ラーメン屋 その3 健志郎
「じゃあ、友美さんとお兄さんは血が繫がってないんだ」
「そうよ。いっそ友美のお父さん、養子解消しちゃえばいいのに」
日曜の昼前、大樹の自宅アパート、由衣は床に脚を投げ出し、クッションを抱えながら、浮かない顔で天井を見上げていた。
大樹の携帯が鳴った。
「ご無沙汰しています」
「……」
「はい、大丈夫です。お待ちしています」
通話を終えた大樹の横顔は、少し緊張が混じっていた。
「誰から?」
「弁護士の名和さん。今日は大宮に用事があって、三時にこっちへ寄ることになった」
「あ……、養子解消の件とか、大樹がいろいろお世話になった方ね」
「うん」
「あたしも一緒にいていい?」
「もちろん」
名和健志郎は四十歳、弁護士になって二年目。司法試験に何度も挑戦し、決して諦めなかった不屈の精神を持つ男である。前職は学習塾講師、さらにその前、私立の中高一貫校で教壇に立っていた。少々異色の経歴を持つ。
中肉中背の穏やかな顔立ち、一見温厚な教育者の風貌だが、その実、柔道五段。静かな水面の下に潜む力のようなものを感じさせる。
大樹にとっては、ただの世話になった人ではない。
伯母の死後、家庭環境が崩壊した幼い日々、その大穴を埋めるように、健志郎は折に触れて現れ、言葉と態度で支えてくれた大人だった。
小学校卒業のとき、やむを得ない事情で、健志郎は大樹の前から姿を消した。
別れ際、一つだけ強く言い残した。
「中学に行ったら柔道部に入れ。そして自分を守れ」
その言葉は、深く大樹の胸に残り、今もなお色あせていない。
午後三時、時間通りに健志郎が訪れた。
玄関で靴を脱ぐ所作まで、どこか律儀で無駄がない。部屋に通されると、由衣と大樹を交互に見て、フッと頬を緩めた。
健志郎と由衣が互いに自己紹介をし、大樹が近況報告をした。
出されたコヒーを一口含み、健志郎は笑みを浮かべた。
「よかったなあ、大樹君。こんな綺麗な彼女ができて」
そして由衣へ向き直る。
「由衣さん、大樹君の言動には、我々には理解しきれないことが多い。でも、悪気はまったくないんだ。気づいていると思うが、彼はその……」
健志郎が言葉を選ぶように、わずかに間を置くと、由衣は滑り込んだ。
「サヴァン、ですよね」
さらりと言い切る。その声音には、躊躇も遠慮もない。
「目に映った光景をそのまま記憶するなど驚異的な能力。素直で優しくて、正義感も強い。でも、ガキっぽくて天然で、社会常識が少しズレてる」
チラリと大樹を見る。その視線には、からかいと愛情が混ざっていた。
「だから、あたしの方で普通の基準を調整してるんです。あと、人に変なこと言って誤解されやすいので、フォローしてます」
自負というより、理解している者の責任を果たしている口調である。
「……なるほど」
健志郎はゆっくり頷いた。
「由衣さんは、よく分かっているね。安心した」
その言葉は社交辞令ではない。長い時間、大樹を見てきた人間だからこそ感じられる、重みがあった。見たことを口にすると、変な顔されたり、嘘つき呼ばわりされたり、高じて虐められたりと、縮こまっていた大樹。唯一安心して話せる相手が健志郎だった。
健志郎は、満足そうにコーヒーに口をつける。
一方大樹は 頬を膨らませ、不満げに顔を背けていた。
意を決したように、由衣へ向き直す。
「僕はガキっぽくない」
「はいはい」
「天然でもない」
由衣は即座に返す。
「そこは否定しない方がいいから」
「ブッ」
そのやり取りに、健志郎は思わず吹き出した。
「そうそう」
健志郎がバックから紙袋を取り出し、テーブルに置いた。
「実家が送ってきたリンゴだ。食べ切れなくて配ってるんだ。大樹君、好きだろ」
「はい、ありがとうございます」
由衣が健志郎に顔を向けた。
「先生のご実家は、リンゴ園やられてるんですか?」
「ああ、青森県だがね」
大樹は懐かしそうに目線を上げた。
「先生のボロ……あっ! アパートでよくいただきました」
健志郎は苦笑しながら、思い出すかのように顔を上げる。
「確かにボロだったなあ……」
そして、大樹に向き直した。
「大樹君、あのとき突然いなくなって済まん」
