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見える僕と理解する君  作者: 芳里 匡喬


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19/24

BとG その1 生い立ち

六月初旬。湿り気を帯びた夜風が庭木を震わせ、梅雨の気配が漂う。

風音と、ついさっき知った事実が、寝入りの妨げる。兄の康太から聞かされた話は、あまりに重かった。


福光という姓に覚えがあった康太が調べた結果、大樹の過去が明らかになった。

由衣も以前、”福光”で検索したことがあったが、そのときは何も出てこなかった。大樹が家族の話題をさりげなく避けていた理由を、今になって分かる。

知ってしまった以上、以前と同じように接せられるだろうか。でも、知らないふりをするのは、不誠実に思えた。


十五年前の三月三十日。

神奈川県厚木市の自宅で、大樹の両親、平賀源(ひらがげん)・当時三十二歳・製薬会社勤務、平賀真紀(ひらがまき)・当時三十一歳・同じく製薬会社勤務が殺害された。死因はいずれも頸動脈損傷による失血死。死亡推定時刻は午前二時から四時。犯人は、未だ特定されていない。


その夜、日暮れから雪が降り始め、夜半過ぎにみぞれ、明け方には雨へと変わった。足跡も、指紋も、繊維片も、痕跡は何一つ発見されなかった。午前四時、現場で保護された三歳の男児が、大樹である。


その後、大樹は川崎市に住んでいた伯母夫婦に引き取られる。義母は、父・源の実姉にあたる。だが、五歳のとき、幼稚園へ向かう途中、横断歩道で信号無視の車に撥ねられ、義母は死亡した。


