三猿 その4 由衣の同級生
三日後、捜査本部は細川彰人殺害事件の容疑者として、風間智也・二十ハ歳・さいたま市桜区在住・職業不詳を逮捕した。
捜査本部は、細川氏に接点のある人物として、現職・元社員を含めた会社関係者の洗い出しをした。その過程で、一年半前に懲戒解雇された風間が浮上していた。
風間は無断で原材料を他社へ転売していたことが発覚し、懲戒解雇になった。その不正を告発したのが当時の上司・細川氏だった。
任意の事情聴取に対し、風間は関与を全面否定した。決定的証拠に欠け、任意で指紋とDNAを採取した上で、解放していた。
事件現場で捕獲した狸から採取した毛髪のDNA鑑定が実施された。結果、毛髪のDNAと風間のDNAが一致した。解雇後ホストをしていたとき、茶髪に染めていた髪の毛が一本、抜け落ちたのである。
風間は細川氏の殺害を認めた。
「原材料を横流ししていたのは、同僚だった池谷と上司の細川だ。安く仕入れて差額を抜けると、販売先の社員まで巻き込んでいた。自分が池谷の不正を暴いて細川に報告したら、奴は、販売先の社員にも口裏を合わせ、罪を着せられた」
以上が、風間が供述した殺害動機で、舌を切り取った理由は、以下である。
「最後に相応しい姿にしてやった。嘘で人を陥れた」
懲戒解雇後、風間は定職に就けず、アルバイトで食い繋いでいた。さらに同僚だった恋人が自殺した。落ち込んでいるところを細川に付け込まれ、弄ばれたとの噂が流れていた。
積み重なった屈辱と絶望は、やがて怨恨へと変り、日々付け狙う。
事件当夜、酔い覚ましに自宅付近を散歩していた細川に、風間は背後から鉄パイプで襲い掛かって殺害した。
風間は、川谷氏と牧本氏の殺害については否認した。両名との接点は確認できず、動機も見い出せない。裏付ける物証も存在しない。結果、風間は細川彰人殺害についてのみ送致された。
川谷氏の事件では、鑑識が捕獲した狸を徹底的に調べた。事件から二週間近く経っていたが、有力な物証と情報が得られた。
一つは、口内の歯に絡まった繊維片。ヒトDNAは検出されず、量産品の靴下の繊維だったため、被疑者の特定には至らなかった。
もう一つは、背中の皮膚と体毛から検出された尿の痕跡だった。周囲には泥や柿の皮、植物片が付着しているのに、一定範囲だけが異様に綺麗だった。液体を浴びた可能性が高く、科捜研が分析したところ、腎臓由来の糖タンパク質であるウロモジュリンに加え、微量の尿糖とケトン体が検出された。液体は人の尿で、しかも糖尿病患者の可能性が高いと判明した。
さらに、狸の脚を診断した獣医師から、次の見解が得られた。
「脚は強い外力による骨折と軟部組織損傷。人に蹴られた可能性が高く、負傷した時期はおおむね二週間前」
以上から、糖尿病の疑いがある人物が狸に小便をかけ、足首を噛まれたため蹴飛ばし、脚を負傷させた――との推測が成り立った。
これを受け、可能な限りの捜査員を投入した。しかし、動物咬傷や、それに伴う感染症と診断された患者は、さいたま市内の病院では見つからなかった。川越市、上尾市、蓮田市など周辺地域も同様だった。
同時に、川谷氏周辺の人物から糖尿病患者を洗い出したが、被疑者は一向に浮上しなかった。
一方、牧本氏の事件では、依然として被疑者に結びつく有力な証拠や目撃情報は得られていない。回収されたシューカバーからは繊維片と土壌が検出されたが、決定打には至らなかった。
繊維は大量生産の男性用スニーカーに由来する一般的なもの。土壌についても、警察庁科学警察研究所の分析の結果、関東南部に広く分布する関東ローム層と判明し、地域の特定には結びつかなかった。
風間の逮捕により、同一犯による猟奇的連続殺人という当初の見立ては覆された。風間には細川を殺害する明確な動機があった。しかし、川谷氏と牧本氏に対しては、接点すら見い出せない。”見ざる言わざる聞かざるの三猿”をなぞった遺体の損壊という大きな謎が残ったまま、捜査は暗礁に乗り上げた。
二日後の金曜日、由衣と大樹は、康太・眞見夫妻に夕食へ招かれた。
食後のコーヒーを一口含んだ由衣が、ニッと白い歯をこぼした。
「お兄ちゃん。連続殺人事件、同一犯じゃなかったんでしょ。残り二件、捜査が難航してるんじゃない?」
「お前、相変わらず勘がいいな。そうだよ」
「だって困ったとき、お兄ちゃん、たいてい大樹を呼ぶじゃん」
康太は、「クッ」っとバツが悪そうに苦笑した。
「で、どうなの?」
「川谷氏の事件だが、怪我をしたタヌキから歯にからまった靴下の繊維片が見つかった。噛んだのは足首で、チンコじゃなかった……イテッ!」
