非常階段 その2 ポートレート
五月も半ばが過ぎた。
湿り気を帯びた空気が、大学帰りの足取りにまとわりつく。今日の天候は下り坂だった。
いつものように、由衣は大樹のアパートに立ち寄った。
大樹は、部屋に入るや否や机に向かい、スケッチブックを取り出して色鉛筆を握った。
すくさま、叩きつける音が響き、由衣は後ろから覗いた。
大樹は、次々と色鉛筆を切り替え、紙を削るように先を走らせていた。
線が重なり、潰れ、やがてカラーのイラストが浮かび上がる。
「あ、この人」
由衣は思わず声を漏らす。
「今日、食堂で見たよね。背が高くイケメン、でも、なんか引っかかったのよね」
「由衣もそう感じたんだ」
大樹は描き終えると、イラストを乱暴に切り離し、丸めてゴミ箱に放り込んだ。
「え、ちょっと、どうして捨てちゃうの?」
「気分が悪くなるから」
由衣は、胸の奥がざわついた。
(気分が悪くなる絵を、なぜ、わざわざ描いたの?)
翌朝、深夜から明け方にかけての激しい風雨は治まり、朝日で新緑が輝く。
大学に着いた途端、空気が一変した。
通い慣れた建物の周りに規制線が張られ、制服の警察官が立っている。
由衣は、大勢の野次馬の中に上田美穂と橋田和也を見つけ、大樹の手を引いて駆け寄った。
「美穂、何があったの?」
「あら、由衣! 大変なことが起きたの」
美穂は声を潜めながらも、興奮が隠し切れない。
「医学部三年の沢木さんって女子学生がね。建物から転落して亡くなったの。警察が調べてて、今日は全科目休講だって」
「えーっ! 事故? 自殺? それとも……」
腕を組んで眺めていた和也が振り向いた。
「まだ分からないって」
「ん……大樹は?」
大樹は規制線ギリギリまで近付き、身を乗り出していた。視線が建物の壁面から地面へ、そして周囲へと動く。やがて何かに導かれるように建物の裏手へと歩き出した。
由衣は美穂と和也に肩をすくめて見せ、仕方なく着いて行った。
そこにも規制線が張られて警察官が立っていた。
大樹は規制線に半身を押しつけ、先ほど以上に近づいた。
「君、それ以上はダメだよ」
大樹は警察官に注意されるも、素直に引かない。
非常階段から、その下まで視線が移動し、芝生の一角をじっと見つめている。
束の間、何かを確認したように、わずかに頭を下げる。
その仕草が妙に礼儀正しく、由衣は思わず苦笑した。
「はいはい、もういいでしょ」
由衣に手を引かれ、大樹は振り向いたままその場を離れる。視線は芝生に向いていた。
二人がアパートに帰ると、大樹はすぐにスケッチブックを広げた。
昨日と違い、静かな筆遣いである。色鉛筆が、淡々と記憶をなぞっていく。
やがて、二枚の絵が机の上に並んだ。
一枚は、赤いフレームのメガネをかけた女性のポートレート。弾ける笑顔、躍動感が溢れ、元気な声が今にも耳に届きそうである。
もう一枚は、大樹がじっと眺めていた建物の裏手、非常階段とその下の芝生だ。驚くほど正確で、無機質な光景である。
腕を組んで机の上のイラストを眺めている大樹の両肩に、由衣が手を置いた。
「お疲れ。もしかして亡くなった沢木さん?」
「うん」
「食堂とかで見かけて覚えてるのでしょうけど、どうして沢木さんって分かったの?」
「彼女が持っていたノートの表紙に”医学部 沢木愛”って書いてあった」
「ふーん、そんなことまで覚えてる。というか脳に記録されてるんだ」
由衣は、感心しながらも呆れる。
「で、こっち絵の非常階段の辺りを、大樹はじっと眺めていたよね?」
「うん、この辺に沢木さんが倒れていたと思う」
大樹は非常階段の下の芝生に指を置いた。
「なんでわかるの?」
「芝生の具合です」
あまりにも簡潔すぎる説明に、由衣は束の間言葉を失う。
「……なんで描いたの?」
「後で役に立つかも知れないから」
由衣は、それ以上聞くのは止めた。聞いても益々混乱するか、いらぬ心配を抱えることになるからだ。
夕刻、大樹の自宅アパートで、二人はテレビのニュースを見ていた。
「本日午前六時頃、埼玉医療大学構内で、医学部三年の沢木愛さん、二十一歳が心肺停止の状態で発見され、搬送先の病院で死亡が確認されました。警察は、近くの建物からの転落とみて、詳しい経緯を捜査中です」
映像に切り替わり、アナウンサーの背後に、規制線、三棟の建物、非常階段などが映し出される。
「ねえ、大樹。これ、事故だと思う?」
「違うと思います」
「どうして?」
大樹は少々首を傾げた。
「だって、非常階段から放り投げられた感じだから」
「え……」
由衣はしばし絶句する。
(そんなことまで見えるんかい)
「お兄ちゃんに話す?」
「確証持てないから、今は話したくないです」
大樹の口元は歪んでいない。
(ウソは吐いてない)
「警察の仕事だもんね。犯人はそのうち捕まるでしょ」
(よかった。あまり事件に関わって欲しくないし)
由衣の本音である。




