非常階段 その3 変な冗談
事件の二日後、四時限目の講義が休講になり、由衣と大樹は帰宅前に学内のカフェに立ち寄った。
昼下がりのカフェは、どこか落ち着かない雰囲気に満ちている。誰もが、あの事件を話題から遠ざけている感じだった。
由衣はストローを指で弄びながら、ふと隣の大樹に顔を向けた。
大樹は、相変わらずの心地よさをもたらす、ぼんやりした顔だ。テーブルの上のバッグから例のスケッチブックが覗いている。
(……持ち歩いてるんだ)
そう思ったとき、視界の奥で何かが動いた。男が、ゆっくりと迷いなく、こちらに向かってくる。
(……この人)
由衣の指先が止まり、全身に緊張が走る。
男は二人の席の前で足を止め、そのまま当然のように向かいに腰を下ろした。大樹が、先日スケッチブックに描いた男だった。
「少しお話しできますか?」
低く、よく通る声、柔らかい口調だが断られる前提のない声音である。
由衣は、大樹が不用意に答えるのを恐れてとっさに応じた。
「はい、どのようなことでしょうか?」
「ありがとう。申し遅れました。僕は金山っていいます。医学部三年です。あなた方は医学部一年かな?」
百九十センチを超える長身で、細身に見えて、シャツの下の筋肉が隠しきれていない。整った顔立ちが、逆に作り物めいて見える。近くで見ると圧迫感があった。
由衣は無意識に背筋を伸ばした。
「はい、そうです。私は高見沢、彼は福光です」
金山は由衣を一目見て、すぐに大樹へと視線を移した。
「で、そちらの福光君、事件の日、規制線ギリギリに立ってずいぶん熱心に見てましたね。何か理由があるのかな?」
探るような口調、大樹が口を開くと同時に由衣は割り込んだ。
「金山さんは」
大樹は不満げに口をつぐんだ。
「沢木さんの同期生ですよね?」
「そうです。もっとも僕は就職して一年で辞め、それから三浪してます」
「へぇー! その努力というか、使命感というか、凄いですね」
由衣は相槌を打ちながら、質問を続ける。
「沢木さんは、どうして亡くなったと思われますか?」
「自殺ですね」
さらりと言ってのけた。断定である。
「彼女は一年留年したんですよ。三年になって実習が始まり、血を見るとか、動物を解剖するとか、苦手で、かなり悩んでいたようです」
由衣が次の言葉を口にする前に大樹は、素早くスケッチブックを取り出し、ページを開いて金山の前に差し出した。
「これ、ご覧ください」
沢木愛のポートレートである。
金山は無表情で眺め、冷ややかな顔を大樹に向けた。
「そっくりだな。君は実に絵がうまい。口元のホクロなど彼女の特徴を細かく捉えている」
探るような目線が、大樹に向けられた。
「君は彼女と付き合っていたのかい?」
「いいえ。近くにいたとき、ノートの表紙に沢木愛って書いてありました。沢木さんが亡くなったので描きました」
「亡くなったからって、赤の他人の絵を描く人間は、そう多くないと思うが?」
「笑顔が印象に残ったからです」
大樹は、少し首を傾げる。
「悩みを抱えてるようには見えませんでした」
その一言に、由衣の頬がピクッと震えた。
金山は、一瞬、目を大きく見開いた。
「人は外面だけでは心は読めないからな。で、これをどうするつもりかい?」
「よろしければ差し上げます」
由衣は内心、頭を抱えた。
(なんでそうなるの……!)
「いや、遠慮する」
金山はゆっくりと首を振った。
「彼女を忘れないよう君が持っていたらどうだい? さてと、用事を思い出した。これで失礼する」
金山はすくっと立ち上がり、足早にカフェを出て行った。
由衣は、ほっとした顔を見せる。
「大樹が変なこと言わないか、ハラハラしたんだけど」
「聞いてみたかったことがあったけど、その前に行っちゃいました」
「え、何を?」
「あなたは、沢木さんを殺害しましたか? って」
「キャッ!」
由衣は思わず悲鳴を上げ、周囲の視線が一斉にこちらに向いた。
由衣は胸をなでおろすと同時に、深く後悔した。
(危なかったー)
”あたしがいるときは、誰にでも言いたいこと言いなさいね。フォローするし”、あの言葉は、あまりにも楽観的だった。一度の発言が、取り返しがつかない事態を招くことだってある。まして天然の大樹だ。
由衣は大樹を見据えた。
「そういう変な冗談は、よしなさいね。フォローしきれないから」
大樹はテーブルの上のスケッチブックに目を落とした。
「確かめたかったんです」
「……何を?」
由衣の問いに、大樹は少しだけ考えるように間を置いた。
「反応です」
由衣は、背筋に寒気が走る。カフェのざわめきが遠くなり、無意識に窓の外を見る。
ガラス越しに通路が見え、端にさっき出て行ったはずの金山が立ち、こちらを見ていた。一瞬、目が合ってしまい、瞬時に顔を伏せた。そっと目を上げたら既に姿はなかった。