眞美が素早く康太の脇腹をつねる。由衣と同様、あからさまな言葉は大嫌いなようである。
「糖尿病患者の線は?」
「川谷氏周辺の糖尿病患者から被疑者は浮かび上がらん。市内と周辺地域の病院に、動物咬傷や感染症と診断された者はいない。県内、さらに関東まで範囲を広げるつもりだ」
眞美が口を挟む。
「局所感染なら解熱剤で抑え、数日で自然治癒することはある。パスツレラ敗血症のような重症例なら救急搬送されるでしょ。でも糖尿病でも、気にしない人、自覚していない人はいる。特に若い人なら」
「確かにな……」
康太は軽く舌打ちした。
「大樹、何かない?」
由衣に肩をつつかれ、一言も喋らず目を閉じていた大樹が、薄目を開けた。
「んー? ……でも、”タヌキは足首を噛んだ後、オチンチンも狙ったので蹴飛ばされた”とも考えられます」
周回遅れの反論である。大樹は半分寝ていた。
「はあぁぁー……」
由衣はため息を吐き、眞美は「クスッ」っと洩らす。
「大樹君、この件は興味が薄れたみたいね」
実際、大樹の関心は、すでに一連の事件の核心に向いている。鍵は、由衣のフェイク動画にあると考えていた。
大樹の様子を目にした康太は、ふいに思い至る。
(”自説にこだわる”、”羞恥心が薄い”、”興味本位で動く”、こいつは、そういう人間……。そうだ! 原点に戻ろう)
そして、こぶしを握る。
「”見て見ぬ振りをする”、”見たいものしか見ない”。目玉をえぐられた川谷は、そういう人間。ここから強い恨みを持つ人物を洗う。必ず浮かび上がる!」
そしてついに、言い切った。
「糖尿病、タヌキの咬傷、新たな手掛かりも得た。何としても逃さんぞ!」
由衣と眞美は顔を見合わせ、ちょいと肩をすくめた。
「最初からそうしなよ。大樹ばっかり当てにしないで」
「そうね。プロファイラーなんだし」
翌日、大樹の自宅アパート。由衣は例によって、からかっているのか本気なのか判然としない距離感で、大樹に身体を寄せていた。
「ねえ、ここんとこしてないよね」
「なにを?」
「これ」
由衣はわざとらしく唇を尖らせる。
「先月の十八日、午後六時七分にしました。まだ一月経っていません」
「月一って誰が決めたの?」
「月一回で十分……痛っ!」
由衣は、さっと大樹は頬をつねる。
「十分とか言うな」
「日本人は統計的に……」
由衣は「プッ」っと吹き出し、身体を離した。
「大樹、なんか用があるって顔してるね」
「はい」
「なに?」
「あの、ここ二年くらいで撮った、由衣の知り合いの写真を見せてくれますか?」
「なんで?」
「興味があります」
「ふーん……」
「ちょっと待ってね」
由衣は眉をひそめつつもスマートフォンを取り出す。両肘をテーブルに付き、目の前で指を動かす。瞳が左右に揺れ、大樹はハッと息を飲んだ。
由衣の瞳に映った画像が次の瞬間には消えていた。それはこの夏、女装させられた自分の写真だった。
(やっぱり持ってた。今、消したんだ。絶対バックアップしている)
(しかし今は、こっちをやりたい。後で追及しよう)
と大樹は結論に至る。だがそれは、甚だ甘い考えだった。
「変なことに使わないでよ」
「用途は限定されています」
「その言い方、怪しい」
由衣は、ぶつぶつ言いながらロックを解除してスマートフォンを差し出す。
大樹は受け取ると、無言で画面を滑らせた。指の動きは一定で、速度も変わらない。旅行、食事、学校行事、何気ない日常。写り込む人物の顔を一枚一枚、なぞるように見ていく。
「ちょっと、早くない? ちゃんと見てる?」
「見ています」
由衣が覗き込もうとすると、大樹は画面の角度を変えた。
「集中しています」
「ケチ」
由衣は口を尖らせた。
五、六分過ぎ、画面のスクロールが止まった。
「この人は誰ですか?」
大樹が指し示したのは、数人が並んだ集合写真の一角だった。
由衣は、画面を覗き込んだ。
「ああ、千佳よ。これ一昨年の同窓会」
「会ってみたいです」
「なんで?」
「確認したいことがあります」
「何を?……ま、いっか。ちょうどいいし」
「なにがですか?」
「大学受験失敗して、ちょっと心配してたの。元気ならそれでいいし」
由衣はスマートフォンを取り返し、千佳を呼び出す。
四、五分、笑いを挟み、楽しそうに言葉を交わした後、由衣は通話を切った。
「明日、午後二時、カフェアプロ」
「助かります」
「で、確認したいことって?」
「そのときに分かります」
「もったいぶらないで」
「情報は段階的に開示します」
呆れた顔をみせるも、由衣はどこか楽しげだった。
