山なみ その1 田舎娘
「福光、明日の朝、ジョギング行かねえか? いい景色の中で気持ちいいぞ」
橋田和也が、どこか自慢げに誘った。いかにも”知っている者だけが得をする”かのような口ぶりだ。
「無理です」
大樹は即座に切り捨てる。
一瞬の沈黙のあと、由衣が大笑いした。
「アハハハハ、大樹がそんな健康的なことするわけないって。休日は昼近くまで死んだみたいに寝てるんだから」
「サヴァンって頭を酷使するからだな。お前、講義中しょっちゅう落ちてるし」
和也が半分からかうように言い放ち、つられて上田美穂も追撃する。
「試験も途中でいなくなるし。廊下の長椅子で寝てるって聞いて笑っちゃった」
「それは違います。サヴァン症候群と睡眠傾向に相関はありません。単に生活習慣の違い、個人差です」
至って正確な否定が、かえって可笑しい。
直ぐさま由衣が、言葉尻を捉える。
「”個人差です”だって。便利な言葉よね、それ」
「事実です」
大樹は真顔で返す。その温度差が、また笑いを誘った。
四人は、美穂の実家が営む民宿の食堂で、食後の余韻に浸っていた。
農閑期だけ開けるこの民宿は、今は彼らだけの貸し切り状態だ。外はしんと静まり返り、遠くから水の流れる音だけが聞こえる。
今朝、和也が車で由衣と大樹を迎えに来て、中央高速で美穂の実家に向かった。三人は松本城などを観光後、夕食を済ませ、午後九時過ぎに安曇野市にある美穂の実家に着いた。
美穂の実家は、祖父母、両親、兄夫婦、その子供が二人、そして姉、合計十人の大家族だ。祖父母、両親、兄夫婦で農業を営み、姉は安曇野市役所の職員。農作物は米、麦、キャベツや白菜など、大規模多角経営だ。収穫時は家族全員総出で休む間もなく働く。
「機械化してるから手伝いはいいって。ありがたいような、そもそも当てにされてないような」
由衣が頬杖をつきながらこぼすと、大樹は即答した。
「役立たず。あ……戦力にならないと判断されたんです」
「その言い方!」
「じゃあ、足手まとい」
「それ、もっと酷いんじゃない?」
由衣は大樹の口元を軽くつつく。
手土産を持参したものの、泊めてもらうだけでも十分な厚意だ。それなのに自炊のつもりが、美穂の母親が夜食まで持って来てくれた。
静かで、穏やかで、少し現実から切り離されたような夜。翌朝、それは、あっさりと断ち切られる。
「ねえねえ、大樹、起きて、起きてってば!」
翌朝六時半、ノックもせずに部屋に入ってきた由衣が、大樹の肩を揺さぶる。
大樹は瞼がそろそろと開く。
「んー?」
「早く支度して」
声色が、いつもの軽さと違う。大樹は違和感を覚え、反射的に上体を起こす。
着替えながら視線を向けると、由衣は短く説明した。
「和也から女の人が倒れているって連絡があったの」
「状態は?」
「わかんない。救急車は呼んだって」
由衣と美穂が朝食の準備をしていたとき、美穂の携帯に着信があったとのこと。
三人は上田家の車で、和也が送ってきた地図が示す現場に向かった。
土手下の草むら、救急隊員が女性を担架に乗せている。傍らに和也が立っていた。
土手道は狭く、車は入れない。救急車とパトカーは少し離れた橋のたもとに止められていた。警察が通行を規制している。
女性を乗せた救急車は、サイレンを流しながら走り去り、ほどなく、現場検証が始まった。
和也は、刑事に事情を聴かれていた。三人は規制線の外側から、見ているしかない。
やがて、一人の刑事が、三人のに向かって歩いてきた。
「君達は、通報した橋田君の友人だね。話を聞かせてください」
住所・氏名・年齢、”和也が民宿を出た時間”、”どこへ向かうと言ったか”、”誰かと一緒だったか”など、形式的な質問が続く。
一通り答えたあと、大樹が一歩前に出て斜面を指差した。
「あのー……草むらの状態から、女性は突き落とされたと考えるのが妥当……」
「すみません。彼、ちょっと変わってるので」
由衣が慌てて割り込んだ。そして向き直る。
「プロの人に、余計なこと口にしないの!」
刑事は苦笑しながら小さく頷き、鑑識官の方へ向かった。
しかし、和也は任意同行を求められ、警察の車でその場を立ち去った。
美穂は目を潤ませて唇を噛む。由衣は、美穂の肩にそっと手を当てた。
当日の午後、美穂の携帯が鳴った。和也だった。聴取が終わって警察署を出たとのこと。
三人はすぐに車を出した。誰も「急ごう」とは言わないが、美穂のアクセルの踏み込みは、それを代弁していた。
警察署の前で待っていた和也は、少し疲れた顔を見せて後部座席に乗り込んだ。
ドアが閉まると同時に、美穂が振り返る。
「どうだった?」
和也は淡々と話し始めた。
