三猿 その1 フェイク動画
十一月、大安吉日の日曜日、由衣の長兄、高見沢康太が結婚した。
相手は、高見沢眞美、旧姓;今岡、二十七歳、埼玉県庁保健衛生部に勤める獣医師である。職業柄の落ち着きと、芯の通った優しさを併せ持つ容姿端麗な女性だ。
二人の始まりは、ありふれているようで、どこか運命めいている。高校に進学し、電車通学を始めて間もない頃。康太は大宮駅から乗り、彼女は一駅先で同じ車両に乗り込んできた。降りるのは二人とも浦和駅。視線が交わる回数が増え、やがて互いに同じ電車、同じ車両を選ぶようになった。
そんな状態が一月ほど続き、決定的なきっかけが訪れた。
康太は彼女に異常に接近している中年男に気づく。眞美がふと向けた視線には、言葉にならない救難信号が込められていた。
康太は躊躇しなかった。二人の間に体を滑り込ませ、男を睨み付ける。その視線は、若さに似合わぬ冷静さと、一歩も引かぬ決意が宿っていた。男は忌々しく舌打ちし、混雑の向こうへ消えた。
二人は浦和駅で降車し、彼女が礼を言い、互いの姓名を名乗る。以来、電車の中で言葉を交わし、改札を出で左右に別れるまで、並んで歩くのが日常になった。以後、高校、大学、就職と二人の関係は途切れず、少しづつ進展する。そして今日、長い道のりは、ようやく一つの節目に辿り着いた。
もっとも、二人の結婚は、完全な安息の上に築かれたわけではない。
康太は、現在世間を騒がせている連続殺人事件の捜査支援に深く関わっている。今後も同様なことがあるに違いない。眞美は理解したうえで隣に立つことにを選んだ。新婚旅行は先送りにし、事件が片付いた暁に、長い休暇で埋め合わせる。二人の約束だった。
大樹も出席した二次会は、幸福の余韻とアルコールで、騒々しい。
隅で、大樹は椅子にもたれ、すでに意識が飛びかけていた。
由衣はため息をつき、大樹の袖をつかむ。
「……ほら、大樹。せめて挨拶くらいして」
「ん……ああ、はい」
目を開けた大樹は、一瞬で状況を把握し、ぎこちなく姿勢を正す。
二人で康太と眞美のもとへ向かう。祝福の言葉を交わす間にも、大樹の視線はわずかに泳いでいる。人の顔、声、匂い、光、それらが過剰な情報として彼の中に流れ込んでいるのが、由衣にはわかった。
式場を出ると、夜気がことのほか心地よい。喧騒は消え去り、世界は急に静かになった。
「疲れたでしょ」
「はい。……知らない人が、たくさん話しかけてきました。ぼくのことを知っているみたいでした」
「有名人だもんね、大樹は」
からかうように言うと、少し大機は首を傾げた。
「有名度と疲労度の相関性に少し興味があります」
どこか他人事のような口調に少しズレた感性。由衣は苦笑する。
「その辺は、ゆっくり休んでから考えたら」
大樹は、幾つもの事件で決定的な役割を果たしてきた。その名は、警察関係者の間では共有されている。だが本人にとって、誇りでも負担でもなく、ただの事象に過ぎない。
その週末の土曜日、買い物に出た由衣と大樹は、一休みしようと参道沿いのコーヒーショップ、カフェアプロに入った。
大樹がトイレにたち、由衣がゆったりとコーヒーを口につける。そのとき目の端へ黒い影が映った。
「アイラさん、やっと会えましたね。牧本です」
顔を向けると、中年の男がテーブル脇に立っていた。
「ん? 人違いしていませんか?」
由衣は即座に否定したが、男は勝手に向いの席に腰を下ろした。
「いやーっ! この動画よりすっとカワイイじゃないか!」
男は興奮した様子でスマートフォンを差し出す。画面には、由衣とそっくり女性が映っていた。
「まばたきと眼球の動きが同期していません。皮膚の微細な陰影も不自然です。頭部と背景の境界が曖昧です。これはフェイク動画です」
いつの間にか戻って来た大樹が、由衣の隣に座って画面を覗き込んでいた。
男の顔が醜く歪む。
「耳障りだ! お前は口を出すな!」
「だから人違いですって。あたしはアイラなんて女じゃない」
由衣がはっきり不定しても、男はまったく聞く耳を持たない。
「今日はたくさん用意してきたんだ。これで生活は楽になるぞ」
テーブルの下で、袋がかさりと鳴る。紙幣が混じっているような気がして、由衣は眉をひそめた。
「いい加減にしてください!」
「いいから、いいから、こんなとこ出てホテルに行こう」
その言葉で、とうとう由衣は切れた。そして、一気にまくしたてる。
