BとG その1 生い立ち
六月初旬。湿り気を帯びた夜風が庭木を震わせ、梅雨の気配が漂う。
風音と、ついさっき知った事実が、寝入りの妨げる。兄の康太から聞かされた話は、あまりに重かった。
福光という姓に覚えがあった康太が調べた結果、大樹の過去が明らかになった。
由衣も以前、”福光”で検索したことがあったが、そのときは何も出てこなかった。大樹が家族の話題をさりげなく避けていた理由を、今になって分かる。
知ってしまった以上、以前と同じように接せられるだろうか。でも、知らないふりをするのは、不誠実に思えた。
十五年前の三月三十日。
神奈川県厚木市の自宅で、大樹の両親、平賀源・当時三十二歳・製薬会社勤務、平賀真紀・当時三十一歳・同じく製薬会社勤務が殺害された。死因はいずれも頸動脈損傷による失血死。死亡推定時刻は午前二時から四時。犯人は、未だ特定されていない。
その夜、日暮れから雪が降り始め、夜半過ぎにみぞれ、明け方には雨へと変わった。足跡も、指紋も、繊維片も、痕跡は何一つ発見されなかった。午前四時、現場で保護された三歳の男児が、大樹である。
その後、大樹は川崎市に住んでいた伯母夫婦に引き取られる。義母は、父・源の実姉にあたる。だが、五歳のとき、幼稚園へ向かう途中、横断歩道で信号無視の車に撥ねられ、義母は死亡した。
一年後、養父は再婚する。妻の連れ子が二人いた。大樹より二つ上の義兄と、一つ下の義妹。血の繋がらない家族の中で、大樹は高校卒業まで暮らす。
そして卒業と同時に、養子縁組を解消。父・源の旧姓・福光へと戻る。父の実兄一家が暮らす、北海道帯広市へ転居した。
由衣が知りたいのは、事実のみではなく。大樹が何を感じ、どう生きてきたかだ。
一晩、悩んだ末、由衣は決めた。知らないふりはしない。ちゃんと向き合おう。
そして、何より抱えているものを、一人で持たせたくなかった。
翌日、土曜日。
窓の光がテーブルの上に、カーテン越しの薄い影を落としている。由衣はコーヒーを淹れ、カップを大樹の前に置いた。
「ねえ、大樹の家族のこと、聞いていい?」
大樹は、ひと呼吸、目の奥に微かな光を宿し、由衣を見つめる。
「事件と、その後のことですよね?」
「うん」
「そのうち聞かれると思ってました。由衣は僕を理解する人だから」
さらりと言って、コーヒーに口をつける。その評価は的確で、由衣は思わず微笑んだ。
「昨日、お兄ちゃんから聞いたの。どうしても気になって」
「お兄さんは、合理的な情報源ですね」
どこかズレた言い回しに、由衣は思わず苦笑する。こういうところは、大樹らしい。
「いいですよ」
拍子抜けするほど、あっさりと大樹は言った。
「お兄ちゃんから、だいたいのことは聞いてるから……、質問に答えて欲しいの」
「了解です。質問形式の方が、情報の精度が上がります」
やはり少し変わっている。この先に、今まで見えなかった大樹の核心がある。そんな予感があった。
「まず、事件の記憶はある?」
「ほとんどない。夕ご飯に卵焼きを食べたこと、窓の外に雪がちらついてたことだけです」
その断片的な記憶の乏しさが、却って重かった。
「伯母さんのところに行ってからは?」
「口が利けなくなった僕に、義母は優しく接してくれて、少しずつ立ち直った。幼稚園に通うようになって、普通に話せるようになりました」
「いい伯母さんだったのね……」
「けど、養父は違ってました」
「どういうこと?」
「義母がいないとき、叩いたり蹴ったり。ある日、二人が大喧嘩をしていた。”あんたとは別れる”って義母の声が聞こえた」
「そんな……。事故のことは覚えてる?」
「覚えてる。車が突っ込んできた。義母はとっさに僕を突き飛ばして、そのまま……」
