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『五回目の朝、まだ死ねない』  作者: 柑橘みかん


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第一話『五回目の朝、まだ死ねない』

 潰されるような圧迫感が、胸の奥に残っていた。呼吸がうまくできず、肺が空気を拒むような感覚だけが妙に生々しく残っているのに、何に押し潰されたのかは思い出せない。ただ、苦しかった、という事実だけが、輪郭を持たずに沈んでいた。意識が浮上する直前、その記憶は砂のように崩れ、指の間から零れ落ちていく。


 次の瞬間、白瀬みことは目を開けた。低いエンジン音と、一定のリズムで身体を揺らす振動。視界に入るのは、見覚えのある青い座席の背もたれと、くすんだ金属の手すり。鼻の奥には、わずかに埃っぽい空気の匂いが残っている。


 ――また、ここ。


 思考より先に、確信だけが浮かんだ。心臓が一拍遅れて強く跳ねる。喉が渇く。だが、その理由を言葉にする前に、みことはゆっくりと顔を上げた。バスの車内が広がっている。運転席、吊り革、窓の外を流れる見慣れた街並み。すべてが“同じ”だった。昨日と同じ、ではない。同じというより、繰り返されている。


 みことは自分の手を見下ろした。指先がわずかに震えている。怖いからではない。知っているからだ。この状況を、この空気を、何度も経験しているからだ。


 前の席では女子高生が笑っている。右斜め前のサラリーマンはスマートフォンに目を落とし、苛立ったように舌打ちをした。通路の向こうでは、小さな子どもが母親の服を握りしめている。そのすべてが、寸分違わず同じ位置に存在している。


 視線を横に向ける。隣の席には男が座っていた。知らない顔のはずなのに、見覚えがあるような気がして、胸の奥がざわつく。何かが引っかかる。だが、それを掴もうとすると、途端に霧のように散っていく。


 思い出せない。


 けれど、分かる。


 みことは小さく息を吐いた。


 ――五回目だ。


 口に出した瞬間、その言葉が自分の中にぴたりと収まった。四回、死んでいる。その事実だけは揺るがないのに、どう死んだのかは思い出せない。そこだけが、不自然なほど綺麗に抜け落ちていた。


 前方で、椅子が軋む音がした。誰かが立ち上がる。視線を向けると、通路の中央に男が立っていた。落ち着きのない目で周囲を見回し、苛立ちを隠そうともしていない。


「……おい、今何回目だ」


 低く、しかしはっきりとした声が車内に落ちる。誰も反応しない。聞き間違いかと思うほど自然に紛れ込んだその言葉に、みことの心臓だけが過剰に反応する。


 男は舌打ちし、声を張り上げた。


「聞いてんだよ、何回目だって!」


 空気がわずかに歪む。日常の中に、明らかに異質なものが混ざり込んだ瞬間だった。


「……五回目」


 気づけば、みことの口が動いていた。止めようとしても止まらない。何度も繰り返してきた動作を、身体が覚えているように。


 数人が一斉にこちらを見る。その中に、明確に“理解している目”が混ざっていた。


「七回目だ。神代」


 斜め前の席に座る男が短く名乗る。整った顔立ちに、余計な感情が削ぎ落とされたような静けさを持っていた。


「白瀬、みこと……」


 自分の名前を告げる声が、妙に遠く聞こえる。


「三回目だ。話が通じるやつ、他にいるか」


 立っていた男が吐き捨てるように言うと、後方からか細い声が上がった。


「……二回目です」


「い、一回目、です……」


 その瞬間、見えない線が引かれた。理解している側と、理解できていない側。空気が明確に分断される。


「最低限の説明だけする。ここはループしてる。同じ朝、同じバスに戻る。死ぬとやり直しだ。ただし――死に方は言えない」


 神代の言葉は簡潔で、無駄がなかった。


「なんで? 教えてくれれば避けられるじゃ――」


「無理だ。言葉にできない」


 その断言に、反論は続かなかった。納得はできないのに、否定もできない妙な圧だけが残る。


 みことは視線をさまよわせる。胸の奥に引っかかる違和感が消えない。景色も会話も、ほとんど同じ。それなのに、何かが決定的に違う気がする。


 ふと、運転席のミラーに目が止まった。車内を映す小さな鏡。その像が、一瞬だけ遅れて見えた気がした。瞬きをすると、何事もなかったかのように元に戻る。


「……見た?」


 隣の男が小さく呟く。


「なにを」


「今の」


 それ以上は言わない。ただ、乾いた目でミラーを見ている。その視線に、理由の分からない恐怖が滲んでいた。


 バスが減速する。見覚えのある停留所が近づいてくる。名前は思い出せないのに、ここで何かが起きるという感覚だけが強く残っている。


「ここで降りる」


 神代が立ち上がる。


「理由は言えない。けど、ここは分岐だ」


 その一言で、空気が張り詰める。ドアが開く。外には、どこにでもありそうな風景が広がっていた。そして、その奥。林の中に、小さな小屋がぽつんと建っている。


 みことの心臓が強く脈打つ。知っている。だが、思い出せない。ただ、良くない場所だという確信だけがある。


「……大丈夫」


 みことは、震える少女の手を引いた。朝比奈ゆい。名前も、存在も、もう知っている気がする。


 小屋の中に足を踏み入れた瞬間、床がわずかに軋んだ。小さな音。それだけなのに、やけに耳に残る。


 ゆいの足元で石が転がる。しゃがんで拾おうとした、そのときだった。


 鈍い音が響く。


 扉が、閉じた。


「開かない……!」


 ドアはびくともしない。叩いても、引いても、反応がない。


「条件を満たした。衝撃でロックされる」


 神代の声は冷静だった。


「……私……?」


 ゆいの声が震える。否定できない。あの小さな動きが、引き金だった。


「餓死だな」


 その一言で、すべてが確定する。


 時間が流れる。空腹と渇きが、確実に身体を削っていく。ゆいは泣き続け、男は苛立ちをぶつけ、神代は目を閉じて動かない。


 みことは、ただ理解していた。


 ここで、死ぬ。


 そして、また繰り返す。


 壁の隙間に、小さな鏡があった。そこに映る自分の顔は、ひどくやつれている。その奥で、“自分ではない何か”がこちらを見ていた。


 視界が歪む。


 意識が落ちる。


 ――そして、また朝が来る。

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