魔王
ゾフィーは椅子に座り窓の外を眺めていた。
木々が穏やかな風に揺られてざわめいている。
やわらかい日差しに照らされた草木の緑が、彼女の心を安らかなものにしてくれた。
窓からはオステンブルクの街並みも見渡せた。
あと一時間ほどで太陽は中天に昇る。
食事の用意をしているのだろう。
幾つもの家から煙が上がっているのが見える。
彼女は今、先日までの苦難が夢であったかのように平和で穏やかな時間を過ごしていた。
オステンブルクにたどり着いたシャルロッテとゾフィーは温かく迎え入れられた。
二人を迎えてくれたのは銀髪の美しい少年だった。
ゾフィーはそこで初めて神聖帝国の皇太子であるエルヴィンに会った。
彼を見て、シャルロッテは堪えきれなくなったように泣き出して、止まらなくなってしまった。
それが収まるまで、エルヴィンは優しく彼女を慰め続けた。
ゾフィーはその様子を見て安堵していた。
シャルロッテはもう大丈夫だろうと。
王女を守る彼女の役目はもう終わったのだ。
それから彼女らはオステンブルクの城で過ごすことになった。
当初二人は別々の部屋をあてがわれていたが、シャルロッテの希望で同じ部屋に寝泊まりすることになった。
もうすぐゾフィーはシャルロッテのもとを離れることになる。
だから出来るだけ一緒にいたいと、シャルロッテがそう望んだのだ。
「ゾフィー? 大丈夫?」
窓の外を眺めていたゾフィーにシャルロッテが声をかけてきた。
ゾフィーが物思いに沈んでいたのをシャルロッテが気にしたのだろう。
心配げに顔を覗き込んでくる。
「私では頼りにならないと思うけど、何か心配事があるなら言ってね。ここには頼りになる人たちが沢山いるから、きっと助けてもらえるわ」
シャルロッテの優しさに心の中で感謝しながら、ゾフィーは笑みを浮かべて答えた。
「大丈夫です。シャルロッテ様。あまりに平和なのでつい色々と考え事をしてしまって」
「そうね。この間までの大変さが嘘みたいだわ」
既にこの城に滞在して二週間になる。
エルヴィンも、もうしばらくはこの地に留まるつもりらしかったが、いずれは皇都に帰る事になるだろう。
その時にはシャルロッテもついていくことになる。
ゾフィーはそこで暇を貰い、シャルロッテと別れるつもりだった。
そして、アーデルラントに戻りダニエラの仇を討つ。
うまく事を為せたとしても、きっと生きて戻っては来れないだろう。
「ゾフィーとも、もうすぐお別れなのね」
シャルロッテが悲しげな表情を浮かべて、そう呟く。
「でも、また戻ってきてくれるんでしょう?」
「はい、無事戻ってこれたなら、またお仕えさせていただきたいと思っています」
嘘は言っていない。
もし生きて帰ってくることができたなら、またシャルロッテの傍で仕えさせてもらおう。
きっと、生きて帰ってはこれないだろうけれど。
「うん。待ってるから、出来るだけ早く帰ってきてね」
王女の言葉に、ただ笑みを浮かべて答えた。
その悲し気な表情を見て心が痛む。
シャルロッテはいずれこの国の皇妃となる。
もう自分などいなくても大丈夫なはずだ。
皆が彼女を助けてくれるだろう。
いずれ、自分のことなど忘れてしまうに違いない。
それは悲しいが仕方の無いことだ。
どうかこの優しい王女がこれ以上苦しむことがありませんように。
そう、心の中で祈りを捧げる。
「アンナ様、今日はいらっしゃらないのかしら」
シャルロッテがぽつりとそうつぶやく。
「そうですね。今日はお忙しいのかもしれません」
オステンブルク候の娘であるアンナはよくこの部屋を訪れていた。
彼女は旅の間の真十郎の様子について知りたがった。
シャルロッテとゾフィーは彼がどれほど二人を助けてくれたかを語った。
彼を賞賛し、感謝している事を伝えるとアンナはまるで自分の事のように喜んだ。
そして、なぜ彼はまだ帰って来ないのかとしきりに心配していた。
ゾフィーはそれについては、まるで心配などしていなかった。
どのような環境であったとしても、あの男ならきっと生き残るだろう。
アンナには真十郎が帰ってきたら教えてくれるように頼んでいた。
どうやらアンナは真十郎の小屋に毎日様子を見に行っているらしい。
侯爵令嬢がただの狩人の家に毎日訪れているというのは、どうなのかと普通なら思うかもしれない。
だが、ゾフィーはそうは思わなかった。
あれ程の能力を持つ人物がただの狩人などであるはずがない。
だからこそ、たった一人で王女の救出に派遣されたのだろうから。
きっと彼には一部の人間しか知らない秘密があるのだろう。
そんなことを考えていたゾフィーの耳に、ドアをノックする音が聞こえてきた。
「シャルロッテ様。アンナです」
「まあ、アンナ様? ゾフィー、お願い」
「少々お待ちください」
そう言ってゾフィーはドアの前まで行き、アンナを招き入れた。
