残像 その5 瞳の中
翌日、事件から四日後、歩行者デッキで死亡した江口氏は、何者かにパラチオンを注射されたと報じられた。
パラチオンは国内では販売停止された農薬で、強力な神経毒と周知されている。体内に入れば中枢神経系に深刻な障害をもたらし、心停止、あるいは呼吸不全を引き起こす。
午後、由衣と大樹は大樹のアパートで昼食後のひと時を過ごしていた。
休日で外出しない日は、ここで昼食を済ますのが習慣になっている。大抵は、由衣が残り物を持って来るか、簡単な料理を作る。
「はあ……、お兄ちゃんの話だと、捜査、進んでないらしい」
片肘を立て、由衣はため息を吐いた。
「大樹の描いた男、犯行前も後も、防犯カメラに映ってなかったって」
不機嫌な声を洩らす。
「絵が信用できないって言ってる捜査員もいるみたい」
大樹は上の空、パソコンの画面を眺めている。美穂と和也が送ってくれた膨大な写真と動画を一つ一つ確認していた。
「僕達のばかりで、肝心なものはなかった」
「腹立たつ」
由衣は吐き捨てた。
「もう協力することない……。えっ! 肝心なものって何?」
「被害者の後ろにいた男」
大樹はうつむき加減で軽く首を捻る。目の焦点は定まらず、思考が、どこか深いところへ潜っていくように見えた。
由衣は立ち上がり、後ろから大樹の肩を両手でそっと包む。顔を回し込んで視線を合わせた。
(この人、責任を感じている。それも、自分の領域を越えたところまで)
「大樹、もういいのよ」
由衣は優しく言った。
「大樹が責任感じることじゃないから」
大樹は顔を上げ、由衣を見詰める。
二人の視線が合い、顔が少しずつ接近する。
「あっ」
由衣が目を閉じると同時に、大樹か小さな声を洩らした。
大樹は大急ぎで机の引き出しからA3ノートを取り出し、色鉛筆を掴む。
しばらく待っても唇に触れるはず感触がない。代わりに、強く紙を擦る音が聞こえてくる。
由衣はそろそろと目を開けた。
大樹は凄まじい勢いで色鉛筆を走らせていた。
キスする展開と思い込んでいた由衣は、腹を立てた。
「このガキンチョ」
だが、その声は大樹には届かない。
数分も経たないうちに男の上半身が浮かび上がる。黒のニット帽に黒のジャケット、マスクを付け、目だけが笑っていた。
由衣の目が、大きく開かれた。
「えっ! こいつ見た」
「いつ、どこで?」
「AEDを持ってきたときよ。一瞬こっちを見て下りエスカレーターに乗った」
「こいつ被害者の後ろにいた男だよ。耳タブの形が一緒」
「耳タブって……」
由衣は一瞬、言葉を失うが、直ぐに理解が追い付く。
「犯行後に服装を変えたのね」
「そう」
「大樹は、いつどこで見たの?」
「由衣と同じ。由衣の瞳に映っていた」
「……え?」
ひと呼吸、由衣の思考が止まった。
「それって……、あたしの目に映った光景を覚えてたってこと?」
「うん」
「アハハハハ」
由衣は思わず笑い出してしまった。
「ごめん。凄すぎて、つい」
由衣は笑いながらも、背筋に、微かな寒気が走った。
(この人、どこまでみ見えるの?)
この絵は、すぐに共有された。
由衣がスマホで撮影し、康太に送った。
康太は短い一文を添えて、捜査一課長に転送した。
(犯人は、犯行前後で服装を変えている可能性が高い。福光大樹君の絵は、十分信用に値する。軽視しないように、強く要請します)




