第二話『六回目の朝、まだ選べる』
息を吸った瞬間、肺に空気が流れ込んできた。その当たり前の感覚に、白瀬みことは一瞬だけ混乱する。さっきまで、呼吸ができなかったはずだった。喉は焼けるように乾き、身体は動かず、視界は暗く閉じていったはずなのに、その“死の直前”だけがぼやけている。苦しかったことは分かるのに、どこでどう終わったのかが、どうしても掴めない。
目を開ける。揺れている。エンジン音、振動、青い座席。
――戻った。
考えるより先に理解する。心臓が大きく脈打つ。けれど前回のような混乱はない。代わりに、はっきりとした“確信”がある。
六回目だ。
みことはゆっくりと周囲を見渡した。前の席の女子高生、右斜め前のサラリーマン、子どもを抱く母親。すべて同じ配置。同じ動き。同じ時間。だが、前回と決定的に違う点がひとつだけある。
――知っている。
このあと何が起きるのかを、断片的にでも理解している。
喉の奥がひくりと動く。視線を横に向けると、やはり同じ男が座っていた。名前は思い出せない。けれど、“関わったことがある”という感覚だけが残っている。
「……六回目か」
小さく呟く。すると、その声に反応したように、前方で椅子が軋んだ。
「おい、今何回目だ」
同じ男。同じ声。同じ問いかけ。だが今回は、驚きはなかった。むしろ、その言葉が来ることを待っていた自分がいる。
「六回目」
みことは迷わず答える。数人の視線が集まる。その中に、やはり“分かっている側”の目が混ざっていた。
「七回目だ。神代」
斜め前の男が淡々と名乗る。変わらない。まるで、この人物だけはループの影響を受けていないかのように、常に同じ位置にいる。
「……前も、いたよね」
思わず口に出る。
神代の視線が、わずかに動いた。
「当然だ。全員いる。ただし、同じとは限らない」
その言葉に、みことの背中が冷たくなる。
「同じじゃないって、どういう意味」
「微妙にズレる。言動、判断、選択。完全な再現じゃない」
それは、救いなのか、それとも絶望なのか。みことにはまだ判断できなかった。
「三回目だ。で、今回はどうする」
通路に立つ男が苛立ったように言う。前回と同じ人物。だが、どこか焦りが強い気がした。
みことは一瞬だけ目を閉じる。思い出す。いや、思い出そうとする。小屋。閉じ込められる。衝撃。ロック。
――衝撃を与えなければいい。
その言葉だけが、妙に鮮明に残っている。
「小屋、入る前に気をつけて」
みことは口を開いた。言葉にした瞬間、喉に違和感が走る。言ってはいけないことに触れたような、妙な引っかかり。それでも、完全に止められるわけではない。
「床に、衝撃……」
そこまで言ったところで、言葉が歪む。
「……気をつけた方がいい」
曖昧になる。核心が抜け落ちる。それでも、ニュアンスだけは残せた。
神代がわずかに目を細める。
「覚えてるのか」
「断片だけ。はっきりとは思い出せないけど……でも、まずいっていうのは分かる」
そのやり取りを、新人の少女が不安そうに見ていた。
「えっと……私、一回目なんですけど……」
朝比奈ゆい。名前が自然に浮かぶ。前回の記憶が、ぼんやりと重なる。
みことの胸が締め付けられる。
――この子は、ここで死ぬ。
その確信だけが、説明もなく存在している。
「……大丈夫」
思わず言ってしまう。同じ言葉。同じ響き。だが、今回は違う。
助けたい、という気持ちと同時に、別の感情が浮かぶ。
――関わらない方がいい。
理由は分からない。けれど、関わることで何かが悪化する感覚だけがある。
バスが減速する。停留所。林。その奥の小屋。
すべて同じだ。
「ここで降りる」
神代が立ち上がる。
「分岐だ」
みことは、ゆいの手を見た。前回は引いた。連れて行った。その結果は――
思い出せない。ただ、後悔だけが残っている。
「……どうする」
三回目の男が問う。
みことは答えない。代わりに、ゆいを見る。
不安そうに揺れる目。助けを求めるような視線。
胸が痛む。
でも。
「……私は降りる」
そう言って立ち上がる。だが、手は伸ばさない。
ゆいが一瞬、驚いたように目を見開く。
「え……」
その声を、みことは聞かないふりをした。
バスを降りる。外の空気は変わらない。だが、感覚だけが違う。すべてが“分かっている世界”に踏み込んだような、奇妙な現実感があった。
小屋へ向かう。今度は足元を意識する。一歩一歩、慎重に。
中に入る。床は軋むが、止まる。衝撃を与えないように、ゆっくりと体重を乗せる。
後ろから三回目の男が入ってくる。
「こんなもんで変わるのかよ」
「分からない。でも、やるしかない」
神代の声は変わらない。
みことは振り返る。
バスは、まだそこにある。
ドアが閉まりかけている。
その中に、ゆいがいた。
目が合う。
一瞬だけ。
その瞬間、胸の奥で何かが軋む。
――これでよかったのか。
答えは出ない。
ただ、前回とは違う選択をしたという事実だけが残る。
ドアが閉まる。
バスが去る。
小屋の中は、静かだった。
何も起きない。
扉も閉まらない。
沈黙が続く。
「……開いてるな」
三回目の男が呟く。
「条件は回避したみたいだ」
神代が言う。
みことは、その場に立ち尽くす。
助かった。
そう思った瞬間。
背後で、遠くから金属が軋むような音が響いた。
バスの方だ。
反射的に外を見る。
林の向こう、走り去るはずのバスが、ありえない角度で傾いていた。
次の瞬間。
轟音。
木々をなぎ倒しながら、バスが横転する。
遅れて、悲鳴のようなものが微かに届く。
みことの思考が止まる。
理解が追いつかない。
ただひとつ、はっきりしていることがある。
――ゆいが、乗っている。
胃の奥がひっくり返るような感覚が走る。
足が震える。
「……そういうことか」
神代の声が、やけに遠く聞こえる。
「ルートが変わるだけだ。回避じゃない」
みことは動けなかった。
助けなかった。
だから、こうなったのか。
それとも、最初から決まっていたのか。
分からない。
ただ、確実に理解する。
この世界には、“正解がない”。
何を選んでも、誰かが死ぬ。
そして、自分はそれを見て、また繰り返す。
胸の奥に、重たいものが沈んでいく。
それは罪悪感なのか、諦めなのか、それとも――
まだ、分からなかった。
ただひとつだけ、確かなことがある。
――まだ、終われない。