「ごきげんよう、シャルロッテ様、ゾフィーさん」
「ごきげんよう、アンナ様。ようこそいらっしゃいました」
入ってきたアンナが笑みを浮かべながら挨拶をする。
心なしか、その表情はいつもよりも上機嫌に見えた。
その胸には布で包まれた棒のようなものを抱えている。
「今日はゾフィーさんにお渡ししたいものがあるんです」
そう言って、アンナは胸に抱えていた物をゾフィーに差し出した。
「私にですか? なんでしょう?」
「真十郎から、これをゾフィーさんに渡してくれって頼まれたんです」
「真十郎殿に? 戻って来ているのですか?!」
「はい、昨日の夜に戻って来たって言ってました」
そう言ってアンナは嬉しそうに笑った。
それを聞いたシャルロッテも嬉しそうに顔をほころばせる。
「まあ、やはり無事だったのですね! あの方の事ですから、心配する必要など無かったのでしょうけれど」
アンナから棒のようなものを受け取ったゾフィーは布を取りその中身を確認する。
出てきたのは一本の杖だった。
その杖は先端にこぶし大の巨大な紅玉がはめ込まれ、その紅玉を取り巻くように数匹の蛇の彫刻が施されていた。
その意匠は精緻で、一目見てそれが非常に高級なものであるとわかる。
そして、ゾフィーはその杖に見覚えがあった。
隣でシャルロッテが息を飲んだのが分かった。
「ゾフィー、これって……」
二人はこの杖が誰の持ち物であったかを知っていた。
そして、その杖がなぜここにあるのか、その理由を考える。
「これを……私にと?」
尋ねる自分の声が震えているのがわかった。
「はい。それで『復讐はもう必要ない』って、そう伝えて欲しいって真十郎に言われたんです。どういうことか尋ねてみたんですけど、そう言えばわかるはずだって言われて……」
その言葉でゾフィーは全てを理解した。
命を懸けてアンドレアスに挑むつもりであると、ゾフィーがそう語ったのをあの狩人は覚えていたのだ。
彼の帰りが遅れたのはこのためだったのだろうか?
別れるとき彼はやることがあると、そう言っていた。
まさか、このために彼は引き返したのか?
もしそうなのだとしたら……
「フフ…フフフ……」
思わず笑みがこぼれた。
頬を温かい何かがつたい落ちていく。
気づけば、ゾフィーは涙を流しながら笑っていた。
「本当に……なんという人だ」
ゾフィーは杖を胸に抱き、その場で膝をつき俯いた。
喉から嗚咽が漏れるのを止めることができなかった。
「えっ、あの……ゾフィーさん? 大丈夫?」
狼狽えるアンナの声が聞こえた。
「ゾフィー!? どうしたの?!」
シャルロッテも戸惑いながら、涙を流すゾフィーの横でおろおろとしていた。
シャルロッテに告白しなければならない。
彼女の元を離れ、アンドレアスに命を賭して挑むつもりであったことを。
もうシャルロッテの元に戻ってくる事が出来るとは思っていなかったことを。
そして、その自分の想いを知っていた狩人が自分を救ってくれたのだということも。
告白して謝罪しなければ……。
だが告白するのはもう少しだけ待ってもらおう。
この感情が収まるまでの少しの間だけ。
ダニエラの仇を討ちたいと思っていた。
シャルロッテのそばにずっといたいと思っていた。
その二つは両立できず、ゾフィーはダニエラの仇を討つことを選んだ。
だが、彼女が選んだ選択肢を狩人が無くしてしまった。
これから先もゾフィーはシャルロッテの傍にいられるのだ。
その安堵と喜び、真十郎に対する感謝やダニエラへの想いなどが混ざり合った感情が、彼女の心を満たしていた。
今はもう少しこの感情に浸っていたい。
告白するのは、この涙を流し終えてからでもいいだろう。
「ありがとう、真十郎殿……」
ゾフィーはそれだけ呟き、狼狽える二人の傍らで気が済むまで涙を流し続けていた。
その日の午後、カールはオステンブルク城内の自室で一人頭を巡らせていた。
色々と考えねばならないことがあった。
やらねばならないことも。
これから忙しくなりそうだ。
そうやって考えを整理していた彼の部屋の扉をノックする者があった。
「僕だよ、カール。お邪魔していいかな?」
「どうぞ」
カールは一旦思考を中断して立ち上がり、入ってきたエルヴィンを迎えた。
「やあ、お邪魔するよ」
「ああ、これは皇太子殿下。ようこそおいでくださいました」
「やめてくれよ、気持ち悪いな」
冗談めかして挨拶したカールに、エルヴィンは苦笑を浮かべて答えた。
二人は部屋に備えられた丸テーブルに向かい合って座る。
席に着いたエルヴィンは呼吸を整えるかのように、大きく息を吐いた。
そして、その顔に真剣な表情を浮かべて口を開いた。
「聞いたかい?」
「何をだ?」
「例の彼のことだよ。帰ってきたんだろ?」
その言葉を聞いて、カールは笑みを浮かべた。
「真十郎か……聞いたとも」
「手土産を持って帰ってきたことも?」
