第八話『忘れたかったもの』
# 第八話『忘れたかったもの』
その夜――いや、夜という概念がこの世界にあるのかは分からないが、少なくともみことの感覚ではそう呼びたくなる時間だった。
事故現場を見つけたあとから、頭痛が消えなかった。
焦げた匂い。
ひしゃげたガードレール。
炎。
泣いているゆい。
そして黒の言葉。
――思い出すな。
神代は思い出せと言う。
黒は思い出すなと言う。
どちらも真剣だった。
だから余計に分からなくなる。
何が正しいのか。
何が間違っているのか。
みことはバスの窓に額を預けた。
冷たいガラスが少し気持ちいい。
隣ではゆいが眠っている。
小さく身体を丸めて。
安心したような顔で。
その寝顔を見ていると、不思議と胸が苦しくなった。
守りたい。
そう思う。
でも。
なぜそこまで思うのか分からない。
まだ出会って間もないはずなのに。
そのとき。
「眠れないか」
前方から声がした。
神代だった。
みことは顔を上げる。
車内には乗客がいる。
だが誰もこちらを見ていない。
まるで背景みたいに。
「神代」
「来い」
それだけ言う。
みことは少し迷った。
だが立ち上がる。
ゆいを起こさないように。
静かに。
神代の隣へ座る。
しばらく沈黙が続いた。
バスのエンジン音だけが響く。
「聞きたいことがあるんだろ」
神代が言う。
みことは思わず笑った。
「全部」
「そうだろうな」
「教えて」
神代は窓の外を見る。
流れる景色。
終わらない道路。
変わらない朝。
「俺にも分からないことは多い」
「でも私より知ってる」
「そうだな」
あっさり認めた。
みことは少し驚く。
もっと誤魔化されると思っていた。
「じゃあ一つだけ」
神代が言う。
「何」
「お前は何を思い出した」
みことは言葉に詰まる。
思い出したこと。
炎。
悲鳴。
事故。
それだけじゃない。
もっと大事なものがある気がする。
「……ゆい」
神代がこちらを見る。
「ゆいが泣いてた」
沈黙。
「助けようとしてた」
さらに沈黙。
神代は何も言わない。
だが。
その沈黙だけで十分だった。
間違っていない。
そう感じる。
「やっぱり」
みことは小さく呟く。
「ゆいは特別なんだ」
神代は目を閉じた。
そして珍しく。
疲れたように息を吐いた。
「そうだ」
みことの心臓が大きく鳴る。
初めて。
はっきり肯定した。
「何者なの」
「分からない」
「またそれ」
「本当に分からない」
神代は苦笑した。
初めて見る表情だった。
「ただ」
一度言葉を切る。
「毎回いる」
みことは固まる。
「……毎回?」
「ああ」
神代は頷く。
「どのループでも」
バスの中。
停留所。
小屋。
必ず。
「朝比奈ゆいはいる」
寒気が走る。
ゆいは新人じゃない。
そうかもしれないと思っていた。
でも。
実際に聞くと重みが違う。
「じゃあ覚えてないだけ?」
「たぶんな」
神代は窓の外を見る。
「でもおかしい」
みことが言う。
「何が」
「私は五回目」
「そうだな」
「神代は……」
言葉を止める。
回数を聞く意味はない。
神代は答えないから。
だが。
今は違う。
「神代は何十回も繰り返してる」
「たぶん」
「なのにゆいだけ毎回新人なの?」
神代は黙った。
それが答えだった。
異常なのだ。
ゆいだけが。
そのとき。
みことの頭に一つの考えが浮かぶ。
「もしかして」
神代を見る。
「ゆいが中心なの?」
空気が止まる。
本当に。
一瞬だけ。
神代の表情が変わった。
みことは見逃さなかった。
「……図星?」
神代は答えない。
だが。
否定もしない。
みことの胸がざわつく。
ゆいが中心。
この世界の。
このループの。
もしそうなら。
なぜ。
なぜ彼女なのか。
そのときだった。
車内の照明が一瞬だけ明滅した。
みことは反射的に振り返る。
後方座席。
そこに。
黒がいた。
いつからいたのか分からない。
静かに座っている。
こちらを見ている。
そして。
初めて。
みことへ向かって微笑んだ。
悲しい笑顔だった。
神代も気づく。
立ち上がる。
「やめろ」
低い声。
黒は答えない。
ただ。
みことだけを見ている。
そして。
ゆっくりと口を開いた。
「思い出した先に何があると思う」
静かな声だった。
不思議と耳によく届く。
みことは答えられない。
黒は続ける。
「救いか」
沈黙。
「それとも後悔か」
神代が前へ出る。
「黙れ」
黒は笑う。
優しく。
どこか寂しそうに。
「お前も知っているだろう」
その言葉に。
神代の顔が強張る。
みことは初めて気づいた。
神代は黒を恐れている。
敵だからじゃない。
違う。
もっと別の理由で。
まるで。
未来の自分を見るように。
黒はゆっくり立ち上がる。
そして最後に。
みことへ言った。
「思い出せ」
神代が目を見開く。
みことも固まる。
黒はずっと。
思い出すなと言っていたはずだった。
なのに。
今は違う。
「全部」
黒は言う。
「全部思い出せ」
その声には。
初めて感情があった。
後悔だった。
深い。
取り返しのつかないほどの。
後悔。
次の瞬間。
黒の姿は消えた。
まるで最初からいなかったように。
車内には静寂だけが残る。
みことは動けない。
胸の奥がざわつく。
神代を見る。
神代は窓の外を見ていた。
その横顔は。
ひどく苦しそうだった。
そしてみことは理解する。
黒は敵じゃない。
神代も敵じゃない。
みんな。
同じものを失った人間なんだ。
ただ。
失った量が違うだけで。