「……守ってくれたんだ」
この時点で、由衣の目は赤く潤んでいた。
「その後は?」
「義母の葬儀が終わってすぐ、女が子供二人連れて、アパートに居座わりました」
「えっ! 喪も明けないうちに? それって……」
「後から知ったけど、子供は養父の実子です」
「不倫かよ!」
怒りが、そのまま声に乗った。
「北海道の伯父さんは、引き取ってくれなかったの?」
「後で、聞いたんだけど。伯父は、僕を養子にしようとした。けど、養父が拒否しました」
「なんで?」
「多分、僕が相続した両親と伯母の遺産目当てです。後から知ったけど、養父は勤め先で不正が発覚し、解雇されていました」
「最低!」
憤懣で由衣の目はメラメラと燃え上がっていた。
「それからは?」
「地獄でした」
「……聞かせてくれる?」
「養父と義兄に殴られるのが日常。常に痣がありました。養母は露骨に差別しました。例えば、おかずは、僕はコロッケ、皆はトンカツとか。服は下着まで義兄のお古です」
由衣は堪え切れず、大樹の隣に移動し、肩を引き寄せた。
「つらかったわね」
「すぐ、ぶたれるから言葉使いに気をつけました。中学で柔道を始めました」
「自分を守るためね」
「はい。身体もだんだん大きくなり、大会で結果を出すようになると、暴力は終わりました」
「当然よ」
「でも嫌なことが始まったんです」
「なに?」
「高二の頃から義妹が、僕に迫るようになった。医者になるって、つい洩らしてしまったからだと思う。養父母が裏で焚きつけてたのかと」
「最低な連中ね! で、その女って?」
由衣の声は低く、怒りが滲んでいた。
「見た目はそこそこだけど、性格が最悪。意地悪で自分本位。男は美人の自分に尽くすものだと思い込んでました。僕にはしつこかったけど」
「その女、会ったら引っぱたいてやる」
由衣の目がギラギラ光った。
「でも、名和さんのおかげで逃げられました」
「名和さんって?」
「小さい頃から、お菓子くれたり、遊んでくれたり。小六まで近所のボロアパートに住んでたオジサンです。昨年末、学校帰りに声を掛けられました」
「縁があったのね」
「偶然じゃなく、僕の様子を見に来たんです。学習塾の講師だった名和さんは、弁護士になってた」
「へー! 凄い……。それに大樹のこと気にかけてたんだ」
「て、相談しました。いろいろ尽力してくれて、養子解消が認められた。で、伯父の姓、福光に戻りました」
由衣の表情がようやく穏やかになった。
「よかった。話を戻して悪いけど、ご両親と伯母さんの遺産は?」
「あいつらが勝手に使い切ってしまった」
由衣の表情がまた険しくなった。
「何たる強欲の人でなし! 大樹が医者になったら思いっきりたかるつもりだったのね。”お前を育てたのは誰だ”とか言って。名和さんは何とかできなかったの?」
「名和さんから養育費を差し引いても取り分は結構ある。民事訴訟で多少は取り返せる。刑事告訴もできると言われた。けど、あいつら、まともに仕事してない。関わるの面倒でした」
「でも」
「奨学金は目一杯借りたし、何より早く縁を切りたかった」
「はあぁー……、大樹らしい。それが一番かもね」
由衣は、笑みを浮かべながらも呆れた。
「でも、それから大変でした。大学に合格したとき、まだ養父の籍でした。大急ぎで市役所と大学に提出する書類を揃えました。養子解消を進めるにあたって、あいつらに妨害された。名和さんに警告してもらい、全ての手続きを終えました」
「妨害まで…… そこまでするんか!」
「北海道の両親と伯母の墓参りに行き、とんぼ返りでアパートに戻りました。翌日が大学のオリエンテーションで由衣に初めて会いました」
由衣は目を見開き、軽くため息を吐いた。
