときには、閉まっていた。
振り向く。
そこに、黒がいた。
いつの間にか、入口の前に立っている。
誰も、その動きを見ていない。
「……なんだよ、お前」
三回目の男が後ずさる。
黒は、何も答えない。
ただ、みことを見る。
その視線が、ゆっくりと下がる。
手。
みことの手を見る。
そして、わずかに首を傾ける。
理解している。
押し付けたことを。
その瞬間、みことは確信する。
――この存在は、全部知っている。
「……何をするつもりだ」
神代が言う。
黒は答えない。
代わりに、一歩前に出る。
距離が縮まる。
みことの身体が固まる。
逃げる。
動けない。
その瞬間。
黒の手が、みことに触れる。
軽く。
本当に軽く。
それだけ。
だが。
その瞬間、理解する。
死因が、移った。
意図がない。
選択もない。
ただ、触れただけで。
「……っ」
息が詰まる。
ルールが違う。
この存在は、制限を受けていない。
「……逃げろ!」
神代の声。
同時に、天井が軋む。
崩れる。
落ちる。
みことは動けない。
押し付ける。
間に合わない。
接触。
距離。
足りない。
その瞬間、黒が微笑む。
そして、わずかに後ろへ下がる。
範囲の外へ出る。
みことだけが、内側に残る。
理解が追いつく。
押し付けられない。
対象がいない。
逃げられない。
潰れる。
その直前。
みことは思う。
――これが、本来の形。
意識が落ちる。
目を開ける。
揺れ。
エンジン音。
青い座席。
みことは、しばらく何も動かなかった。
呼吸だけをする。
生きている。
戻っている。
確認する。
「……十一回目」
声は静かだった。
そして、ゆっくりと理解する。
押し付けは、万能じゃない。
黒は、別のルールで動く。
この世界には、まだ見えていない構造がある。
そして。
自分は、そこに近づいている。
鏡を、見た回数。
押し付けた回数。
回数。
積み重なっている。
みことは、ミラーを見ないようにしながら、ゆっくりと息を吐く。
だが、分かっている。
もう一度見れば。
次がある。
そして、その先にあるのは。
――黒。