「どこの誰だか知らねーが、薄毛腹ボテ短足中年ブ男には用はねえんだよっ! ヨレヨレのシャツに薄汚い上着、使い古した袋ぶら下げて、そんな格好でよく若い子に声かけられるもんだ! バーコードみてーな頭しやがって! スマホで読んでやろうか? ピッて音がして『僕は勘違い男の勘助でーす』なんで音声が流れるんじゃねーの!? 袋からオニギリが見えてんぞ! 昼飯の残りか? 貧乏くせー! そういやオメー、顔もオノギリだな! 上が尖って下が膨らんで、ちょうどいい、ノリ貼りってやるよ! バーコード隠せるし、よく似合うってもんだあぁぁー!」
由衣は男の足元の袋に手を突っ込み、オニギリを引き抜いた。そして、ベチャリと湿った音とともに、男の頭頂へ押しつけた。
男は口を半開きにしたまま、何が起きたのか理解できない顔で固まっている。やがて恐る恐る頭に手をやり、海苔と米粒に触れた瞬間、顔面が一挙に崩壊する。
「なななな、何すんだぁぁぁー!!」
怒号とともに、男が掴みかかる。
大樹は、即座に手を払い除け、立ち上がって、由衣を半歩背後へと下がらせた。その所作は過不足のない合理性があった。
再び伸びてきた男の手に襟を掴まれるも、大樹は軽く手首を捻る。
「手を放してください」
「なにを! クソガキが! イテッ!」
力は強くないが、関節の可動域を正確に把握している。
「手を放してください」
「イテッ!」
大樹は同じ言葉を、同じ音量で繰り返し、同時に手首を捻る。
程なく制服の警察官が二名、店に入ってきた。
「君、その子から手を放しなさい! ……ん?」
男の頭に視線が止まる。海苔と米粒が、貼りついていた。
「ブハハハッ! お前、頭に何を載せてんだ!」
二人は顔を崩しながら、左右から男を拘束した。
しばしば、この店を訪れる由衣と大樹は、マスターと顔見知りだ。由衣は、罵倒を浴びせる直前、マスターに目配せし、近くにある交番の方へ顔を向けていた。
翌日、由衣と大樹は、康太に昼食に呼ばれ、康太・眞美夫妻の自宅マンションを訪れた。
新居はまだ生活感が薄い。ただ、ダイニングに漂うコーヒーの香りが、確かな暮らしを彷彿させていた。
食後、眞美が二人の前にカップを置いた。
「大樹君、昨日は由衣さんをかばって一歩も引かなかったそうね。偉いわねー」
「いえ……」
短く答えた大樹は、すぐに視線を落とした。指先がわずかに強張って唇を噛む。
「アレ? 大樹君、変な男に絡まれてショック受けちゃったの?」
由衣が首を振った。
「違うんです。警官がね。男に向かって『その子から手を放しなさい!』って怒鳴ったの。男も警官も大柄で、大樹は童顔でしょ。だから子供に見えたんでしょうね」
「ああ、そういうこと! キャハハ…… あっ! ごめんなさい」
思わず笑いがこぼれ、眞美は慌てて口を押さえた。
由衣は大樹の頬をチョコチョコつつく。
「いつまでムスッとしてんのー」
食後、しばし隣室にこもっていた康太が由衣と大樹の前に座った。
「待たせてすまん」
「あたしも聞かせてもらっていいわよね?」
眞美が、康太の前にコーヒーを差し出し、隣に腰を下ろした。
康太は、二人を正面から見据えた。
「男は謝罪し、お前たちは被害届を出さなかったそうだな。この件は、それでよい」
由衣は小さく頷いた。
「お前たちが帰った後、俺も同席し、調書を取った。男は、牧本吉弘、四十九歳、さいたま市岩槻区在住、物流会社社員だ。牧本は、ネットで知り合ったアイラという女性と人違いしたと認めた。厳重注意後解放した。動画は勝手に写真を使われて加工されたものだろう。名誉棄損に当たるので担当部署が捜査を開始した」
「腹が立つ。早く捕まえてね」
康太の携帯が鳴った。
「なに!」「で?」「そうか」と洩らし、通話を切る。
「牧本が、自宅で殺された。……両耳が切り取られていた」
「キャッ!」
眞美と由衣の悲鳴が重なった。
椅子を響かせ、康太が立ち上がる。
「今から行く」
「ご苦労様。夕飯どうするか連絡入れてね」
玄関の扉が閉まる音が聞こえ、眞美がポツリと洩らす。
「見ざる言わざる聞かざる。……三つそろった」
由衣の目が大きく開く。
「それって、どういうことですか?」
眞美は「アッ」と洩らして口に手を当てた。
「絶対、誰にも言わないでね。報道されてないから」
「はい」
「同一犯かと話題になっている連続殺人事件だけどね。大宮の被害者の男性は、両目がえぐり取られていた。浦和の被害者の男性は、舌が切り取られていた。で、今度の事件」
「キャッ! 何それぇぇぇー!」
由衣の絹を裂くような悲鳴が、部屋中に響き渡る。
大樹は少し首を傾げ、目線を上げた。




