山なみ その2 動く光
橋田和也が救命措置をした女性は、大館恵梨香、二十九歳、職業はイラストレーター。一年前まで、掛け持ちで美術の臨時教員をしていた。仕事は何処でも出来るとのことで、先月、東京都立川市から長野県安曇野市に移り住んた。
自然の中で暮らしながら仕事をする。そんな、よくある移住者の一人だった。だが、その生活は、あまりにも短く終わる。
病院で懸命な救命処置が続けられたものの、意識が戻ることはなかった。発見から二十時間後、死亡が確認された。死因は頭部強打による脳挫傷だった。
彼女のウインドブレーカーの胸部に、彼女以外の指紋が一種類が検出された。和也の指紋と、かろうじて一致した。また、斜面の雑草が大きく押し潰され、人が勢いよく転落した跡があった。
長野県警は、大館さんを意図的に土手から突き落とした容疑を視野に入れ、和也に再度任意同行を求めたのだ。
取調で和也は、女性は呼吸が不規則で危険な状態だったので胸部圧迫をした。指紋はそのときに付いたものだと主張した。
指紋は胸骨の上以外から発見されなかった。科捜研が分析した結果、圧力のかかり方が不鮮明で、救命処置したのか押しのけたのか、判別不能だった。
翌日、和也は相当処分で送致された。有力な証拠も目撃情報もなく、結局、県警は検察に判断を委ねた。
その夜、民宿の食堂は重苦しい空気が漂い、誰もが箸に手を着けなかった。
「和也は助けようとしただけなのに……」
美穂の声は途切れ、涙がポロリと落ちた。
由衣は傍により、背中を優しく撫でる。
「大丈夫よ。和也がそんなことするわけない。きっと疑いは晴れる」
その声は、自分にも言い聞かせているようだ。
「大館さんと高校のときにあったこと、和也から聞いたの」
美穂がふと顔を上げて切り出すと、由衣は身を乗り出した。
「どんな?」
「大館さん、口が悪くてさ。和也の絵、”幼稚園児が描いたみたい”って、みんなの前で言われたんだって」
「まあ、うまくはないけどね。けど言い過ぎ」
「さらに”医者あきらめたら”、とも」
大樹が首を振った。
「医師に絵心は重要ではありません」
「和也も、”患者には、円や線と矢印とかで説明できる”って言い返したって」
「その通りです。例えば、”心臓、血管、詰まり”のような図なら、むしろ橋田君の言うように図形の方が、写実的な絵より伝わりやすいです。写真や既製資料を見せてもいいし」
「でもね。和也、なんか楽しそうに話したの。で、わざわざ苦手な美術を選んだ理由がわかった」
「和也って、苦手なことほどやる気を出すから?」
「うん、”頑張り屋さん”だからね。”大館先生に教わってから、美術も他の苦手な科目も、成績が上がった”って言ってた」
由衣は、少し顔を曇らせた。
「和也らしいけど……当然、同級生に聞き込みしてるわね。警察や検察がどう捉えるか心配」
「恨みを持ってるって判断されたら……」
美穂は、顔を伏せ両手で覆った。
大樹は静かに口を開いた。
「ここで心配しても埒が明きません。彼女を突き落とした者を探し出します」
美穂が、即座に顔を上げる。
「どうやって?」
「明日の朝、現場に行きます」
「大樹なら何か見つけてくれる。お兄ちゃんにも来てもらうわ」
由衣は笑みを浮かべた。
翌朝、三人は歩いて事件現場に向かった。和也が大館さんを発見した、同じ時刻の六時三十分に意図的に合わせた。そこは、南北に流れる小川の西側の土手の上、規制は解除されていた。
現場近くの県道の路肩に停まっている車から、一人の男が降りてくる。
「上田美穂さんですね。由衣から話は聞いています」
由衣の兄、康太である。
「よろしくお願いします」
今にも泣き出しそうな声で、美穂は頭を下げる。
康太はやや口角を上げた。
「大丈夫、きっと疑いは晴れる。じゃあ大樹君、頼む」
大樹は三百六十度見回す。西側の三十メートル程先、キャベツ畑に囲まれた小高い場所、そこに建つ古民家で視線が止まった。
「あの家は誰か住んでいますか?」
唐突な問いに、美穂は少し首を捻る。
「え? あそこ……小学校が一緒だった男の子の家。借家だけど、中学に上がるとき引っ越して、それからは、たぶん空き家」
大樹が空家に向かって走り出した。
「え、ちょっと!?」
由衣が声を上げ、美穂と顔を見合わせる。
仕方なく二人も後を追った。康太は遅れて歩き出す。
人の気配はなく、大樹は窓に張り付くようにして中を覗いていた。
背後から、由衣が声を掛ける。
「何してるの?」
「事件の日、僕達が到着したとき、誰かがこの窓から現場を見ていた可能性があります」
「は? 何でそうなるの?」
「あの時、この窓から微かに動く光が見えたけど、今は見えない」