「でも、柔道やるように強く言われ、おかげで暴力は終わりました。……で、そのとき何かあったんですか?」
「親父が、車のもらい事故で重傷を負った。それで三年間手伝いに帰ってたんだ。その後、リンゴ園は姉夫婦が引き継ぐことになった」
「そんなことが……。知りませんでした。お父さんは大丈夫ですか?」
「今は、回復してちゃんと仕事してるよ」
「よかったです」
由衣が大樹を一瞥して、笑みをこぼした。
「養子解消の件といい、先生は、彼の大恩人ですね」
「いやいや、由衣さんには及ばないさ」
コーヒーの湯気が、三人の間に柔らかく立ちのぼる。
由衣がすっと背筋を伸ばし、キリッとした顔を健志郎に向けた。
「先生、ご相談したいことがあるのですが?」
「なんだい?」
「養子縁組解消についてです」
由衣は言葉を選びながらも、要点を的確に押さえて説明した。
ラーメン店を営む友人の母親が階段から転落死したこと。それを事故ではなく作為と見抜いたのが大樹であること。そして、義理の兄が犯人と推測され、現在は姿を消し、警察が行方を追っていること。
聞き終えた健志郎はゆっくりと頷いた。
「通常、養父母と養子、双方の同意が必要だが、その状況なら話は別だ。法的にも解消は比較的容易だろう。よかったら僕が引き受けよう」
「あの……、でも」
「謝礼はいらないよ」
あっさりと言い切られ、由衣はしばし言葉を失った。
「……ほんとにいいんですか?」
「こっちの用事のついでに動けるしね。それにしても大樹君の観察眼は、相変わらず凄いなー!」
「先生、今回だけじゃないんです」
由衣は、これまで彼が関わり、解決へ導いた事件を、端的に、しかし熱を帯びて語った。断片的な記憶を精密に再構築し、通常見逃される不整合を拾い上げる異質な能力を、間近に体験したことを。
「そうか……。よい環境に変わって外に目を向ける余裕ができたんだな。何より深く理解してくれる由衣さんの存在が大きい。でも大機君、あまり首を突っ込むんじゃないぞ。ただでさえ君は、人の嫉妬を買い易いのだから」
健志郎が大樹を心配そうに見つめると、大樹は、不思議そうに首を傾げた。
「僕なんかに?」
「君は確かに悲惨な経験をした。だが、今はどうだい? 良い人達に囲まれ、医師を目指して日々研鑽を積んでいる」
そこへ、由衣がすかさず割り込む。
「絶世の美女が彼女だし、自分は美少年だし」
大樹は不満げな顔を見せた。
「僕は少年ですか?」
「ごめん、青年」
二人のやり取りに健志郎は相好を崩すも、改めて念を押した。
「ともかく深入りは禁物。何かあれば、由衣さんのお兄さんや僕に相談するんだよ」
「はい、ありがとうございます」
二人は揃って頭を下げた。
顔を上げると同時に、大樹がポツリと洩らした。
「先生、その指輪、新しいですね」
視線の先は、左手の薬指。実は会ったときから、大樹は引っかかっていた。
由衣も気づき、顔をほころばす。
「先生、もしかして、最近ご結婚されたんですか?」
健四郎は少々顔を赤くした。
「三日前に籍を入れたけど式は挙げてない。大樹君、連絡せずに済まん」
「どういう方ですか?」
大樹の問いに、健四郎は照れくさそうに頭を掻いた。
「大学の同期生で三十九歳、バツイチ。弁護士になって十年。夫婦で義父の事務所に所属している。……まあ、頭が上がらない相手だよ」
由衣と大樹は顔を見合わせ、「クスッ」と洩らした。
その日のうちに健志郎は、二人と一緒に宮川家に訪問し、養子解消手続きを進める了承を取り付ける。
義母の殺害容疑で指名手配中、かつ失跡という状況が考慮され、一週間後、地裁は友美の父親と慎一の養子解消を認めた。
父親はその足で市役所に向かい、慎一の転籍手続きを終えた。
二日後、さいたま市の大和田公園、その奥に広がる森の中に「死体がある」との通報があった。
警察が駆け付けると、木漏れ日が射す茫々たる下草に埋もれ、男がうつ伏せに倒れていた。頭頂部は完全に潰れ、原型をとどめていない。周囲には乾きかけた血と、黒ずんだ脳漿が飛び散っていた。
死体は、指名手配中の相田慎一(旧姓;宮川)と判明し、死後推定二十時間から二十四時間。逃亡の果ての無残な姿だった。




