第三話『七回目の朝、選び続ける』
焦げた匂いが、まだ鼻の奥に残っていた気がした。焼けるような熱と、潰れるような衝撃。そのどちらも確かに感じたはずなのに、やはり“最後”だけが曖昧だった。何がどうなって終わったのかを掴もうとすると、記憶は濁って崩れ、形を保てないまま沈んでいく。ただ、ひとつだけ確かなのは、自分がまた死んだという事実だった。
目を開ける。揺れ。エンジン音。青い座席。
――戻ってきた。
白瀬みことは、すぐに理解した。もう驚きはない。恐怖はあるが、それよりも先に“確認”の意識が働く。視線を巡らせる。前の席、右斜め前、通路の向こう。配置は同じ。ズレは、まだ分からない。
胸の奥に重たい感情が沈んでいる。原因は分かっている。林の先で見た光景。横転したバス。助けなかった少女。
――朝比奈ゆい。
名前だけがはっきり浮かぶ。顔も声も思い出せるのに、最期の瞬間だけが霧に覆われている。それでも、“自分が見捨てた”という感覚だけは消えない。
「……七回目」
小さく呟く。数字が増えていくたびに、自分が何か別のものに近づいているような感覚があった。削れていく。何かが確実に。
前方で椅子が軋む。
「おい、今何回目だ」
同じ問い。同じ始まり。だが、みことの中ではもう“合図”になっている。
「七回目」
迷いなく答える。数人の視線が集まる。
「七回目だ。神代」
斜め前の男も同じ回数を口にする。初めて数字が揃ったことに、みことはわずかな違和感を覚えた。
「……同じ?」
「たまたまだ」
神代は短く返すが、その視線は一瞬だけ鋭くなった。
「回数はズレることもある。固定じゃない」
その言葉に、みことの中で新しい疑問が生まれる。回数すら絶対ではない。つまり、この世界には“完全なルール”が存在しない可能性がある。
「三回目だ。で、今回はどう動く」
通路の男が言う。前回よりも余裕がない。焦燥が強くなっている。
みことは答えず、視線を運転席のミラーへ向けた。そこに映る車内は、現実と同じはずなのに、やはりどこか“遅れている”。ほんのわずかなズレ。だが、それが確実に存在している。
そのときだった。
鏡の中の自分と、目が合う。
一瞬、像が歪む。
自分のはずの顔が、別の表情をしているように見えた。
無表情。
いや、違う。
感情が“ない”。
ぞくりと背筋が粟立つ。
「……見たか」
神代の声が低く落ちる。
「今の」
みことは頷けなかった。けれど、否定もできない。
「鏡は見るな」
短く、はっきりと言い切る。
「見るとどうなるの」
「分からない。ただ、ろくなことにならない」
その言い方に、経験の重みが滲んでいた。説明できないが、確実に“何かが起きる”という確信。
バスが減速する。停留所が近づく。林の奥、小屋。
みことの中で、前回の選択が浮かび上がる。助けなかった。だから死んだ。だが、それが正解だったのかは分からない。
「……今回は」
言葉が出る前に、思考が止まる。
正解がない。
その前提を、もう理解してしまっている。
「どうする」
神代が問う。
みことは、後方を見る。そこに、ゆいがいる。前回と同じ場所、同じ表情。不安そうに周囲を見ている。
胸が痛む。
だが、同時に冷たい感覚もある。
――また同じことを繰り返すのか。
助ける。巻き込む。死ぬ。
見捨てる。別の形で死ぬ。
どちらも同じなら。
「……一緒に来て」
みことは立ち上がり、ゆいに手を伸ばした。
自分でも驚くほど自然に、その言葉が出た。
「え……?」
「いいから」
今度は、迷わなかった。
選ぶしかないなら、自分で選ぶ。
バスを降りる。林へ向かう。足元を意識する。衝撃を与えない。前回の知識をなぞるように、慎重に進む。
小屋に入る。
静かだ。
床は軋むが、問題ない。
全員が中に入る。
扉は、閉まらない。
沈黙が流れる。
「……回避できたな」
三回目の男が呟く。
その瞬間だった。
ゆいが、小さくよろめく。
「え……」
足元の板が、わずかに沈む。
ほとんど音はない。
けれど。
カチ、と何かが噛み合う音がした。
次の瞬間。
扉が閉じた。
「……は?」
空気が凍る。
みことの思考が止まる。
衝撃は与えていない。
慎重に動いた。
それなのに。
「条件が違う」
神代が呟く。
「一つじゃない」
理解が追いつかない。
ルールが変わる。
固定じゃない。
つまり。
覚えても、意味がない。
みことの中で、何かが崩れる。
そのとき、ゆいが震えながら言う。
「……さっき、押された気がする」
空気が止まる。
「誰に」
神代が問う。
ゆいはゆっくりと顔を上げる。
その視線の先。
みことだった。
「え……」
思考が凍る。
そんなはずはない。
触れていない。
何もしていない。
だが、ゆいの目は揺れていない。
確信している。
その瞬間、みことの中に“違和感”が生まれる。
記憶にない感覚。
誰かに触れたような、微かな感触。
そして、理解する。
――死因は、移る。
理由は分からない。
だが、確信だけがある。
みことは、何かを“押し付けた”。
無意識に。
息が詰まる。
ゆいが泣き出す。
「やだ……やだよ……」
みことは動けない。
自分が何をしたのか、分からない。
でも。
確実に。
何かを壊した。
神代が静かに言う。
「……そういうことか」
その声は、納得に近かった。
「選択は、奪えない。ただし、押し付けることはできる」
その言葉が、ゆっくりとみことの中に沈んでいく。
この世界のルールが、少しだけ形を持つ。
助かる方法はある。
だが、それは。
誰かを犠牲にすることと、同じだった。
みことは、ゆいを見る。
震える身体。
涙で濡れた目。
助けを求めているのに、もう届かない距離。
胸の奥で、何かが静かに壊れる。
――戻れない。
その感覚だけが、はっきりと残った。




