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『五回目の朝、まだ死ねない』  作者: 柑橘みかん


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第十一話『最初の犠牲』

第十一話『最初の犠牲』


 小屋を出たあとも、みことの足取りは重かった。


 事故の日の記憶。


 血まみれの女性。


 「ゆいを」と言い残した声。


 それが頭の中で何度も繰り返される。


 だが不思議なことに、細部は思い出せない。


 顔がぼやけている。


 声だけが残っている。


 優しかったという感覚だけが。


 神代は何も聞かなかった。


 みことも何も話さなかった。


 ゆいだけが時折こちらを心配そうに見ていた。


 その視線が苦しい。


 何も知らない目。


 信じ切った目。


 みことは目を逸らした。


 事故現場を越えた先で、林が途切れた。


 初めて見る場所だった。


 開けた空間。


 ひび割れたアスファルト。


 中央には巨大な鉄骨の残骸が転がっている。


 何かの建築現場のようにも見えた。


「こんな場所、前にあったか」


 三回目の男が言う。


 神代は首を振る。


「ない」


 短い返答。


 全員の緊張が高まる。


 新しい場所。


 それはつまり、新しい死の可能性だった。


 みことは周囲を見回す。


 鉄骨。


 崩れかけた足場。


 錆びたワイヤー。


 どれも危険に見える。


 そして中央に一枚の看板が立っていた。


 白い看板。


 赤い文字。


 かすれている。


 読みにくい。


 それでも読めた。


 ――立入禁止


 その下には別の文字がある。


 ほとんど消えている。


 だが。


 みことはなぜか読めた。


 ――終点


 胸がざわつく。


「神代」


 呼ぶ。


 だが神代もその文字を見ていた。


 険しい顔だった。


「帰るぞ」


 珍しく即断だった。


「なんでだよ」


 三回目の男が反発する。


「ここまで来たのに」


「帰る」


 神代は繰り返す。


 その声には迷いがなかった。


 だが。


 その瞬間。


 金属が軋む音が響いた。


 全員が顔を上げる。


 鉄骨が揺れている。


 風ではない。


 何かが動かしたみたいに。


「まずい」


 神代が言う。


 次の瞬間。


 崩れた。


 轟音。


 大量の鉄骨が落ちてくる。


 逃げる。


 考えるより先に身体が動く。


 みことは走った。


 ゆいも走る。


 三回目の男も。


 だが。


 足場が崩れた。


 ゆいが転ぶ。


「っ!」


 みことは振り返る。


 鉄骨が迫る。


 時間がない。


 助ける。


 間に合わない。


 二人とも死ぬ。


 その瞬間。


 みことの頭の中に一つの考えが浮かぶ。


 あまりにも自然に。


 あまりにも冷静に。


 ――この子を置いていけば助かる。


 呼吸が止まる。


 自分で考えたのか。


 本当に。


 今。


 そんなことを。


 ゆいがこちらを見る。


 怯えた目。


 助けを求める目。


「みことちゃん!」


 その声で我に返る。


 みことは走る。


 ゆいへ向かって。


 手を伸ばす。


 掴む。


 引き上げる。


 二人で転がる。


 直後。


 鉄骨が落ちた。


 轟音。


 地面が揺れる。


 土煙。


 視界が白くなる。


 静寂。


 やがて煙が晴れる。


 みことは呼吸を整えながら身体を起こした。


 生きている。


 ゆいも生きている。


「大丈夫!?」


「うん……」


 ゆいは震えていた。


 泣きそうな顔だった。


 みことはその姿を見て安心する。


 安心して。


 そして気づく。


 さっき。


 一瞬だけ。


 本当に一瞬だけ。


 見捨てようと思った。


 助ける前に。


 まず助かる方法を考えた。


 以前なら違ったはずだ。


 考えるまでもなく飛び込んでいた。


 そうだったはずなのに。


「みこと」


 神代の声。


 振り向く。


 神代はまっすぐこちらを見ていた。


 全部見ていたのだろう。


 あの一瞬を。


「何」


 みことは答える。


 神代は少しだけ目を伏せた。


 そして。


「次はもっと早くなる」


 そう言った。


 意味が分からなかった。


 だが。


 分かってしまう。


 次は。


 見捨てるという選択肢が浮かぶまでの時間。


 そのことを言っている。


 みことの背筋が冷える。


「違う」


 反射的に否定する。


「私はそんなことしない」


 神代は何も言わない。


 その沈黙が何より苦しかった。


 みことはゆいを見る。


 ゆいはまだ震えている。


 何も知らない。


 自分がたった今、見捨てられかけたことを。


 もちろん実際には助けた。


 でも。


 問題はそこじゃない。


 その考えが浮かんだことだ。


 自然に。


 当たり前みたいに。


 その日の帰り道。


 みことはほとんど喋らなかった。


 神代も。


 三回目の男も。


 誰も喋らない。


 ただゆいだけが時々話しかけてくる。


「みことちゃん」


「なに」


「ありがとう」


 みことは顔を上げる。


「助けてくれて」


 笑っていた。


 心からの笑顔だった。


 みことの胸が痛む。


 助けた。


 確かに助けた。


 だけど。


 その前に何を考えた?


 本当に優しい人間なら。


 あんな考えは浮かばない。


 バスへ戻る頃には。


 みことの心には事故の記憶よりも。


 もっと恐ろしいものが残っていた。


 自分自身への疑念だった。

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