ラーメン屋 その2 黒い灰
四日後の水曜日、午前の講義が休講になった。由衣と大樹は、友美の了承を得、八時半に開店前のラーメン店に立ち寄った。父親と慎一は外出中だった。
友美は、踊るような足取りで和菓子とお茶を持ってきた。
由衣は笑みをこぼす。
「友美、何かいいことがあったでしょ? もしかして彼氏できた?」
「エヘヘ、バレちゃった!」
「やっぱり松風旅館の息子さん?」
「うん、由衣のおかげ!」
「そう! で?」
「翌日も来てくれてチャーシューと煮卵おまけしたら、すっごく喜んでくれて連絡先交換したの。昨日、駅前の伯爵亭でケーキご馳走になった。そのあと……”付き合って欲しい”って」
「よかったー!」
由衣と友美は、満面の笑みを浮かべてハイタッチを交わした。
友美に続き、由衣、大樹の順に階段を上った。
上り詰めた所で、大樹はしゃがみ込み、床に顔を近づけた。
目地に詰まった黒い汚れを爪で掻き取り、迷いなく鼻先へ持っていく。
由衣が眉をひそめる。
「ちょっと、何してるの?」
だが、大樹は答えず、友美の方に顔を向けた。
「ここでバナナを踏み潰したことありますか?」
「え?」
なぜそんなことを聞くのかと、友美は瞬きを繰り返す。
「うち、誰もバナナをほとんど食べないので、あり得ないです」
「そうですか」
それだけ言って、大樹は立ち上がった。
続いて三人がベランダに出る。
大樹はゆっくりと歩き回る。視線が細かく動き、床、手すり、物干し竿へと追っていく。ベランダの隅に置かれた灰皿スタンドの前で足を止めた。指先で底をぬぐい、また鼻先に持っていく。
「大樹、さっきから何してんの? あとで手をよく洗いなさいよ」
だが、大樹の耳には入らない。こめかみに指を当てたり、鼻の辺りを擦りながらベランダを端から端まで何度も往復した。
由衣はとうとう切れた。
「大樹、ちゃんと説明しなさいっ!」
大樹が足を止めて二人に顔を向ける。
由衣は「プッ」と吹き出し、友美も頬を膨らませ、慌てて口を押さえた。
友美は急ぎウェットティッシュを持ってきて、由衣に手渡す。
「はい、これ」
「ガキか! まったくー」
由衣は、灰であちこち黒くなった大樹の顔を拭いた。
大樹は何事も無かったように口を開いた。
「まず、事実から話します。階段の降り口の床の継ぎ目が黒くなってて、微かに腐ったバナナの臭いがしました」
由衣はいちいち口を挟む。
「ふーん……それで、さっきバナナって」
「バナナの皮には、ムチレージという粘性物質が含まれ、接着面の摩擦を下げ、滑り易くする性質があります。保湿クリームにも、似た機能を持つ成分を使ってるものがあります」
「そんなの含まれてんだ」
「ベランダの灰皿に、吸い殻とは別に微弱な刺激臭が残っていました。もしキョウチクトウを燃やした場合、オレアンドリンという強い毒性物質が発生します」
友美は目を丸くし、由衣はもう口を挟まない。
大樹は、二人を見て小さく頷く。
「ここからは推測です。Sは、お母さんがベランダに出る直前、キョウチクトウの枝を灰皿で燃やした。お母さんが洗濯物を干している間、Sは階段の降り口に、滑り易くする為に保湿クリームを塗布した。その後、急いで外出した」
友美と由衣は顔が引きつり、声も出ない。
大樹は一息吐き、一気に話す。
「お母さんはベランダでオレアンドリンを吸い込み、強いめまいを起こした。平衡感覚を失ったお母さんは、階段の降り口で滑って転落した。Sは近くで様子を見ていて、救急車が出発後、家に入った。そして、保湿クリームを拭き取り、灰皿の燃えカスを回収した。こうして証拠を消して、また出て行った」
由衣は、緊迫した面持ちで友美を見据えた。
「友美、兄に話すからね。このままだと、あなたも危ない」
呆然としている友美は、無言で頷いた。
大樹の言う”S”は、それが誰なのか考えるまでもない。
由衣は、携帯で康太を呼び出した。
「お兄ちゃん、宮川さんのお母さんの件。大樹が、事件の可能性があるって」
由衣は問われるままに手際よく伝えた。
二十分程経ち、埼玉県警の刑事と鑑識が宮川家に駆け付けた。
帰宅した友美の父親の了承を得、宮川家の家宅捜索が実施された。
階段、踊り場、室内、ベランダと、動線をなぞるようにの写真が撮られいく。灰皿スタンドが押収され、階段の降り口、床の継ぎ目に詰まった黒い物質が、採取された。
その間、刑事は四人から個別に事情を聴く。
「慎一の行く先に、心当たりはありますか?」
友美は、首を横に振った。
「見当もつきません」
二日後、科捜研から結果が返ってきた。
灰皿から採取された灰は、キョウチクトウを燃焼させた際に生じる成分と一致する反応を示した。階段の降り口から採取した物質には、市販の保湿クリームと同一の成分が検出された。
大樹の仮説は科学的に立証された。
さらに、裏付けが取られる。
宮川家に程近いドラッグストアの女性店員が、慎一をはっきりと覚えていた。
「この人、この商品買いました。髭面で清潔感がないというか、自分で使う感じじゃなかったので」
埼玉県警は宮川慎一の逮捕状を取り、緊急配備を敷いた。防犯カメラの洗い出しと、目撃情報の収集が進められた。しかし、一週間経過するも有力な情報は得られない。
県警は、宮川慎一を一般指名手配とし、顔写真や特徴など、各都道府県警察に配布した。
高見沢家のリビング、大樹がコーヒーを口に持っていくと同時に、寛太が勝手に膝の上に乗った。その拍子にカップが揺れ、コーヒーが顔にかかってしまう。
「こらっ!」
由衣が叱るも、寛太はまるで動じない。既に目を閉じて脱力している。
由衣がティッシュで顔を拭き終えると、大樹は口を開いた。
「寛太、また太りました」
「ネコ缶、よく食べるからね。たくさんあるって分かってるみたい」
「寛太は、腹っぺらしネコです」
「うん、底なし。……あいつも腹減ってるだろな」
「でしょうね。おそらく警察が家に来たのを目撃して逃走した。現金は底をつき、預金は下ろせず、カードも使えない」
「どこへ逃げてんだろ?」
「誰かに匿われているとか」
「そういや……、あいつ、昔から手が早いって友美が言ってた。となると……、女!」
由衣は急ぎ携帯を取り、康太を呼び出した。少し話してから携帯を切り、頬を膨らませた。
「その線はとっくに洗ってる。素人が口出しするなってさ」
由衣は、寛太の頬をつまんで引っ張る。理不尽にも寛太で憂さ晴らしをした。「フニャ」っと不満げな声が洩れた。




