第四話『八回目の朝、まだ壊れきれない』
冷たいものが喉を通る感覚があった。水ではない。もっと粘ついた、重たい何か。呼吸をしようとしても空気が入ってこない。肺が潰れているのか、それとも塞がれているのか分からない。ただ、身体の内側からじわじわと終わりに近づいていく感覚だけが、やけに鮮明に残っていた。けれど、やはりその“最後の瞬間”だけが曖昧だった。どこで、何が決定的だったのかが、どうしても思い出せない。
目を開ける。
揺れ。エンジン音。青い座席。
戻った、という実感はもう確認作業に近い。驚きはない。代わりに、胸の奥に鈍く沈む感情がある。それが何なのかを言葉にする前に、みことは小さく息を吐いた。
八回目だ。
数字が増えるたびに、自分の中の何かが薄くなっていく気がする。焦りや恐怖はあるはずなのに、それが長く続かない。すぐに整理されて、次の行動を考えようとする思考に押し流される。
視線を巡らせる。配置は同じ。ズレは、まだ見えない。
だが、今回はひとつだけ違う点がある。
分かっていることが、増えた。
小屋は危険。衝撃だけが条件ではない。死因は移る。そして――選択には必ず代償がある。
前方で椅子が軋む。
「おい、今何回目だ」
同じ声。同じ問い。
「八回目」
即答する。迷いはない。
「……八回目か」
神代が小さく繰り返す。前回と同じ位置、同じ姿勢。だが、その目はわずかにこちらを観察している。
「七回目だ。神代」
数字がズレている。
みことは一瞬だけ思考を止める。
「回数、違うんだね」
「固定じゃないと言ったはずだ」
淡々とした返答。その言葉の意味が、前回よりもはっきり理解できる。
この世界は、完全な再現ではない。
だからこそ、攻略も完全にはできない。
「三回目だ。今回はどうする」
通路の男が言う。回数が少ない者ほど、決断を急ぐ。余裕がないからだ。
みことは答えない。
代わりに、ミラーを見る。
見ない方がいいと分かっている。
それでも、見てしまう。
そこに映る自分の顔は、やはりわずかに遅れている。そして、ほんの一瞬だけ。
笑った。
自分が、ではない。
“映っている方”が。
ぞくりと背筋が粟立つ。
「……見るな」
神代の声が低く落ちる。
「見たな」
否定できない。
「鏡は段階がある。一度見ると、次がある」
「次ってなに」
「まだ分からない」
その言い方は、嘘ではないが、すべてでもない。みことはそう感じた。
バスが減速する。
停留所。
林。
小屋。
みことはゆいを見る。後方の席。不安そうな顔。前回と同じ。
違うのは、自分の感情だけだ。
助けたい気持ちはある。
だが、それと同じくらい。
――利用できる。
という考えが、自然に浮かんでいる。
みことは目を閉じる。
違う。
まだ違う。
そう思おうとするが、完全には否定できない。
「……一緒に来て」
声をかける。
ゆいが顔を上げる。
「え……」
「今回は、ちゃんと気をつける」
自分でも、何を根拠に言っているのか分からない。それでも、言葉は自然に出た。
バスを降りる。
林へ向かう。
小屋に入る。
足元に注意する。
衝撃は与えない。
全員が中に入る。
扉は閉まらない。
ここまでは、前回と同じ。
みことは呼吸を整える。
次は何が来る。
何が条件になる。
それを考える。
「……静かすぎるな」
三回目の男が呟く。
その瞬間。
天井が、わずかに軋む。
上を見る。
木材が歪んでいる。
ひびが入っている。
遅れて、理解が追いつく。
――潰れる。
「外に出て!」
みことは叫んでいた。
全員が動く。
扉へ向かう。
開いている。
出られる。
はずだった。
そのとき、足元で何かが絡む。
みことの足が止まる。
一瞬の遅れ。
その瞬間、背後から強い力がかかる。
押される。
前へ。
倒れる。
視界が揺れる。
上から、音。
崩れる。
誰かの悲鳴。
木材が落ちる。
潰れる。
息ができない。
重い。
暗い。
その中で、みことは理解する。
――押された。
さっきと同じ。
今度は、自分が。
誰に。
分からない。
だが、ひとつだけはっきりしている。
死因は、移る。
押し付けられる。
意識が沈む。
その直前。
視界の端に、鏡が見えた。
そこに映る自分は。
笑っていた。
目を開ける。
揺れ。
エンジン音。
青い座席。
みことは、しばらく何も考えなかった。
ただ、呼吸をする。
生きている。
戻っている。
それだけを確認する。
やがて、ゆっくりと口を開く。
「……九回目」
声は落ち着いていた。
自分でも驚くほど。
前方で椅子が軋む。
「おい、今何回目だ」
同じ問い。
同じ始まり。
みことは、ゆっくりと顔を上げる。
ミラーを見ないようにする。
だが、意識はそこに引き寄せられる。
そして、気づく。
もう一つ、分かったことがある。
この世界は。
選ばせているようで。
選ばせていない。
正解はない。
だが、不正解だけは確実に存在する。
そして、その不正解は。
誰かに押し付けることができる。
みことは、静かに息を吐く。
胸の奥の感情は、もうはっきりしていた。
罪悪感。
恐怖。
そして。
――覚悟に変わり始めている何か。
まだ壊れてはいない。
だが、確実に近づいている。
その境界に。
――黒に。