「土手道を走ってたら、土手の下に人影が見えてさ。よく見たら女性が倒れてた。声かけても反応なし。脈も呼吸も不規則で、スマホをスピーカーにして通報しながら、胸部圧迫を始めた。しばらく続けてたら、救急車とパトカーが来た」
そこまでは、今朝聞いた通りの流れだ。
美穂は車を発進させた。
「問題はその後だな」
バックミラー越しに、美穂と目が合う。
「事情聴取、かなり細かかった。名前、年齢、住所、職業、ここに来た理由、旅行の日程、滞在先、同行者のこと、民宿を出た時間、発見に至った経緯・時刻、走ったルート、途中で見た人の特徴・場所・時刻、女性との面識の有無、救急が到着するまで何をしたか」
一息で言い切り、付け加えた。
「同じこと、角度変えて何度も聞かれた。あと、指紋も取られたし、たぶん録画もされてる」
車内の空気が一段、冷えた。
「酷ーい! 完全に犯人扱いじゃん!」
由衣が即座に声を荒げる。
「助けたのにそれ? 意味分かんない!」
美穂もハンドルを握る手に力を込めた。
だが、窓の外を見ていた大樹は、振り向いてさらりと口を出す。
「標準的な手続きです」
由衣が不満げな顔を向ける。
「は?」
「第一発見者は、最も重要な情報源であり、同時に最も疑われる位置にもいます。供述の一貫性確認と、物証との照合のため、反復聴取は必須です」
感情の入らない説明だが、それが現実である。
由衣は小さく舌打ちした。
「……分かってるけど、ムカつく」
和也が苦笑する。声は落ち着いていた。
「まあな。でも、やることやってるだけだってのも分かる」
美穂が、これで終わったとばかりに、安堵の声を洩らす。
「ともかくお疲れ様。今晩、ご馳走用意してるから。それから、ゆっくり休んで」
「ありがとう。それで、びっくりしたんだけどさ。その女性、大館先生だった」
「えっ! まじ!?」
美穂が声を裏返し、由衣が質す。
「大館先生って?」
「高三の一学期、美術の臨時教員だった」
「ふーん……」
(何かあったのかも……)
その夜、上田家の茶の間は、ほとんど宴会場と化していた。
大皿料理が並び、酒とノンアルコール飲料が行き交い、笑い声が絶え間なく響く。昼間の重苦しさは、嘘のように霧散していた。
由衣も和也も、自然とその輪に溶け込んでいる。
大樹は少し離れた位置で様子を見ていたが、内心では、あの輪の中に入りたいと思っていた。
その微妙な距離を、見抜いた者がいた。
「福光君と高見沢さんの仲はさー」
美穂の姉が、ニヤリと口火を切る。
言い終える前に美穂が割って入った。
「お姉ちゃん、見れば分かるでしょ。お似合いよね」
姉は視線をずらし、次の獲物を捉える。
「やっぱり! じゃあさ、あなたと橋田君の仲は?」
ここぞとばかり、笑顔で由衣が割り込む。
「お姉さん、見ればお分かりになりますよね。とってもお似合いです」
美穂の兄が満面の笑みを浮かべ、何度も頷く。
「嬉しいね-! 橋田君、こんなコテコテの田舎娘で申し訳ないが、それなりにいいとこもあるし、何より今まで男っ気がまったく……ん? 冷てえぇぇー!」
言い終わる前に、頭に水が垂れた。背後に、美穂が無表情でコップを持って立っていた。
「あんたが悪い。ブッ」
美穂の母親が吹き出だす。
場が笑いに包まれたところで、大樹が口を開いた。
「問題ないです。橋田君は、美穂さんの田舎っぽいところが、大好きなんです」
一瞬、場の空気が止まり、大樹は言い直す。
「あ……橋田君は、美穂さんの田舎的特性を高く評価しています」
由衣が、即座にツッコむ。
「大樹、それ言い換えただけだからね。そもそも、いくら本当のことでも、それは口にしちゃ…… あっ!」
しかし、口が滑って墓穴を掘ってしまった。
「アハハハハハ」
上田家の茶の間は爆笑の渦に包まれる。
ずばり本心を突かれ、和也は意味不明な弁明を始めた。
「いや、その……違うっていうか……だからさ……」
美穂は顔を赤く染めながらも、抗議する。
「大樹君、それちょっと酷い! 由衣も!」
日頃の二人の様子を目にしていた由衣と大樹は、前々から感じ取っていた。
翌日、四人は、わさび農場では、わさびソフトクリーム等、わさびグルメを堪能し、水車小屋を巡る。穂高神社では、何を願ったのか誰も明かさない。上高地では、穂高連峰を目前にしてしばらく言葉を失い、ただ歩き回る。温泉では、和也が「生き返る……」と呟き、大樹が「蘇生したような印象です。”活力が沸く”とか、”生気がみなぎる”とかの方がよいです」と変なツッコミを入れる。
等々、楽し気な会話を弾せつつ、折に触れて写真や動画を撮り、気の置けない仲間同士の典型的な観光客の一日を送った。
翌朝、今日は足を延ばし、美ヶ原から軽井沢へ行く。
朝食を済ませ、出発の支度を整えたところで、警察の車両が二台、上田家の門前に着いた。
和也は再び任意同行を求められた。