一年後、養父は再婚する。妻の連れ子が二人いた。大樹より二つ上の義兄と、一つ下の義妹。血の繋がらない家族の中で、大樹は高校卒業まで暮らす。

そして卒業と同時に、養子縁組を解消。父・源の旧姓・福光へと戻る。父の実兄一家が暮らす、北海道帯広市へ転居した。


由衣が知りたいのは、事実のみではなく。大樹が何を感じ、どう生きてきたかだ。

一晩、悩んだ末、由衣は決めた。知らないふりはしない。ちゃんと向き合おう。

そして、何より抱えているものを、一人で持たせたくなかった。




翌日、土曜日。

窓の光がテーブルの上に、カーテン越しの薄い影を落としている。由衣はコーヒーを淹れ、カップを大樹の前に置いた。


「ねえ、大樹の家族のこと、聞いていい?」

大樹は、ひと呼吸、目の奥に微かな光を宿し、由衣を見つめる。

「事件と、その後のことですよね?」

「うん」

「そのうち聞かれると思ってました。由衣は僕を理解する人だから」

さらりと言って、コーヒーに口をつける。その評価は的確で、由衣は思わず微笑んだ。


「昨日、お兄ちゃんから聞いたの。どうしても気になって」

「お兄さんは、合理的な情報源ですね」

どこかズレた言い回しに、由衣は思わず苦笑する。こういうところは、大樹らしい。


「いいですよ」

拍子抜けするほど、あっさりと大樹は言った。


「お兄ちゃんから、だいたいのことは聞いてるから……、質問に答えて欲しいの」

「了解です。質問形式の方が、情報の精度が上がります」


やはり少し変わっている。この先に、今まで見えなかった大樹の核心がある。そんな予感があった。


「まず、事件の記憶はある?」

「ほとんどない。夕ご飯に卵焼きを食べたこと、窓の外に雪がちらついてたことだけです」

その断片的な記憶の乏しさが、却って重かった。


「伯母さんのところに行ってからは?」

「口が利けなくなった僕に、義母は優しく接してくれて、少しずつ立ち直った。幼稚園に通うようになって、普通に話せるようになりました」

「いい伯母さんだったのね……」

「けど、養父は違ってました」

「どういうこと?」

「義母がいないとき、叩いたり蹴ったり。ある日、二人が大喧嘩をしていた。”あんたとは別れる”って義母の声が聞こえた」

「そんな……。事故のことは覚えてる?」

「覚えてる。車が突っ込んできた。義母はとっさに僕を突き飛ばして、そのまま……」

「……守ってくれたんだ」

この時点で、由衣の目は赤く潤んでいた。


「その後は?」

「義母の葬儀が終わってすぐ、女が子供二人連れて、アパートに居座わりました」

「えっ! 喪も明けないうちに? それって……」

「後から知ったけど、子供は養父の実子です」

「不倫かよ!」

怒りが、そのまま声に乗った。


「北海道の伯父さんは、引き取ってくれなかったの?」

「後で、聞いたんだけど。伯父は、僕を養子にしようとした。けど、養父が拒否しました」

「なんで?」

「多分、僕が相続した両親と伯母の遺産目当てです。後から知ったけど、養父は勤め先で不正が発覚し、解雇されていました」

「最低!」

憤懣で由衣の目はメラメラと燃え上がっていた。


「それからは?」

「地獄でした」

「……聞かせてくれる?」

「養父と義兄に殴られるのが日常。常に痣がありました。養母は露骨に差別しました。例えば、おかずは、僕はコロッケ、皆はトンカツとか。服は下着まで義兄のお古です」

由衣は堪え切れず、大樹の隣に移動し、肩を引き寄せた。

「つらかったわね」


「すぐ、ぶたれるから言葉使いに気をつけました。中学で柔道を始めました」

「自分を守るためね」

「はい。身体もだんだん大きくなり、大会で結果を出すようになると、暴力は終わりました」

「当然よ」

「でも嫌なことが始まったんです」

「なに?」

「高二の頃から義妹が、僕に迫るようになった。医者になるって、つい洩らしてしまったからだと思う。養父母が裏で焚きつけてたのかと」

「最低な連中ね! で、その女って?」

由衣の声は低く、怒りが滲んでいた。


「見た目はそこそこだけど、性格が最悪。意地悪で自分本位。男は美人の自分に尽くすものだと思い込んでました。僕にはしつこかったけど」

「その女、会ったら引っぱたいてやる」

由衣の目がギラギラ光った。


「でも、名和さんのおかげで逃げられました」

「名和さんって?」

「小さい頃から、お菓子くれたり、遊んでくれたり。小六まで近所のボロアパートに住んでたオジサンです。昨年末、学校帰りに声を掛けられました」

「縁があったのね」

「偶然じゃなく、僕の様子を見に来たんです。学習塾の講師だった名和さんは、弁護士になってた」

「へー! 凄い……。それに大樹のこと気にかけてたんだ」

「て、相談しました。いろいろ尽力してくれて、養子解消が認められた。で、伯父の姓、福光に戻りました」


由衣の表情がようやく穏やかになった。

「よかった。話を戻して悪いけど、ご両親と伯母さんの遺産は?」

「あいつらが勝手に使い切ってしまった」


由衣の表情がまた険しくなった。

「何たる強欲の人でなし! 大樹が医者になったら思いっきりたかるつもりだったのね。”お前を育てたのは誰だ”とか言って。名和さんは何とかできなかったの?」

「名和さんから養育費を差し引いても取り分は結構ある。民事訴訟で多少は取り返せる。刑事告訴もできると言われた。けど、あいつら、まともに仕事してない。関わるの面倒でした」

「でも」

「奨学金は目一杯借りたし、何より早く縁を切りたかった」

「はあぁー……、大樹らしい。それが一番かもね」

由衣は、笑みを浮かべながらも呆れた。


「でも、それから大変でした。大学に合格したとき、まだ養父の籍でした。大急ぎで市役所と大学に提出する書類を揃えました。養子解消を進めるにあたって、あいつらに妨害された。名和さんに警告してもらい、全ての手続きを終えました」