コーヒーを入れながら、由衣はふと思い至る。
「大樹、変なこと考えてないでしょうね」
「”変”の定義によります」
「もういい」
即座に切り捨て、由衣は天井を仰いだ。
その横で、大樹は無表情で、先ほど見た千佳の写真を頭の中で再構成していた。
塩谷千佳は、由衣の中学生時代の同級生である。二人は一年と三年のとき同じクラスで仲が良かった。
席に着いて由衣と千佳は互いの近況を話し、由衣は大樹を彼氏として紹介した。由衣が心配するまでもなく、千佳は至って元気だった。
両親に勉強に集中したいと頼み、さいたま市大宮区の親兄弟と一緒に住んでいる家を出て、浦和区の祖父母宅に移り、予備校に通っているとのこと。
「へえ、環境変えたんだ。偉いじゃん」
「うん、ただ家だと甘えちゃうから」
笑う千佳の口元を大樹の視線が追う。右の口角が、ほんの一瞬遅れて上がっていた。
由衣は、千佳のロングワンピースに目を留めた。
「ねえ、そのワンピ、すごく似合ってるけど、千佳はそういう派手なの着てたっけ?」
澄んだ目を向ける大樹にチラッと視線を返し、千佳は少々顔を赤くした。
「……彼の好み」
その返答に、由衣が身を乗り出す。
「ちょっと、聞いてないんだけど!」
「言ってないもん」
「どういう人?」
「早慶大法学部の三年、自分で言うのもなんだけど、細マッチョのイケメン」
「へーっ! いつ知り合ったの?」
「高二のとき。怖い感じの男が二人、ニヤニヤしながら近づいて来たとき、突然、現れて助けてくれたの」
「場所は?」
「駅の近く」
「なんだー! ちっともそんな様子見せなかったじゃない。けど、劇的な出会いね」
「それがね。その前から近くにいたような気がするの」
大樹が出し抜けに割り込んだ。
「彼氏さんは、千佳さんを陰ながら守っていたのですね」
千佳は笑みをこぼして高い声で応じた。
「きっと、そうですね」
大樹は軽く頷き、質問を続けた。
「彼氏さんを誰かに紹介したことはありますか?」
「いいえ……、今のところは」
「彼氏さんの手を握ったとき、乾いてましたか? 湿っぽかったですか?」
千佳は思い出すかのように目線を上に向けた。
「どうだったかしら? ……気にしたこと無いです」
「彼氏はどんな匂いがしますか?」
「覚えてないです」
次々と質問する大樹の脇腹を、由衣はつつく。しかし、大樹は気にも留めない。
「千佳さんが彼氏さんと会うのはどういう場所が多いですか? あと、どんな感じで別れますか?」
「駅、カフェ、繁華街、路地とか、怖い顔の男の人が多くいる場所、というか、そういうところに行くときは、必ず来てくれます。別れるときは辛くて覚えてないです」
由衣が大樹の太ももをつねったが、大樹は止めない。
「彼氏さんには、お姉さんか妹さん、あるいは親しい女性はいますか? もちろん彼女ではなくて」
「彼には、あたしと同じ歳の妹がいます」
「その妹さんは、どんな人ですか?」
「お喋りで、積極的で、何かと首を突っ込んでくる元気な子です」
何度も頷く大樹を、由衣は半ば呆れ顔で睨んだ。
そして、千佳に顔を向ける。
「ごめんね。変な質問ばかりで。彼、変わってるけど、決して悪気はないの」
「いいえ、彼氏のこといろいろ聞かれて、あたし、今まであんまり気にしてなかったって思い知らされた。これからは、もっと気配りしなきゃ」
由衣は埋め合わせするように、話題を軽い世間話へと振った。予備校の講師の癖だとか、祖父母の家の食事がやたら豪華だとか、取り留めのない話を次々と持ち出す。二人は声を上げて笑い合った。
「今日はありがと。またね」
屈託のない笑みを残し、千佳は店を出ていく。その背中を、由衣は手を振りながら見送った。
ガラス扉が閉まり、姿が完全に見えなくなったとき、由衣の表情が切り替わる。
ゆっくりと大樹へ向き直るその顔には、先ほどまでの柔らかさはない。
「どういうつもり?」
「千佳さんは、由衣のフェイク動画の元になった女性です」
「えーっ! ウソー!」
思わず声が上ずる。周囲の客が一瞬こちらを見たが、由衣は気にする余裕もない。
「ちょっと待って、何それ……どうして分かるの?」
「顔の特徴が一致しています。加工されてますが、骨格と表情の癖が残っています」
「それで“元”って分かったの?」
「はい。……だけど、投稿したのは千佳さんではないと思います」
「なんで千佳じゃないの?」
「今は、断定できません。脳神経内科の武藤教授に千佳さんのこと話したら、はっきりするはずです」
「……わかった。ここで議論しても仕方ないね」