「窓ガラスに反射したのでは?」
「違います。今、見えているのは拡散反射、いわゆる散乱光です」
「中に、人がいたってこと?」
「その可能性が高いです」
「でも、なんで? 空き家でしょ? わざわざ入り込んでまで」
「犯人なら別だ」
いつの間にか、康太が後ろに立っていた。
「犯行後、現場の様子を確認する。典型的な行動パターンだな。第一発見者の動き、通報のタイミング、警察の到着。全部見ておきたい」
「ふーん……、伊達にプロファイラー……」
康太は、由衣をジロリと睨む。そして土手に目線を移した。
「ここからなら、土手の下は死角なく見える。距離も近すぎず遠すぎず、気配を悟られにくい」
康太は、その足で長野県警本部へ向かった。
捜査一課長に面会し、空き家への鑑識投入を要請する。
県警としても捜査は難航していた。決定的な物証を掴めないまま、最終的には地検の判断に委ねるしかない状況に追い込まれた。
一課長は短く頷き、「私の責任でやろう」と即断し、鑑識へ指示を出した。
ほどなく空き家の捜索が開始された。
鑑識は北側の窓格子に着目した。慎重な調査の結果、格子が一度外され、そこから侵入した痕跡を確認。さらに窓下の地面から、毛髪が一本発見された。
だが、それだけでは犯人のものと断定するには至らない。その上、毛髪には毛根がなく、皮脂細胞の付着も認められず、DNAは検出不能だった。
検察は、空き家に侵入した人物の特定、さらなる物証の収集と、捜査継続を要求し、和也の身柄は依然として解放されなかった。
民宿の食堂、空気は張り詰めていた。誰もが、次の一手を待っている。
由衣が、沈黙を破る。
「お兄ちゃん、犯人をプロファイリングして」
要求は簡潔で、遠慮がない。
「まず最も基本的な線だが、大館さんに強い恨みを持つ人物」
「じゃあ、早く調べて」
「簡単に言うなよ」
苦笑しながらも、声は落ち着き払っている。
「彼女は先月まで立川に住んでいた。仕事で週一、新宿に出ている。となると、洗うべき対象は広い。仕事関係、取引先、友人、知人、旧居の近隣、引っ越し先の周辺……全部だ」
「じゃあ、早くやって」
「それは県警が既に動いてる。俺が今欲しいのは、絞り込むための情報だ」
先ほどから一切口を挟まず、大樹は目を閉じて斜め上を向いていた。
ときどき横目で見ながら、由衣は期待に胸を膨らませていた。
(何か見つけてくれそう)
大樹がパッと目を開けると、由衣はすぐさま問い質した。
「大樹、何か見つけた?」
「事件当日、空き家から立ち去るバイクの映像が残っていました。今さら済みません」
それは、刑事から声を掛けられたとき、振り向きざま大樹の目の端に一瞬映った光景だった。
康太の目が鋭く光り、矢継ぎ早に質問する。
「どんなバイクだ? ナンバーは? 乗ってたのはどんな奴だ?」
「小型のバイク。ナンバーは確認できません。おそらく男性。遠くて、詳細な特徴は不明です」
情報としては粗いが、無価値ではない。康太は即座に頷いた。
「それでも十分だ。空き家から離脱した車両。重要なピースになる。周辺の聞き込み、重点的に当たらせる。ありがとう」
康太は短く礼を言いい、食堂を出て、車で捜査本部へ向かった。
大樹がすくっと立ち上がった。
「もう一度、空き家に行きたい。バイクの情報があれだけでは心苦しいです」
「うん、行きましょ」
由衣が速やかに反応し、美穂も頷く。
「ここでいるより、ずっとましよね」
三人は、動かずにはいられなかった。
空き家に面した道路は一本しかない。三人は、大樹が示した方向に歩いた。五百メートルほど行くと、県道に合流する。その百メートルほど手前で、大樹が足を止めた。道端に花が供えてあった。
大樹は食い入るように見詰めたまま動かない。そして一言洩らした。
「これは、事件があった日?」
由衣は、通りかかった農家のオバサンらしき女性に声を掛けた。
「すみません、この花は何かあったのですか?」
「これねー。この前、宗田さんちの犬がここで死んじゃったの。散歩に連れてった孫が、バイクに引っかけられたと、泣きながら帰って来たって」
「どんな犬でしょうか?」
「メスの柴犬、十六歳の老犬だけど、最後がこれじゃあ、あんまりだよ」
「この前って、いつですか?」
女性は少し考え、思い出したように言った。
「ほら、あの事件。若い女性が土手の下に倒れてたでしょ。救急車やらパトカーやらが、いっぱい来てた日よ」
三人の視線が同時に交差する。横に並んび、花束に向かって手を合わせる。
そして由衣は、すぐにスマホを出した。
「お兄ちゃん、例のバイク、宗田さんという人の孫が見てるかも知れない」