「妨害まで…… そこまでするんか!」

「北海道の両親と伯母の墓参りに行き、とんぼ返りでアパートに戻りました。翌日が大学のオリエンテーションで由衣に初めて会いました」

由衣は目を見開き、軽くため息を吐いた。

「はあ、そんなタイミングだったの…… 大変だったわねー、そうとは知らずに、あたし……」

「離れたくて必死でした」

「それでも凄いわよ」


間を置いて、由衣はもう一つだけ聞いた。

「ところで、お母さんの方の親戚はいるの?」

「母は、日系米国人で父が留学中に知り合いました。だから母方の親戚は日本にいないです」

「そうなんだ。平賀ってお母さんの姓よね?」

「はい。籍を入れる際、父は、母の姓にしました」

「あの平賀源内に憧れた?」

「そうです。伯父が言ってました。両親が亡くなって母の両親と妹が日本に来て、僕と伯母と一緒に北海道まで墓参りに来たと伯父から聞きました。今も近況を伝え合っています」

静かな口調だったが、わずかに温もりがあった。由衣は、少し救われた気がした。




由衣は、腑に落ちた。大樹の“少しずれた感じ”の正体が。

丁寧な言葉遣い、過度な礼儀正しさ、柔道三段、変に口が重たい、等々、すべてが一本の線で繋がる。虐待の中で身につけた防御のための習慣、怒りを買わないように、殴られないように、相手を刺激しないように。その結果だった。

そして、安心できる相手、相手が人以外、相手がいないとき、それは崩れ、反動が加わる。微妙に変な言葉使い、表情が幼く無防備に、空気読まない言動、天然。


(これが大樹の本当の姿……)


胸の奥が、熱を帯びる。家族が冗談めかして言っていた“猫のお仲間説”は、たしかに一理ある。だがそれは本能的なものだ。いま目の前にある人格は、歪められてもなお形を保ってきたもの。


由衣の中に、ひとつの方向性が生まれる。もっと信頼させる。もっと安心させる。そして少しずつ、普通の男性近づけていく。日常の振る舞い、女性への接し方、成人男性としてのスキルなど、将来医師になる大樹の為に、あたしが指導する。

だが、それは甚だ楽観的である。特に天然は、”猫のお仲間説”と同様本能的なものだ。

ともかく、それが使命感なのか、身勝手な願望なのか、独占欲なのか、自分でも判然としない。だが由衣は、あえて蓋をした。




「ねえ」

由衣は、大樹を見据えた。

「あたしは大樹のために、これからどうすればいい? 正直に言ってほしい」

大樹は一度だけ頷き、背筋を正した。それにつられるように、由衣も姿勢を整え、向かい合う。

濃紺の瞳が、まっすぐに由衣を捉えた。逃げ場のない静かな光が射す。


「由衣には、近くにいて欲しい。できれば、そのままずっと傍に……」


由衣の胸がキュンとした。思わず顔が綻び、指先で目尻を押さえる。涙が出そうになるのを、なんとか堪えた。大樹が、こんなふうに言葉にしたのは、初めてである。


しかし、由衣は何とか平静を保つ。

「それは、あたしも同じ」

「ほんとに!」

「そうに決まってるでしょ! そういうことじゃなくて。他に、して欲しいことは?」


大樹は視線を落とし、少しの間、考え込む。そして顔を上げた。

「じゃあ、一つだけ」

「なに?」

「卵焼き作って」


あまりにも日常的な要求に、由衣は思わず苦笑した。


「小さい頃から、いろんな卵焼きを食べてきた。伯母の、惣菜屋の、スーバーの、回転寿司の。でも、どれも違う気がします。多分、母のと比べてる。”これじゃない”って分かる。これが母のだって思える卵焼きを、一度でいいから食べたい」


由衣は、しばし言葉を失った。事件の記憶はないと言いながら、味覚という形で残っている。

「……わかった。やってみる」


由衣の中ではすでに段取りが組まれていた。

(卵焼きなんて、バリエーションはいくらでもある。甘さ、出汁、焼き加減。オカンに聞けばレシピはいくらでも出てくる。片っ端から試せば、そのうち当たる)


軽く考えたが、その奥にあるものに、由衣はまだ気づいていない。


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