「ああ、聞いた」
エルヴィンは一度天を仰ぎ、大きく息を吐いてから言葉を続けた。
「彼が帰ってくるのが遅れたのはつまり、そういうことだよね?」
「ああ、アンドレアスを追っていたんだろう」
「彼一人で?」
「それ以外考えられんだろう? あいつに仲間はいない」
その答えに、エルヴィンは大げさに肩をすくめて見せた。
「正直、にわかには信じがたい話だよ。君ならどうだい? 強力な魔術師を単身で打ち倒す自信はある?」
「無理だな。だがあいつならやってもおかしくはない」
それを聞いたエルヴィンは呆れたようにため息をついて見せた。
「今回のことも君が推薦するから受け入れたけど、正直半信半疑だったんだ。でも、本当に彼はたった一人で仕事をこなしてみせた。強力な魔術師を単身で排除するっていうおまけ付きでね」
「ああ、信じてよかっただろう?」
得意げにそう口にするカールに、エルヴィンは小さな苦笑を浮かべてみせた。
「まあね。で……彼をどうするつもりだい?」
「どうとは?」
「あれ程の能力を持った人間を、あのままただの狩人にしておくつもりなのかい? もし君がそのつもりなら僕が彼を皇都に連れていきたいんだけど」
「ああ、それについてはあとでお前に話があるんだ。ちょっとした了承と後ろ盾が欲しくてね」
「後ろ盾って僕のかい?」
「ああ、そうだ。お前の後ろ盾だよ。皇太子殿下」
そう言ってカールはニヤリと笑ってみせる。
「ふうん。まあ、話は聞いてみてから判断するとして、何か考えはあるってことなんだね?」
「まあ、本人が了承するなら皇都に連れて行っても構わないんだが、その場合もちょっと条件をつけさせて貰いたいんだ。……ああ、それからアンナには内緒にしておいて貰えるか? あいつにはまだ秘密にしておきたい」
「へえ、アンナに関係があるんだ……ああ、なんとなくわかった気がするよ」
そう言ったエルヴィンの目には楽しげな色が浮かんでいた。
「うーん、でも難しいんじゃないかな」
「相手がたった一人で一万二千の軍勢を追い払った英雄だったとしてもか?」
「ああ、そういえばそうだったね。そうか……うーん、でもやっぱり大変だと思うよ?」
「その辺はまあ、多少強引に持っていってもいいだろう。皇太子殿下の後ろ盾もあることだしな」
それを聞いたエルヴィンは楽しそうに笑みを浮かべる。
「まあ、協力は惜しまないけどさ……それにしても随分楽しそうだね? なんだか僕まで楽しくなってきたじゃないか」
「そうか、皇太子殿下に楽しんでいただけたようで何よりだよ」
そうして二人は顔を見合わせ、お互いに声を上げて笑い出していた。
「……惜しい駒を無くしたな」
男はアーデルラントの王宮内にある自身の寝室で、豪奢な肘掛椅子に腰かけ、一人呟いていた。
時間はもう真夜中に近い。
灯り一つ灯されていない室内を、窓から差し込む月明かりが照らしている。
男は壁際にある姿見に目を向けた。
男の姿は暗がりの中に溶け込み、判別できない。
だが、その中にあっても両目だけは赤く不気味に輝いている。
男の名はゲオルグ。
アーデルラント王と呼ばれている男だ。
その肉体はまぎれもなくゲオルグの物であったが、その精神は今は全く別の者に代わっている。
彼はこの世界では悪魔と呼ばれている異界の存在だった。
彼を喚び出したのはアンドレアスだ。
喚び出し、そしてこの国の王であったゲオルグに憑依させた。
そのアンドレアスが死んだとの報告があった。
何者かに殺されたのだという。
あの男はそれなりの魔術師であったが、所詮人間だ。
人間は些細な事で簡単に死ぬ。
アンドレアスは役に立つ男だった。
それを失ってしまったことを少しだけ残念に思う。
だが、彼が失った力を取り戻しさえすれば、異界から己の眷属を喚び出すことができる。
あれより使える駒をいくらでも喚び出せるようになるだろう。
人としての肉体がうまくなじまないせいで、今の彼は人間よりも多少強い程度の力しか持っていない。
早く本来の力を取り戻さなければならない。
今のままでは人如きが相手でも、たやすく討ち滅ぼされてしまうだろう。
力を取り戻すための儀式を行う準備は整っている。
人の王としての力を使ったおかげで、労せずして準備を整えることができた。
王であるがゆえに目立ちはするが、王であるがゆえの利点も多くある。
あとは星の並びを待つだけだ。
その時が来れば、彼は本来の力を取り戻すことができるだろう。
「クフフ……」
思わず笑みがこぼれていた。
もうすぐ己の力を思う存分に振るうことができるのだ。
それを考えると喜びと愉悦の感情が溢れだしてくる。
彼は静かにその日を待ち続ける。
焦る必要は無かった。
それはもう、そう先のことではないのだから。
ここまでで三章は終了となります。
読んでいただきありがとうございました。




