第十二話『慣れ』
第十二話『慣れ』
次の朝。
みことは目を覚ました瞬間、自分が何を考えたかを思い出した。
鉄骨。
転んだゆい。
見捨てるという選択。
胸が重くなる。
だが、その重さも昨日より少しだけ軽かった。
それに気づいてしまう。
それが怖かった。
以前なら一日中引きずっていたはずだ。
眠れないほど苦しんだはずだ。
なのに今は。
思い出しても呼吸は乱れない。
涙も出ない。
ただ嫌な気分になるだけだ。
みことは顔を覆った。
「最悪……」
自分が変わり始めている。
その事実だけははっきり分かった。
「おはよう!」
隣から声がする。
ゆいだった。
いつも通り。
何も知らない笑顔。
みことは反射的に笑い返す。
そして気づく。
それも少しだけ楽だった。
罪悪感が薄れている。
昨日より。
確実に。
「どうしたの?」
ゆいが首を傾げる。
「いや」
みことは目を逸らした。
「なんでもない」
嘘だった。
全部ある。
言えないだけで。
神代は前方の席に座っていた。
窓の外を見ている。
みことは立ち上がる。
今日は聞かなければならない。
「神代」
呼ぶ。
神代が振り返る。
「なんだ」
「昨日のこと」
神代は黙る。
みことは続けた。
「私が考えたこと」
「そうか」
それだけだった。
驚きもしない。
慰めもしない。
まるで予想していたみたいに。
「そうかじゃない」
みことは声を強める。
「なんで平気なの」
「平気じゃない」
「見えない」
神代は少しだけ笑った。
疲れた笑いだった。
「そう見えるなら、お前はまだ大丈夫だ」
みことは言葉に詰まる。
その返答が妙に引っかかった。
「まだ?」
「まだだ」
神代は窓の外を見る。
「お前はまだ怖がってる」
静かな声だった。
「自分が変わることを」
みことは何も言えない。
その通りだった。
「怖くなくなった時が終わりだ」
その言葉だけが胸に残った。
停留所。
林。
小屋。
繰り返される景色。
だが今日は違った。
小屋へ向かう途中で、三回目の男が立ち止まった。
「おい」
声が震えている。
全員が振り向く。
男は木の幹を見ていた。
そこには文字が刻まれていた。
深く。
鋭く。
刃物で削ったように。
――たすけて
みことの背筋が冷える。
昨日まではなかった。
少なくとも見ていない。
「誰が書いた」
男が言う。
誰も答えない。
答えられない。
その文字は妙だった。
新しくも古くも見える。
まるでずっと前からあったようにも。
今さっき刻まれたようにも見える。
「行くぞ」
神代が言う。
男は不満そうだったが従った。
小屋へ近づく。
扉は閉まっている。
昨日は開いていた。
まるで何もなかったみたいに。
「気味悪いな」
男が呟く。
誰も否定しない。
その時。
ゆいが足を止めた。
「どうした」
みことが聞く。
ゆいは一点を見ている。
小屋の横。
窓。
板で塞がれているはずの場所。
「誰かいる」
全員が見る。
何もいない。
「ゆい」
「いた」
ゆいは確信していた。
「女の人」
みことの心臓が跳ねる。
女性。
事故の日に見た。
血まみれの。
あの女性。
「どんな人」
神代が聞く。
ゆいは少し考える。
「優しそうだった」
その答えを聞いた瞬間。
神代の表情が固まった。
ほんの一瞬だけ。
だが確実に。
小屋の中は静かだった。
だが何かが違う。
みことはすぐに気づいた。
鏡が増えている。
前は一つだった。
今は二つ。
棚の奥。
壁際。
離れた場所に。
どちらも小さい。
どちらも古い。
どちらも自分を映している。
「見るな」
神代が言う。
誰に向けた言葉か分からない。
だが全員が理解した。
鏡のことだ。
三回目の男は顔をしかめる。
「なんなんだよ」
「見るな」
神代は繰り返す。
男は舌打ちした。
「理由くらい言え」
神代は答えない。
その時だった。
男が鏡を見る。
本当に一瞬。
一秒もない。
ただ視線が触れただけ。
だが。
男の顔色が変わる。
「……は?」
誰も動かない。
男は鏡を見つめている。
呼吸が浅い。
「おい」
みことが声をかける。
反応がない。
「おい!」
肩を掴む。
男が振り返る。
その顔を見て。
みことは凍りついた。
男は泣いていた。
涙を流していた。
だが表情は無だった。
悲しんでいない。
苦しんでいない。
何も感じていない顔で。
涙だけ流していた。
「なんだよ」
男が呟く。
自分でも分かっていないような声。
「なんで泣いてるんだ」
神代が目を閉じる。
まるで見たくなかったものを見るように。
男は震える手で頬を触る。
「分からない」
涙は止まらない。
「思い出せない」
みことの背筋を冷たいものが這い上がる。
男は何かを見た。
何かを思い出した。
そして。
何かを失った。
それが分かった。
神代の言葉が蘇る。
思い出し方を間違えると壊れる。
みことは鏡を見る。
そこには自分が映っている。
普通の顔。
疲れた顔。
だけど。
鏡の中の自分は。
どこかで笑っていた。
まるで。
この先に起きることを知っているみたいに。




