第七話『優しい人』
# 第七話『優しい人』
神代が焦った。
その事実は、みことの頭からなかなか離れなかった。
今まで何を見ても動じなかった男だ。
無人のバスも。
黒も。
繰り返される死も。
全部知っているような顔をしていた。
そんな神代が。
鏡の話になった途端、初めて取り乱した。
それが何より不気味だった。
小屋を出たあとも、みことは何度も振り返る。
あの鏡はもう見えない。
だが。
見られている気がした。
ずっと。
背中に視線を感じる。
「みことさん」
隣から声がする。
ゆいだった。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫に見える?」
「全然」
即答だった。
思わず笑ってしまう。
ゆいも少し笑う。
それだけで緊張が少し和らいだ。
不思議な子だと思う。
何も知らないはずなのに。
近くにいるだけで安心する。
神代と三回目の男は少し前を歩いていた。
二人とも何か話している。
聞こえない。
だから自然とみこととゆいだけが後ろに残った。
「ねえ」
ゆいが言う。
「ん?」
「私たちって、前に会ったことあります?」
みことの足が止まる。
胸が大きく鳴った。
「どうして?」
「分かんないです」
ゆいは困ったように笑う。
「でも初めて会った気がしなくて」
みことは返事ができない。
それは自分も同じだった。
初めて会ったはずなのに。
どこか懐かしい。
どこか知っている。
そんな感覚。
「変ですよね」
ゆいが言う。
「ううん」
みことは首を振る。
「私も思ってた」
ゆいが目を丸くする。
「本当ですか」
「本当」
少しだけ嬉しそうな顔をした。
その表情を見ていると。
胸が痛くなる。
理由は分からない。
でも。
なぜか失いたくないと思った。
そのとき。
風が吹く。
強い風だった。
ゆいの髪が揺れる。
前髪が乱れる。
「わっ」
慌てて押さえる姿が少し子供っぽくて。
みことは思わず笑った。
「何ですか!」
「ごめん」
「今笑いましたよね」
「笑った」
「ひどい」
頬を膨らませる。
その仕草がおかしくて。
また笑う。
久しぶりだった。
こんなふうに笑ったのは。
何回も繰り返して。
何回も死んで。
知らないうちに。
笑うことすら減っていた気がする。
「みことさんって」
ゆいが言う。
「優しいですよね」
みことは固まる。
なぜか。
その言葉が胸に刺さった。
「そんなことないよ」
「あります」
ゆいは即答する。
「だって私のこと放っておかなかったじゃないですか」
「それは……」
「普通なら無視しますよ」
みことは言葉に詰まる。
そうだろうか。
自分なら。
本当に無視できただろうか。
いや。
できない。
きっと。
何回繰り返しても。
できない。
「みことさんは優しい人です」
ゆいは笑った。
まっすぐな笑顔だった。
嘘も打算もない。
だからこそ苦しかった。
みことは視線を逸らす。
自分はそんな人間じゃない。
少なくとも今は。
そう思った。
そのときだった。
前方から大きな音がした。
振り返る。
神代が立ち止まっている。
三回目の男も。
二人とも道路の先を見ていた。
「どうしたの」
みことが近づく。
神代は答えない。
ただ前を指差した。
そこには。
ガードレールがあった。
ひしゃげている。
大きく。
何かがぶつかったみたいに。
みことの呼吸が止まる。
その光景を。
知っている気がした。
頭痛が走る。
視界が揺れる。
炎。
煙。
悲鳴。
ガラスの割れる音。
誰かが叫んでいる。
――逃げて。
声が聞こえる。
女の人の声。
知らない。
知らないはずなのに。
知っている。
「みこと!」
神代の声。
我に返る。
膝をついていた。
息が苦しい。
「またか」
三回目の男が顔をしかめる。
神代はガードレールを見ていた。
険しい顔だった。
「近いな」
小さく呟く。
「何が」
みことが聞く。
神代は少し迷った。
そして。
「事故現場だ」
初めて言った。
はっきりと。
その言葉を。
みことの全身が凍る。
事故。
その単語だけで。
頭の奥が痛む。
「……事故?」
ゆいが不安そうに聞く。
神代は頷く。
「たぶん」
短い沈黙。
風が吹く。
木々が揺れる。
誰も喋らない。
みことはガードレールを見つめる。
曲がった鉄。
削れた地面。
焦げ跡。
その全てが。
自分の知らない記憶を刺激していた。
そのとき。
ふと気配を感じる。
反対側。
道路の向こう。
誰かが立っている。
黒だった。
また。
何も言わずに。
こちらを見ている。
そして。
ゆっくりと。
みことへ視線を向けた。
その顔に。
初めて感情らしきものが浮かぶ。
悲しそうな顔だった。
本当に一瞬だけ。
だが確かに。
そして。
黒は口を動かした。
声は聞こえない。
距離が遠いから。
だが。
みことにはなぜか分かった。
何と言ったのか。
――思い出すな。
次の瞬間。
黒の姿は消えていた。
みことはその場に立ち尽くす。
胸の奥で何かが大きく鳴っていた。
思い出すな。
神代は思い出せと言う。
黒は思い出すなと言う。
どちらが正しいのか分からない。
ただ一つだけ。
確かなことがあった。
真実は。
もうすぐそこまで来ている。




