残像 その4 美穂と和也
入学から三週間ほど、新入医学生たちの高揚感は既に跡形もない。
みっちり詰まった講義、頻繁に課されるレポート、息つく暇もない日々に、誰もが目を回していた。
但し一人を除いて。大樹である。
大樹は講義中、ノートを取らない。ただ、ぼんやりと黒板を眺めている。
だが、ときおり鋭い質問を投げる。その一言で、講義の前提が揺らぐことすらあった。若い講師が言葉に詰まる場面も珍しくない。
大樹は、講義の内容と使用される資料を、全て記憶し、理解していた。
由衣は、大学の帰りに大樹のアパートへ必ず立ち寄る。
大樹は帰宅すると、その日印象に残った光景や人物を、スケッチブックに描くか、パソコンの描画ソフトで描き起こす。
一方の由衣は、まず部屋を見回す。洗濯籠や押し入れに溜まっていないか点検する。そのあと、大樹に確認しながらノートを整理する。
早くも固まった二人の日課である。
いつも一緒に行動する由衣と大樹、二人はクラスの誰もが、付け入る隙の無いカップルと見なした。
もっとも社交的な由衣の周りには、常に女子学生が集まり、賑やかな会話が絶えない。
一方、大樹の周りにもクラスメイトが集まる。
講義で理解できなかった点や聞き逃した部分、レポートの相談など、彼に聞けば、的確に、そして丁寧に答えてくれる。
だが、そんな打算的な理由だけではない。
彼の傍には、どこか力の抜けた空気があった。理由は説明できない。それでも、誰もが居心地がいいと感じていた。
そんな二人だから、昼食には、自然とクラスメイトが加わる。
今日、特に親しい二人、実家が長野県安曇野市の上田美穂と、川越市から通う橋田和也が同席した。
「日曜日さ、由衣んちの近くで事件があったでしょ?」
席に着くなり美穂が切り出し、続けて和也が、スマートフォンを差し出した。表示されているのは、SNSに投稿された写真である。
「これさ。福光、お前じゃない? 横にいるの、高見沢さんでしょ?」
由衣は事も無げに答える。
「近くじゃなくて一駅先よ。二人で映画を見に行ったの。これ、確かにあたし達」
「やっぱり! 何があったの?」
二人は興味津々の様子で答えを待っている。
そこへ大機が割り込んだ。
「あの、他に写真……」
由衣は大樹の太ももを軽く叩いた。
(この人、興味が無い話題は耳に入らないの?)
「チケット売り場に並んでいたら、外から騒ぎ声が聞こえて見に行くと、男が倒れていた。二人で救命処置をしたの」
「何で倒れていたの?」
「あのー、他に写真……」
大樹がまた口を挟んだので、由衣はまた太ももを軽く叩いた。
「それは、わかんない」
ニュースでは、死因は発表されていない。
「あの、写真……」
またもや言いかける大樹に、由衣は顔を向けて小さく頷いた。
「他に写真や動画はありますか?」
「俺が見たサイトでは顔が映っているのは無かったな」
「大丈夫、顔がくっきり見えるのは無かったわよ」
美穂と和也は、大樹が自分の顔が映ってないか気にしていると勘違いした。だが、実は違っていた。
「全部送ってくれますか?」
「いいよ。見たやつ全部送る」
「あたしも送るね。みんなにも言っとく」
「福光はアカウント持ってないのか?」
「はい、一つも」
由衣は首を捻った。
今時、SNSをやらない人は珍しい。めったにやらない自分ですら、アカウントは幾つか持っている。
だが同時に、腑に落ちるものがあった。
(この人、無口じゃない)
今までも何か言いいかけて口元が歪むことが、よくあった。親しくない人には、口を噤んでいる。ただ親しい人でも、会話の流れに乗るのは苦手のようだ。’
帰り道で由衣は確認した。
「ねえ、なぜSNSやらないの?」
「誤解されるようなこと、書き込みそうだから」
「思った通り」
由衣は軽く笑った。
(一度、炎上やらかしてるな)
「でも、ストレス溜まるわよ」
「どうすれば?」
「あたしにはもちろん、あたしと一緒のときは、誰にでも言いたいこと言いなさいね。フォローするし」
「わかった。ありがとう」
大樹は嬉しそうに頷いた。
由衣は、思わず笑みをこぼす。
(自分がいれば大丈夫。どんな相手でも、どんなときでも)
しかし、あまりにも楽観的だった。由衣はその後、思い知ることになる。
それは、フォローすればどうにかなるものではなかった。