「はあ、そんなタイミングだったの…… 大変だったわねー、そうとは知らずに、あたし……」
「離れたくて必死でした」
「それでも凄いわよ」
間を置いて、由衣はもう一つだけ聞いた。
「ところで、お母さんの方の親戚はいるの?」
「母は、日系米国人で父が留学中に知り合いました。だから母方の親戚は日本にいないです」
「そうなんだ。平賀ってお母さんの姓よね?」
「はい。籍を入れる際、父は、母の姓にしました」
「あの平賀源内に憧れた?」
「そうです。伯父が言ってました。両親が亡くなって母の両親と妹が日本に来て、僕と伯母と一緒に北海道まで墓参りに来たと伯父から聞きました。今も近況を伝え合っています」
静かな口調だったが、わずかに温もりがあった。由衣は、少し救われた気がした。
由衣は、腑に落ちた。大樹の“少しずれた感じ”の正体が。
丁寧な言葉遣い、過度な礼儀正しさ、柔道三段、変に口が重たい、等々、すべてが一本の線で繋がる。虐待の中で身につけた防御のための習慣、怒りを買わないように、殴られないように、相手を刺激しないように。その結果だった。
そして、安心できる相手、相手が人以外、相手がいないとき、それは崩れ、反動が加わる。微妙に変な言葉使い、表情が幼く無防備に、空気読まない言動、天然。
(これが大樹の本当の姿……)
胸の奥が、熱を帯びる。家族が冗談めかして言っていた“猫のお仲間説”は、たしかに一理ある。だがそれは本能的なものだ。いま目の前にある人格は、歪められてもなお形を保ってきたもの。
由衣の中に、ひとつの方向性が生まれる。もっと信頼させる。もっと安心させる。そして少しずつ、普通の男性近づけていく。日常の振る舞い、女性への接し方、成人男性としてのスキルなど、将来医師になる大樹の為に、あたしが指導する。
だが、それは甚だ楽観的である。特に天然は、”猫のお仲間説”と同様本能的なものだ。
ともかく、それが使命感なのか、身勝手な願望なのか、独占欲なのか、自分でも判然としない。だが由衣は、あえて蓋をした。
「ねえ」
由衣は、大樹を見据えた。
「あたしは大樹のために、これからどうすればいい? 正直に言ってほしい」
大樹は一度だけ頷き、背筋を正した。それにつられるように、由衣も姿勢を整え、向かい合う。
濃紺の瞳が、まっすぐに由衣を捉えた。逃げ場のない静かな光が射す。
「由衣には、近くにいて欲しい。できれば、そのままずっと傍に……」
由衣の胸がキュンとした。思わず顔が綻び、指先で目尻を押さえる。涙が出そうになるのを、なんとか堪えた。大樹が、こんなふうに言葉にしたのは、初めてである。
しかし、由衣は何とか平静を保つ。
「それは、あたしも同じ」
「ほんとに!」
「そうに決まってるでしょ! そういうことじゃなくて。他に、して欲しいことは?」
大樹は視線を落とし、少しの間、考え込む。そして顔を上げた。
「じゃあ、一つだけ」
「なに?」
「卵焼き作って」
あまりにも日常的な要求に、由衣は思わず苦笑した。
「小さい頃から、いろんな卵焼きを食べてきた。伯母の、惣菜屋の、スーバーの、回転寿司の。でも、どれも違う気がします。多分、母のと比べてる。”これじゃない”って分かる。これが母のだって思える卵焼きを、一度でいいから食べたい」
由衣は、しばし言葉を失った。事件の記憶はないと言いながら、味覚という形で残っている。
「……わかった。やってみる」
由衣の中ではすでに段取りが組まれていた。
(卵焼きなんて、バリエーションはいくらでもある。甘さ、出汁、焼き加減。オカンに聞けばレシピはいくらでも出てくる。片っ端から試せば、そのうち当たる)
軽く考えたが、その奥にあるものに、由衣はまだ気づいていない。




